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王立学院の卒業記念パーティー。その華やかな喧騒が、一瞬にして凍りついた。
会場の中央で、この国の第一王子であるカイルが、一人の令嬢を指さしていたからだ。
「ポルシェ・フォン・アクセル! 私は本日、君との婚約を――」
「はい、破棄ですね! 承知いたしましたわ!」
カイル王子が言い終わるよりも早く、ポルシェは食い気味に返答した。
あまりの反応速度に、カイルは口を半開きにしたまま固まる。
「え……あ、いや、まだ理由を……」
「理由は私との性格の不一致、および、そちらの隣にいらっしゃる男爵令嬢ミミ様への愛の芽生え、といったところですわね! 分かります、分かりますわ! 愛に理屈は不要ですものね!」
ポルシェは扇をパッと広げたかと思うと、次の瞬間にはそれを閉じ、ドレスのポケットから素早く一通の書面を取り出した。
「というわけで、こちら。事前に用意しておいた『婚約解消合意書』でございますわ! 私のサインと実印は既に済ませてあります。あとは殿下、そちらにサインを頂ければ、この件は一分以内に完全決着いたしますけれど、いかがかしら!」
「……早っ。え、何、このスピード感……」
「殿下、時間は有限ですわ。私の人生において、この無駄なやり取りに費やせる時間は残り十秒を切っておりますの。さあ、サインを! 早く!」
ポルシェがぐいっと身を乗り出すと、そのあまりの気迫に押されたカイルは、おどおどとペンを走らせた。
「書いた……書いたよ。でも、ポルシェ、君はもっと悲しんだり、怒ったり……」
「悲しむ暇があるなら、次の予定を立てますわ! では、サイン受領いたしました! これにて私と殿下は赤の他人! ミミ様、殿下をどうぞよろしくお願いいたしますわね。末永く、亀のような歩みでお幸せに!」
「あ、ありがとうございます……? って、亀?」
ミミが首をかしげる暇も与えず、ポルシェはくるりと背を向けた。
その動作はあまりに速く、周囲の貴族たちには彼女の残像が見えたほどだ。
「あ、待ちなさい、ポルシェ! まだ私が君の悪行を糾弾して――」
「冤罪の証明をする時間ももったいないので、全部私がやりましたということで結構ですわ! 証拠の捏造、ご苦労様でした! では、お先に失礼いたします!」
「ええい、話を聞け! 衛兵、彼女を捕らえろ!」
カイルの叫びに反応して、四人の衛兵がポルシェを取り囲もうと動く。
しかし、ポルシェの足は既にトップスピードに達していた。
「失礼、そこ、どいていただけますかしら! 私の時速を邪魔しないで!」
「うわあああ!?」
衛兵たちが彼女に触れることすらできず、風圧に煽られて左右に吹き飛ぶ。
ポルシェはそのままパーティー会場の扉へと直進し、最短ルートを計算して駆け抜けた。
「……行っちゃった」
カイルが呆然と呟く。
会場には、ただ彼女が駆け抜けた後に残された、強い風の余韻だけが漂っていた。
ポルシェ・フォン・アクセル。
公爵家の令嬢でありながら、その異常なまでの行動速度と決断の速さから、「暴走特急」「アクセル全開令嬢」と陰口を叩かれていた女。
彼女にとって、人生とは一秒を争うレースのようなものだった。
会場を飛び出したポルシェは、待機させていた自分の馬車へと飛び乗る。
「御者! 出してちょうだい! 目標、屋敷まで三分!」
「お嬢様、それは流石に馬が死にます!」
「では四分で妥協しますわ! フルスロットルですわよ!」
馬車が猛烈な勢いで走り出し、王宮の門を駆け抜けていく。
ポルシェは車内で、既に次の行動リストを書き出していた。
一、実家に帰って三十分で荷造りをする。
二、お父様に「私は自由になりました」と一秒で報告する。
三、隣国の国境へ向けて爆走する。
「ふう、ようやくスッキリいたしましたわ」
ポルシェは手帳を閉じ、満足げに微笑んだ。
「カイル殿下の喋り方はあまりに遅すぎて、私の耳が腐りそうでしたもの。婚約破棄まで三年間も待たされたのが、人生最大のタイムロスでしたわね」
彼女は前世のことなど一ミリも知らないし、考えたこともない。
ただ、生まれつき「止まったら死ぬ」という強迫観念に近いほどの加速本能を持っていた。
「さあ、私の新しい人生はここから。誰にも追いつけない速度で、幸せを掴み取ってみせますわ!」
馬車が夜の街を、火花を散らすような勢いで疾走していく。
その頃、パーティー会場では、カイル王子がようやく我に返っていた。
「……あ。ポルシェを追放しようと思ったけど、彼女のサイン入りの合意書、これ『慰謝料として国家予算の三%を公爵家に支払う』って項目が入ってるんだけど……」
「なんですって!? 殿下、確認せずにサインしたんですの!?」
「だって、彼女が『早く書け』って急かすから……」
ポルシェの速度は、既に国益すらも脅かし始めていた。
しかし、彼女は止まらない。
なぜなら、彼女のバックミラーには、過去など映っていないのだから。
その時、夜道を爆走する馬車の前に、一人の男が立ちはだかった。
漆黒の馬に跨り、涼しい顔をして、その猛スピードの馬車を見つめている。
「……速いな。だが、まだ加速の余地がある」
男――ゼノン・ド・エンジンは、不敵に笑った。
彼こそが、この世界で唯一、ポルシェの速度に並走できるスペックを持つ男であることを、彼女はまだ知らない。
「あの方は誰かしら? 邪魔ですわね、轢いてしまってもよろしくて?」
「お嬢様、物騒なことをおっしゃらないでください!」
ポルシェとゼノン。
