悪役令嬢、本日をもって返上!本気で泣くとでも思いました?

ツナ

文字の大きさ
19 / 28

19

しおりを挟む
「フェリクス様。改めて確認しますが、ここへ移動するのに要した馬車での三十分。往復で一時間の損失。これ、私の時給に換算するとどれほどの国家損失になるか、計算されていますの?」


私は、フェリクス様の別邸にある豪奢なソファに深く腰掛け、不機嫌を隠そうともせずに問いかけた。
窓の外には、王都の喧騒から切り離された静かな森と、美しい湖が月光に照らされている。
ロマンチックの極致のようなロケーションだが、私にとっては「市場から遠く、情報の伝達速度が遅い非効率な拠点」にしか見えない。


「時給の話はやめろ。お前は昨日、あの投資説明会であれだけの人数を敵に回したんだぞ。逆恨みした輩が刺客を放つ可能性は、統計学的に見ても百パーセントに近い」


「刺客くらい、ミーナ様が用意した罠と、私の正論で返り討ちにできますわ。……それとも、王宮騎士団長ともあろう方が、自分の領地内の治安に自信がないとお仰るのかしら?」


私が挑発的に扇子を向けると、フェリクス様はため息をつき、私の隣にこれ以上ないほど距離を詰めて座った。
彼の肩と私の肩が触れ合う。
鍛え上げられた体の熱が伝わってきて、私の計算高い脳が一瞬だけフリーズを起こした。


「治安の問題ではない。俺が、お前を誰にも邪魔されない場所に閉じ込めておきたいだけだ」


「……それは、法的な拘束ですか? それとも、ただの私情による勾留かしら」


「後者だ。ルゥ、お前は働きすぎだ。ここ数日、お前の頭の中には数字と予算案しかなかっただろう。今夜くらい、目の前にある『俺』という存在だけを見ていろ」


フェリクス様はそう言うと、テーブルに置かれた最高級のワインをグラスに注いだ。
芳醇な香りが広がるが、私は即座にその銘柄を特定し、仕入れ値を逆算してしまう。


「このワイン、一本で村の広場の石畳をすべて舗装し直せるほどの価格ですわね。……そんな高価なものを、ただの水分補給として消費するのは非効率の極みですわ」


「……水分補給ではない。これはお前の強張った心を溶かすための投資だ。配当は、お前の笑顔でいい」


フェリクス様の瞳が、揺れる暖炉の火を映して、恐ろしいほど甘く私を捉える。
かつての婚約者であるカイル殿下が言っていた甘い言葉は、どこか浮ついていて、脚本を読んでいるかのようだった。
だが、この男の言葉には、戦場を生き抜いてきた者特有の重みと、逃げ場を塞ぐような意志がある。


「投資、ですか。……残念ながら、今の私には笑顔を配当する余裕はありませんわ。代わりに、この別邸の維持費を三割削減するための構造改革案なら、今すぐ口頭でお伝えできますけれど?」


「いらん。そんな話をするなら、その口を塞ぐぞ」


「……どうやって? 物理的な圧力を加えるという、野蛮な方法かしら」


私が受けて立つように顔を近づけると、フェリクス様は不敵に笑い、私の髪を一房掬い上げて、その先に唇を落とした。


「ああ。野蛮で、かつ、これ以上ないほど効率的にお前の思考を停止させる方法だ」


心臓の鼓動が、領地の緊急事態を知らせる鐘のように激しく鳴り出した。
私の脳内にある精密な計算機が、エラーを連発して煙を上げ始めている。
いけない。ここで彼に主導権を握られるのは、経営者として、そして悪役令嬢としての敗北を意味する。


「フェリクス様。あなたのその、僧帽筋から広背筋にかけての筋肉の付き方……。先日の演習で少し形が変わりましたわね。効率的な力の伝達を意識したトレーニングの結果かしら。……非常に、興味深い構造ですわ」


私は必死に、話題を「人体解剖学的な実務」へと逸らした。
フェリクス様の肩に手を置き、まるで検品するかのようにその筋肉に触れる。


「……ルゥ。お前、この状況で俺の筋肉の解説を始めるつもりか?」


「ええ。この盛り上がり、まさに鋼鉄のようですわ。これほどの質量を維持するための摂取カロリーはどれほどかしら。グランザード領の食糧自給率に与える影響を……」


「……もういい。お前の負けだ」


フェリクス様が、私の言葉を遮るように私の腰を抱き寄せ、そのままソファに押し倒した。
視界が反転し、私の真上に、月光を背負った彼の巨大なシルエットが重なる。


「な、何を……! これ、合意のない物理的拘束は……!」


「合意なら、お前のその、赤くなった耳が語っている。……ルゥ。俺はお前が思っている以上に、気が長くないんだ。お前が仕事の話に逃げるなら、俺は力ずくで、お前を女の顔にしてやる」


フェリクス様の顔が、ゆっくりと降りてくる。
鼻先が触れ、彼の熱い吐息が私の唇を掠めた。
逃げ道はない。
窓の外の美しい景色も、山積みの書類も、すべてがどうでもよくなるほどの重力。


(どうしましょう。私の人生設計に、このまま押し切られるという選択肢はなかったはずなのに……)


