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「ついに、ついにこの時が来ましたわ! 見てちょうだい、サーシャ、ミーナ様。私の魂が求めていた、楽園の入り口ですわ!」
私は馬車の窓から身を乗り出し、立ち上る白煙と、鼻を突く硫黄の香りに歓喜の声を上げた。
ここは王領との境に位置する、国内最高級の温泉地。
婚約破棄の慰謝料代わりにふんだくった、あの「永久フリーパス」が火を吹く時が来たのだ。
「お嬢様、落ち着いてください。ドレスの裾が泥で汚れますわよ」
「構いませんわ! 汚れなど、温泉に浸かればすべて浄化されます! 私の脳に蓄積された、フェリクス様の領地の赤字データも、すべてこのお湯に流して見せますわ!」
私は馬車が止まるのももどかしく、ステップを飛び降りた。
だが、そこで私の視界を遮るように、巨大な壁……もとい、フェリクス様が立ちふさがった。
「ルゥ。はしゃぐのはいいが、まずは周囲の安全確認だ。ここは王領に近い。不届き者が潜んでいる可能性もある」
「フェリクス様、あなた、なぜ付いてきたのですか。私は一人で、あるいは女子会としてここを堪能するつもりだったのですが」
「騎士団長として、重要機密保持者であるお前を一人にするわけにはいかないだろう。それに、ここの管理体制には以前から不穏な噂がある」
フェリクス様は腰の剣に手をかけ、鋭い眼光を周囲に飛ばした。
彼の殺気のせいで、せっかくの温泉情緒が台無しである。
すれ違う観光客たちが、一斉に顔を青くして逃げ出していくのが見えた。
「……あなたの存在自体が、一番の不穏要素ですわ。まあ、いいでしょう。せっかくですから、あなたにも私の『効率的な入浴術』を教えてあげますわ」
私たちは予約していた最高級旅館「白煙閣」の門を潜った。
だが、出迎えた支配人の男は、私の差し出したフリーパスを見るなり、鼻で笑った。
「おやおや、お嬢さん。どこでそんな偽造品を拾ってきたのか知りませんが、本日は満室ですよ。それに、そのパスは先代の国王様が発行した古いものだ。現在の王宮の認可がなければ、ただの紙切れですな」
「……偽造品? 古い?」
私は、パチンと扇子を閉じた。
私の額に青筋が浮かぶ。
これほどまでに「非効率」で「不誠実」な対応は、私の悪役令嬢としての矜持が許さない。
「支配人さん。このパスは、現国王陛下が直々に署名し、私の婚約破棄に伴う精神的苦痛への正当な対価として授与されたものですわ。それを偽造品と呼ぶのは、国王陛下への反逆罪と見なしてもよろしいのかしら?」
「へ、陛下への反逆だと? 脅しても無駄ですよ! ここは王領の役人であるガルド様が管理している。余所者の令嬢が口を出せる場所じゃないんだ!」
支配人の背後から、恰幅の良い、見るからに強欲そうな役人が現れた。
彼は私の顔を舐めるように見回すと、下卑た笑みを浮かべた。
「ほう、美しい令嬢だ。どうしても泊まりたいというなら、別の方法で支払ってもらってもいいが……?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、背後の空気が凍りついた。
フェリクス様が一歩前に出ただけで、周囲の気温が五度ほど下がった気がする。
「おい、今、何と言った。この女性を誰だと思っている」
「ひ、ひっ……! な、なんだお前は! 騎士の分際で、王宮の役人に楯突くつもりか!」
「俺は王宮騎士団長、フェリクス・グランザードだ。この地が王領であろうと、俺の目の前で不敬を働く者は、現行犯で叩き斬る権利を持っているが……試してみるか?」
フェリクス様がわずかに剣を抜くと、刃の鋭い光が役人の鼻先をかすめた。
役人と支配人は、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「ま、待ってください! 冗談です、冗談ですとも! すぐに一番良い部屋をご用意します!」
「……フェリクス様。暴力は非効率だと言ったはずですが、たまには役に立ちますわね」
私は震える支配人から鍵をひったくると、悠々と館内へ足を踏み入れた。
ミーナ様が「流石です師匠! 正論と物理のコンビネーション、勉強になりますわ!」とメモを取っているが、今はそれどころではない。
数分後。
私は貸切の露天風呂に浸かり、極上の幸福に包まれていた。
目の前には雪化粧をした山々が広がり、お湯の温度も完璧だ。
「……極楽だわ。あの王子と結婚していたら、一生こんな時間は持てなかったわね」
そう呟き、私が目を閉じたその時。
背後の竹垣が、ミシミシと不穏な音を立てた。
「ルゥ。湯加減はどうだ。外に刺客の気配はない。安心して浸かっていろ」
「……フェリクス様。なぜ、竹垣一枚隔てただけの場所で警護しているのですか。それ、警護ではなく覗きの準備に見えますわよ」
「馬鹿を言え。俺は職務に忠実なだけだ。……ただ、その、少しだけお前の声が聞こえてくると、その、呼吸が整わなくなるだけで……」
「……さっさと向こうの男湯へ行きなさい! さもないと、ここから風呂桶を投げつけますわよ!」
私の怒声が温泉街に響き渡った。
癒やしに来たはずなのに、どうして私の周りには常にこうも騒がしい人間が集まるのか。
私は再びお湯に身を沈め、自分の頬が湯気のせいだけではなく赤くなっているのを、誰にも見られないように隠した。