二人の運命が、音速を超えて交わろうとしていた。
会場の中央で、この国の第一王子であるカイルが、一人の令嬢を指さしていたからだ。
「ポルシェ・フォン・アクセル! 私は本日、君との婚約を――」
「はい、破棄ですね! 承知いたしましたわ!」
カイル王子が言い終わるよりも早く、ポルシェは食い気味に返答した。
あまりの反応速度に、カイルは口を半開きにしたまま固まる。
「え……あ、いや、まだ理由を……」
「理由は私との性格の不一致、および、そちらの隣にいらっしゃる男爵令嬢ミミ様への愛の芽生え、といったところですわね! 分かります、分かりますわ! 愛に理屈は不要ですものね!」
ポルシェは扇をパッと広げたかと思うと、次の瞬間にはそれを閉じ、ドレスのポケットから素早く一通の書面を取り出した。
「というわけで、こちら。事前に用意しておいた『婚約解消合意書』でございますわ! 私のサインと実印は既に済ませてあります。あとは殿下、そちらにサインを頂ければ、この件は一分以内に完全決着いたしますけれど、いかがかしら!」
「……早っ。え、何、このスピード感……」
「殿下、時間は有限ですわ。私の人生において、この無駄なやり取りに費やせる時間は残り十秒を切っておりますの。さあ、サインを! 早く!」
ポルシェがぐいっと身を乗り出すと、そのあまりの気迫に押されたカイルは、おどおどとペンを走らせた。
「書いた……書いたよ。でも、ポルシェ、君はもっと悲しんだり、怒ったり……」
「悲しむ暇があるなら、次の予定を立てますわ! では、サイン受領いたしました! これにて私と殿下は赤の他人! ミミ様、殿下をどうぞよろしくお願いいたしますわね。末永く、亀のような歩みでお幸せに!」
「あ、ありがとうございます……? って、亀?」
ミミが首をかしげる暇も与えず、ポルシェはくるりと背を向けた。
その動作はあまりに速く、周囲の貴族たちには彼女の残像が見えたほどだ。
「あ、待ちなさい、ポルシェ! まだ私が君の悪行を糾弾して――」
「冤罪の証明をする時間ももったいないので、全部私がやりましたということで結構ですわ! 証拠の捏造、ご苦労様でした! では、お先に失礼いたします!」
「ええい、話を聞け! 衛兵、彼女を捕らえろ!」
カイルの叫びに反応して、四人の衛兵がポルシェを取り囲もうと動く。
しかし、ポルシェの足は既にトップスピードに達していた。
「失礼、そこ、どいていただけますかしら! 私の時速を邪魔しないで!」
「うわあああ!?」
衛兵たちが彼女に触れることすらできず、風圧に煽られて左右に吹き飛ぶ。
ポルシェはそのままパーティー会場の扉へと直進し、最短ルートを計算して駆け抜けた。
「……行っちゃった」
カイルが呆然と呟く。
会場には、ただ彼女が駆け抜けた後に残された、強い風の余韻だけが漂っていた。
ポルシェ・フォン・アクセル。
公爵家の令嬢でありながら、その異常なまでの行動速度と決断の速さから、「暴走特急」「アクセル全開令嬢」と陰口を叩かれていた女。
彼女にとって、人生とは一秒を争うレースのようなものだった。
会場を飛び出したポルシェは、待機させていた自分の馬車へと飛び乗る。
「御者! 出してちょうだい! 目標、屋敷まで三分!」
「お嬢様、それは流石に馬が死にます!」
「では四分で妥協しますわ! フルスロットルですわよ!」
馬車が猛烈な勢いで走り出し、王宮の門を駆け抜けていく。
ポルシェは車内で、既に次の行動リストを書き出していた。
一、実家に帰って三十分で荷造りをする。
二、お父様に「私は自由になりました」と一秒で報告する。
三、隣国の国境へ向けて爆走する。
「ふう、ようやくスッキリいたしましたわ」
ポルシェは手帳を閉じ、満足げに微笑んだ。
「カイル殿下の喋り方はあまりに遅すぎて、私の耳が腐りそうでしたもの。婚約破棄まで三年間も待たされたのが、人生最大のタイムロスでしたわね」
彼女は前世のことなど一ミリも知らないし、考えたこともない。
ただ、生まれつき「止まったら死ぬ」という強迫観念に近いほどの加速本能を持っていた。
「さあ、私の新しい人生はここから。誰にも追いつけない速度で、幸せを掴み取ってみせますわ!」
馬車が夜の街を、火花を散らすような勢いで疾走していく。
その頃、パーティー会場では、カイル王子がようやく我に返っていた。
「……あ。ポルシェを追放しようと思ったけど、彼女のサイン入りの合意書、これ『慰謝料として国家予算の三%を公爵家に支払う』って項目が入ってるんだけど……」
「なんですって!? 殿下、確認せずにサインしたんですの!?」
「だって、彼女が『早く書け』って急かすから……」
ポルシェの速度は、既に国益すらも脅かし始めていた。
しかし、彼女は止まらない。
なぜなら、彼女のバックミラーには、過去など映っていないのだから。
その時、夜道を爆走する馬車の前に、一人の男が立ちはだかった。
漆黒の馬に跨り、涼しい顔をして、その猛スピードの馬車を見つめている。
「……速いな。だが、まだ加速の余地がある」
男――ゼノン・ド・エンジンは、不敵に笑った。
彼こそが、この世界で唯一、ポルシェの速度に並走できるスペックを持つ男であることを、彼女はまだ知らない。
「あの方は誰かしら? 邪魔ですわね、轢いてしまってもよろしくて?」
「お嬢様、物騒なことをおっしゃらないでください!」
ポルシェとゼノン。
二人の運命が、音速を超えて交わろうとしていた。
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