その時、階下から「失礼いたしますわー!」という、空気を切り裂くような元気な声が響き渡った。


「フェリクス様! 師匠! 刺客……ではなく、夜食の差し入れを持ってきましたわ! 悪役令嬢たるもの、深夜の過剰なカロリー摂取こそが美徳ですわよね!」


ミーナ様だ。
彼女が階段を駆け上がってくる足音が聞こえる。


「……あの弟子、明日から騎士団の最前線に送り込んでいいか?」


フェリクス様が、私の首筋に顔を埋めたまま、地を這うような低い声で呻いた。


「……賛成ですわ。ついでに、一週間の給与カットも……。ああ、でも、おかげで私の思考回路が再起動しましたわ。フェリクス様、さっさと退いてちょうだい」


「……断る。ミーナが入ってくるまで、あと十秒はある」


フェリクス様はそう言うと、今度は迷うことなく、私の唇に自分のそれを重ねた。
それは、どんな契約書に押す印章よりも、重く、確かな約束の味がした。


ドアが開く直前、彼は満足げに身を起こし、真っ赤になった私を見下ろしてニヤリと笑った。


「投資の配当、まずは一部だけ受け取ったぞ」


こうして、私の「護衛という名の勾留」は、甘い敗北と共に幕を開けた。
自由な隠居生活。そんな言葉は、もう辞書のどこを探しても見つかりそうになかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役断罪?そもそも何かしましたか?

SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。 男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。 あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。 えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。 勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。

ブチ切れ公爵令嬢

Ryo-k
恋愛
突然の婚約破棄宣言に、公爵令嬢アレクサンドラ・ベルナールは、画面の限界に達した。 「うっさいな!! 少し黙れ! アホ王子!」 ※完結まで執筆済み

地味で無才な私を捨てたことを、どうぞ一生後悔してください。

有賀冬馬
恋愛
「お前のような雑用女、誰にでも代わりはいる」 そう言って私を捨てたディーン様。でも、彼は気づいていなかったのです。公爵家の繁栄を支えていたのは、私の事務作業と薬草の知識だったということに。 追放された辺境の地で、私はようやく自分らしく生きる道を見つけました。無口な辺境伯様に「君がいなければダメだ」と熱烈に求められ、凍っていた心が溶けていく。 やがて王都で居場所をなくし、惨めな姿で私を追いかけてきた元婚約者。 「もう、私の帰る場所はここしかありませんから」 絶望する彼を背に、私は最愛の人と共に歩み出します。

婚約破棄イベントが壊れた!

秋月一花
恋愛
 学園の卒業パーティー。たった一人で姿を現した私、カリスタ。会場内はざわつき、私へと一斉に視線が集まる。  ――卒業パーティーで、私は婚約破棄を宣言される。長かった。とっても長かった。ヒロイン、頑張って王子様と一緒に国を持ち上げてね!  ……って思ったら、これ私の知っている婚約破棄イベントじゃない! 「カリスタ、どうして先に行ってしまったんだい?」  おかしい、おかしい。絶対におかしい!  国外追放されて平民として生きるつもりだったのに! このままだと私が王妃になってしまう! どうしてそうなった、ヒロイン王太子狙いだったじゃん! 2021/07/04 カクヨム様にも投稿しました。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

白い結婚で結構ですわ。殿下より、私の自由のほうが大事ですので

鍛高譚
恋愛
「第二王子との婚約? でも殿下には平民の恋人がいるらしいんですけど? ――なら、私たち“白い結婚”で結構ですわ。お好きになさってくださいな、殿下」 自由気ままに読書とお茶を楽しむのがモットーの侯爵令嬢・ルージュ。 ある日、突然“第二王子リオネルとの政略結婚”を押しつけられてしまう。 ところが当の殿下は平民の恋人に夢中で、 「形式上の夫婦だから干渉しないでほしい」などと言い出す始末。 むしろ好都合とばかりに、ルージュは優雅な“独身気分”を満喫するはずが…… いつしか、リナという愛人と妙に仲良くなり、 彼女を巡る宮廷スキャンダルに巻き込まれ、 しまいには婚約が白紙になってしまって――!? けれどこれは、ルージュが本当の幸せを掴む始まりにすぎなかった。 自分を心から大切にしてくれる“新しい旦那様”候補が現れて、 さあ、思い切り自由に愛されましょう! ……そして、かの王子様の結末は“ざまぁ”なのか“自業自得”なのか? 自由気ままな侯爵令嬢が切り開く、 “白い結婚破談”からの痛快ざまぁ&本当の恋愛譚、はじまります。

初耳なのですが…、本当ですか?

あおくん
恋愛
侯爵令嬢の次女として、父親の仕事を手伝ったり、邸の管理をしたりと忙しくしているアニーに公爵家から婚約の申し込みが来た! でも実際に公爵家に訪れると、異世界から来たという少女が婚約者の隣に立っていて…。

幼い頃に魔境に捨てたくせに、今更戻れと言われて戻るはずがないでしょ!

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 ニルラル公爵の令嬢カチュアは、僅か3才の時に大魔境に捨てられた。ニルラル公爵を誑かした悪女、ビエンナの仕業だった。普通なら獣に喰われて死にはずなのだが、カチュアは大陸一の強国ミルバル皇国の次期聖女で、聖獣に護られ生きていた。一方の皇国では、次期聖女を見つけることができず、当代の聖女も役目の負担で病み衰え、次期聖女発見に皇国の存亡がかかっていた。

処理中です...