自由への道は、どうやら温泉のように熱く、のぼせそうなほど波乱に満ちているらしい。
私は馬車の窓から身を乗り出し、立ち上る白煙と、鼻を突く硫黄の香りに歓喜の声を上げた。
ここは王領との境に位置する、国内最高級の温泉地。
婚約破棄の慰謝料代わりにふんだくった、あの「永久フリーパス」が火を吹く時が来たのだ。
「お嬢様、落ち着いてください。ドレスの裾が泥で汚れますわよ」
「構いませんわ! 汚れなど、温泉に浸かればすべて浄化されます! 私の脳に蓄積された、フェリクス様の領地の赤字データも、すべてこのお湯に流して見せますわ!」
私は馬車が止まるのももどかしく、ステップを飛び降りた。
だが、そこで私の視界を遮るように、巨大な壁……もとい、フェリクス様が立ちふさがった。
「ルゥ。はしゃぐのはいいが、まずは周囲の安全確認だ。ここは王領に近い。不届き者が潜んでいる可能性もある」
「フェリクス様、あなた、なぜ付いてきたのですか。私は一人で、あるいは女子会としてここを堪能するつもりだったのですが」
「騎士団長として、重要機密保持者であるお前を一人にするわけにはいかないだろう。それに、ここの管理体制には以前から不穏な噂がある」
フェリクス様は腰の剣に手をかけ、鋭い眼光を周囲に飛ばした。
彼の殺気のせいで、せっかくの温泉情緒が台無しである。
すれ違う観光客たちが、一斉に顔を青くして逃げ出していくのが見えた。
「……あなたの存在自体が、一番の不穏要素ですわ。まあ、いいでしょう。せっかくですから、あなたにも私の『効率的な入浴術』を教えてあげますわ」
私たちは予約していた最高級旅館「白煙閣」の門を潜った。
だが、出迎えた支配人の男は、私の差し出したフリーパスを見るなり、鼻で笑った。
「おやおや、お嬢さん。どこでそんな偽造品を拾ってきたのか知りませんが、本日は満室ですよ。それに、そのパスは先代の国王様が発行した古いものだ。現在の王宮の認可がなければ、ただの紙切れですな」
「……偽造品? 古い?」
私は、パチンと扇子を閉じた。
私の額に青筋が浮かぶ。
これほどまでに「非効率」で「不誠実」な対応は、私の悪役令嬢としての矜持が許さない。
「支配人さん。このパスは、現国王陛下が直々に署名し、私の婚約破棄に伴う精神的苦痛への正当な対価として授与されたものですわ。それを偽造品と呼ぶのは、国王陛下への反逆罪と見なしてもよろしいのかしら?」
「へ、陛下への反逆だと? 脅しても無駄ですよ! ここは王領の役人であるガルド様が管理している。余所者の令嬢が口を出せる場所じゃないんだ!」
支配人の背後から、恰幅の良い、見るからに強欲そうな役人が現れた。
彼は私の顔を舐めるように見回すと、下卑た笑みを浮かべた。
「ほう、美しい令嬢だ。どうしても泊まりたいというなら、別の方法で支払ってもらってもいいが……?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、背後の空気が凍りついた。
フェリクス様が一歩前に出ただけで、周囲の気温が五度ほど下がった気がする。
「おい、今、何と言った。この女性を誰だと思っている」
「ひ、ひっ……! な、なんだお前は! 騎士の分際で、王宮の役人に楯突くつもりか!」
「俺は王宮騎士団長、フェリクス・グランザードだ。この地が王領であろうと、俺の目の前で不敬を働く者は、現行犯で叩き斬る権利を持っているが……試してみるか?」
フェリクス様がわずかに剣を抜くと、刃の鋭い光が役人の鼻先をかすめた。
役人と支配人は、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「ま、待ってください! 冗談です、冗談ですとも! すぐに一番良い部屋をご用意します!」
「……フェリクス様。暴力は非効率だと言ったはずですが、たまには役に立ちますわね」
私は震える支配人から鍵をひったくると、悠々と館内へ足を踏み入れた。
ミーナ様が「流石です師匠! 正論と物理のコンビネーション、勉強になりますわ!」とメモを取っているが、今はそれどころではない。
数分後。
私は貸切の露天風呂に浸かり、極上の幸福に包まれていた。
目の前には雪化粧をした山々が広がり、お湯の温度も完璧だ。
「……極楽だわ。あの王子と結婚していたら、一生こんな時間は持てなかったわね」
そう呟き、私が目を閉じたその時。
背後の竹垣が、ミシミシと不穏な音を立てた。
「ルゥ。湯加減はどうだ。外に刺客の気配はない。安心して浸かっていろ」
「……フェリクス様。なぜ、竹垣一枚隔てただけの場所で警護しているのですか。それ、警護ではなく覗きの準備に見えますわよ」
「馬鹿を言え。俺は職務に忠実なだけだ。……ただ、その、少しだけお前の声が聞こえてくると、その、呼吸が整わなくなるだけで……」
「……さっさと向こうの男湯へ行きなさい! さもないと、ここから風呂桶を投げつけますわよ!」
私の怒声が温泉街に響き渡った。
癒やしに来たはずなのに、どうして私の周りには常にこうも騒がしい人間が集まるのか。
私は再びお湯に身を沈め、自分の頬が湯気のせいだけではなく赤くなっているのを、誰にも見られないように隠した。
自由への道は、どうやら温泉のように熱く、のぼせそうなほど波乱に満ちているらしい。
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