その婚約破棄、今すぐに承諾いたしますわ。

ツナ

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「……なんだ、この数字の羅列は。暗号か?」

王城の一角、第一王子アレンの執務室。

以前はノワルが座っていた文机の前に、今はアレン自身が座り、脂汗を垂らしながら書類と睨めっこをしていた。

机の上に積み上がっているのは、未決裁の書類の山。

その高さは、かつてキースの屋敷にあった「ゴミ屋敷」ほどではないにせよ、ここ数日で急激に成長していた。

「アレン様ぁ。まだ終わらないんですかぁ?」

ソファで退屈そうに足をぶらつかせているのは、ミナだ。

彼女は安っぽいクッキーをかじりながら、甘ったるい声を出した。

「もう三時間もそこ座りっぱなしですよぉ。そろそろ休憩してお茶にしましょうよぉ」

「……待て、ミナ。今、計算をしているんだ」

アレンは羽ペンを握りしめ、イライラとこめかみを押さえた。

「えーと、国境警備隊の食費が月額五千ゴールドで、人員が三割増えたから……五千かける一点三は……えーと……」

「そんなの、適当でいいじゃないですかぁ。どうせ誰も見てませんよ」

「そうはいかん! 宰相がうるさいんだ! 『予算が合わない』『帳尻が合わない』と、毎日毎日ガミガミと……!」

アレンは書類をぐしゃりと掴んだ。

おかしい。

こんなはずではない。

以前――ノワルが婚約者だった頃は、執務室での時間はもっと優雅だったはずだ。

アレンが「公務をする」と言って部屋に来ると、ノワルはすでに部屋にいて、「殿下はこちらのサインだけお願いします」と数枚の紙を差し出すだけだった。

残りの時間は、ミナと密会したり、詩を読んだりして過ごしていた。

それが「公務」だと思っていたのだ。

「……おい、ミナ。お前、計算はできるか?」

「えっ? できませんよぉ。私、数字見ると頭がクラクラしちゃうんですぅ」

「……そうか。可愛いな」

以前なら「守ってやりたい」と思ったその言葉が、今は妙に癇に障った。

(役に立たん……)

アレンは思わず心の中で毒づいた。

その時、バンッ! と扉が開いた。

「アレン殿下!! いい加減になさいませ!!」

入ってきたのは、顔を真っ赤にした宰相だった。

背後には、大量の未処理書類を抱えた文官たちが控えている。

「げっ、宰相……」

「『げっ』ではありません! 先週提出していただくはずだった『河川改修工事』の決裁書、まだ出来ていないのですか!?」

「い、今やっているところだ! 急かすな!」

「今やっている!? 工事はとっくに始まっているのですよ! 現場監督から『給料が振り込まれない』と苦情が殺到しています! ストライキ寸前ですぞ!」

「なっ……知らん! そんな細かいこと、下の者で処理しろ!」

「殿下の署名と予算承認印がなければ、国庫は開きません! それが王族の義務でしょう!」

宰相は机の上に、ドンと新たな書類の束を叩きつけた。

「それに、これを見てください! 昨日殿下が提出した『騎士団装備発注書』です!」

「ああ、それならやったぞ。完璧だろ」

「どこがですか! 『剣を五百本』発注すべきところが、『剣を五万本』になっています! 桁が二つも違う! このまま発注していたら国家破産でしたぞ!」

「ご、五万……?」

アレンは目を白黒させた。

「た、ただの書き間違いだろう。ゼロが一つ二つ増えたくらいで……」

「その『ゼロ一つ』が命取りなのです! ……ああ、もう! ノワル嬢がいた頃は、こんなミスは一度もなかったのに!」

宰相が思わず漏らした言葉に、アレンの動きが止まった。

「……なんだと?」

「事実です! ノワル嬢は、殿下がサボっている間、黙々と計算し、下書きを作り、法的チェックまで済ませておられました! 殿下がなさっていたのは、最後のサインだけだったのですよ!」

「嘘だ……あいつは、ただ部屋の隅で本を読んでいるだけだったはずだ!」

「本の中に帳簿を挟んでいたのです! 彼女の配慮に気づかないとは……殿下はどこまで愚鈍なのですか!」

宰相の怒号が響き渡る。

アレンは呆然と手元の書類を見た。

難解な専門用語。複雑な計算式。

これらを、あの無愛想で、可愛げのない女が、全て一人で処理していたというのか?

