婚約破棄? 承知いたしました。では、こちらにサインを。

どんぶり

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王宮、謁見の間。

そこには重苦しい沈黙が流れていた。

玉座に座る国王公は、眉間を押さえながら、目の前に立つ令嬢を凝視している。

その隣では、昨夜の失態により顔を青白くさせたクロード王子が、借りてきた猫のように小さくなっていた。

「……ベルモット・フォン・アグレットよ。昨夜の騒ぎ、そして我が財務副大臣を震え上がらせたという請求書の件、詳しく聞かせてもらおうか」

国王の威圧的な声が響く。並の令嬢であれば失神してもおかしくない状況だ。

しかし、ベルモットは優雅にカーテシーを捧げると、迷いなく顔を上げた。

「恐れ入ります、陛下。詳しく、とのことですので、視覚資料を用意いたしました。セバス、例のものを」

控えていたセバスが、手際よく大きな三脚と、何枚もの厚紙を広げた。

「……何だ、それは」

「『クロード殿下維持管理コスト及び、婚約継続による負債推移図』でございます。陛下、お座りになったままで結構ですので、こちらのグラフをご覧ください」

ベルモットは指示棒を取り出し、一番上の紙を指し示した。

「まず、こちらの赤いライン。これは過去十年間、我が家が殿下の『教育』及び『交際』に投じた直接経費です。右肩上がりなのがお分かりいただけるでしょうか?」

「教育だと? 王子には王宮から最高の家庭教師をつけていたはずだが」

「いいえ。殿下が『勉強したくない』と逃げ出すたびに、私が家庭教師を説得し、あるいは私が代行してレポートを作成しておりました。私の時給を王宮の専属教師の三倍と仮定した場合、人件費だけでこの額になります」

ベルモットは淡々と数字を読み上げる。

クロード王子が「ま、待てベルモット! あれは二人の愛の共同作業だっただろう!」と叫ぶが、彼女は一瞥もくれない。

「次にこちらの青いグラフ。これは『殿下がやらかした不祥事の揉み消し費用』です。夜会での失言、独断での不適切な商談の破棄……。これらをアグレット家の名を使って収束させるために費やした、外交的・経済的コストを算出したものです」

「……うむ。それは、確かに心当たりがある」

国王が苦い顔で頷く。

「極めつけはこちらです。殿下がメアリ様という『不適切資産』に執着したことによる、アグレット家のブランド毀損損失。この一カ月で、我が家の関連商店の株価は二パーセント下落しました。この損失分を補填していただく必要があります」

「株価だと!? そんなもの、王家に関係なかろう!」

クロードが反論するが、ベルモットは冷ややかに微笑んだ。

「関係ありますわ。王家と公爵家は、国家経営における共同出資者のようなもの。一方のパートナーが不貞という不誠実な行為を働けば、その信用力は失墜し、市場全体に悪影響を及ぼします。これはもはや、国家に対する背信行為と言っても過言ではありません」

「背信行為……。ベルモットよ、お前は王家を訴えるつもりか?」

国王の目が鋭くなる。

「いいえ、陛下。私はあくまで、円満な『事業提携の解消』を提案しているに過ぎません。清算を曖昧にすれば、後に遺恨が残り、貴族社会の流動性が失われます」

ベルモットは指示棒を置き、懐から一枚の契約書を取り出した。

「現金での一括支払いが困難であることは、昨夜の財務副大臣との面談で確認済みです。ですので、私は代替案を提示いたします。……北部『グラウ荒野』の全権利の譲渡。これをもって、全ての債務を相殺(チャラ)といたしましょう」

「グラウ荒野……。あそこは、魔物の残滓が漂う死の土地だぞ? 本当に、それでいいのか?」

「はい。私は『価値がないとされるもの』を再生させるプロセスに、高い投資価値を感じるタイプなのです。無能な王子を王に育てるよりは、よほど効率的かと」

「貴様! 父上の前で何ということを!」

クロードが激昂するが、国王はそれを手で制した。

国王はベルモットをじっと見つめ、やがて深いため息をついた。

「……分かった。ベルモット。貴女の言う通り、この不毛な議論を続けるのは時間の無駄だな。グラウ荒野の譲渡を認めよう。その代わり、今後一切、王家に対して追加の請求を行わないと誓印せよ」

「ありがとうございます。既に誓約書も用意してあります。こちらにサインと印を」

ベルモットは淀みない動作で、魔法の契約書を国王の前に差し出した。

国王が署名を終えた瞬間、契約書が黄金色に輝き、二つに分かれてそれぞれの手に収まる。

「これで、手続き完了です。……クロード殿下、短い間でしたが、貴重な『反面教師』として学ばせていただき、感謝いたしますわ」

「な……、反面教師だと!?」

「ええ。あなたのような判断ミスを犯さないよう、今後の人生の糧にさせていただきます」

ベルモットは完璧な、しかし心のこもっていない微笑を浮かべた。

「それでは陛下、失礼いたします。領地経営の準備がありますので。……ああ、そうだ。殿下、メアリ様との『真実の愛』、維持費がかさまないようお気をつけくださいませ。愛だけでは、お腹は膨れませんから」

ベルモットは華麗に踵を返すと、謁見の間を後にした。

背後で「待て! ベルモット!」と叫ぶ王子の声がしたが、彼女は一度も振り返らなかった。

「セバス、聞こえましたか? 今、私の資産が土地という形で一気に拡大しましたわよ」

「お見事でございました、お嬢様。……しかし、あの荒野、本当に大丈夫なのですか?」

「ふふ、セバス。私はギャンブルはしません。あれは確実な『勝ち戦』です」

ベルモットの足取りは、いつになく軽やかだった。

王都の喧騒を離れ、目指すは最果ての荒野。

彼女の本当の快進撃は、ここから始まるのだ。
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