「で、でもぉ宰相様ぁ! 過ぎたこと言っても仕方ないじゃないですかぁ!」

空気を読まないミナが口を挟んだ。

「ノワル様がいなくなった分は、他の文官さんが頑張ればいいだけでしょ? アレン様を責めないでください!」

「黙りなさい! 男爵令嬢ごときが国政に口を出すな!」

「ひっ!」

宰相の一喝に、ミナが縮み上がる。

「文官たちはすでに徹夜続きで倒れています! ノワル嬢の処理能力は、文官十人分に相当していたのです! その穴埋めなど、そう簡単にできるものではありません!」

宰相は深いため息をつき、冷ややかな目でアレンを見た。

「……殿下。このままでは、国政が滞り、民の生活に支障が出ます。早急に業務を進めてください。……今日中に終わらなければ、国王陛下にご報告させていただきます」

「なっ……父上にだけは!」

「では手を動かしてください! 休憩などしている暇はありませんぞ!」

宰相たちは嵐のように去っていった。

残されたのは、山積みの書類と、青ざめたアレン、そして怯えるミナだけ。

「……ど、どうしよう、アレン様……」

「うるさい! 話しかけるな!」

アレンは叫び、再びペンを握った。

しかし、震える手ではまともな字も書けない。

頭の中をよぎるのは、黒いドレスを着て冷笑していたノワルの顔だ。

『公務の処理能力や外交の手腕よりも、殿下の庇護欲を満たすことが優先であると?』

彼女の言葉が、呪いのようにリフレインする。

「くそっ……くそっ! あいつ、俺にこんな面倒な仕事を押し付けていたのか!」

逆恨みだった。

自分の無能さを棚に上げ、アレンはノワルへの憎しみを募らせる。

だが、その憎しみと同じくらい、強烈な焦燥感が彼を襲っていた。

(このままではマズい……本当に父上にバレたら、廃嫡(はいちゃく)もあり得る……!)

***

一方その頃。

グランディール公爵邸、執務室。

「……っくしゅ!」

私は盛大にくしゃみをした。

書類の端が少し揺れる。

「……汚いぞ、ノワル」

向かいの席で書類を見ていたキースが、顔をしかめた。

「失礼。誰かが私の噂をしているようです。おそらく、呪詛(じゅそ)に近いレベルの」

私は鼻をすすり、ティッシュで拭った。

「呪詛か。……王城の方角から、黒い煙が見える気がするがな」

キースは窓の外、王城のある方向をちらりと見た。

「現在、王宮の事務処理スピードが著しく低下しているとの情報が入っている。……お前の仕業か?」

「人聞きが悪い。私は何もしていませんよ」

私は優雅に紅茶を啜った。

「ただ、『何もしなくなった』だけです」

「……性格が悪いな」

「適正な評価です。私が抜けた穴は、私が埋めていた分だけ空く。物理の法則ですね」

私は手元の帳簿に視線を戻した。

「アレン殿下の処理能力は、新人文官以下です。今頃、書類の山に埋もれて泣いているか、あるいはミナ様に八つ当たりでもしている頃でしょう」

「……国が傾くのは困るんだがな」

「大丈夫ですよ。あと一週間もすれば、宰相閣下が限界を迎えて、外部に助けを求めるはずですから」

「外部?」

「ええ。例えば……優秀な事務官を抱えている、どこぞの公爵家とか」

私はニヤリと笑い、キースを見た。

キースは少し考え、それから呆れたように笑った。

「……なるほど。そこまで計算済みか」

「需要と供給です。彼らが泣きついてきた時こそ、交渉のチャンス。……その時は、特別料金(プレミアム・プライス)を請求させていただきます」

「お前……本当に商魂たくましいな」

「お褒めにあずかり光栄です」

私はペンを走らせる。

王城の混乱など、対岸の火事だ。

今の私には、キースの領地経営という、やりがいのある(そして金になる)仕事がある。

「さあ、公爵様。次の案件です。北の鉱山の採掘権、更新時期が来ています。今回は強気に交渉しましょう。三割増しで」

「……鬼だな」

「事務官です」

平和な(?)執務室に、ペンの音と、私の電卓を叩く音が軽快に響く。

だが、私の予想よりも早く、事態は動こうとしていた。

王子のプライドと焦りが、彼にとんでもない行動を取らせようとしていることに、私はまだ気づいていなかった。

――翌日。

王城から、一通の親展書簡が届く。

差出人は、アレン・グランディール。

内容は、極めてシンプルかつ、自己中心的なものだった。

『至急、王城に来られたし。話がある』

私はその手紙を、人差し指と親指で摘み、汚いものを見るような目で一瞥した。

「……公爵様。これ、着払い(郵送料相手持ち)で送り返していいですか?」

「読んでやれ。……ネタにはなる」

キースの許可を得て、私は嫌々ながら封を切った。

そこには、私の平穏な午後をぶち壊す、驚愕の提案が書かれていたのである。
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