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1.箒星の旅人
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黄金の麦の穂が、見渡す限り遠くどこまでも続いている。
頬をなぜる風は柔らかく、心地いい。
目を細めた俺は、膝の上の魔法書をそっと閉じて、大きく伸びをした。
「《箒星》さま、いけません。もうしばらくお勉強を続けますよ」
さっそく見咎めて眉をひそめたのは、傍らに立つ褐色の肌の少年だ。丘を渡る風に遊ばれる紫の髪の間から覗く燃えるような真紅の瞳を見上げて、典型的な日本人である黒髪黒目の俺は凡庸な自分の色彩に肩をすくめた。
「勉強は嫌いじゃないけど。俺がやりたかったのは魔法学なんて突拍子もないものじゃなくて、普通に文化人類学とか民族文化論とかで……いや、それはここでもできるんだろうけど」
「またそうやって、リコにわからないことを言って勝手に納得する」
少年――リコは腰に手を当てて、おかんむりのポーズだ。
わかってる。
もう普通の大学生でいられないことは、それなりに思い知っているんだ。
俺は、秋晴れにも似た高い空を見上げる。
小高い丘から仰ぐのは、太陽がひとつ。彼方には、月もひとつ。
それでもここは、俺が十八年暮らした日本ではない。なんなら、地球ですらない。
ため息しか出ない状況に、疲れた頭ががくんと落ちた。
「まあ、往生際は悪いかもしれない」
俺がこの世界に来て、もう一週間になる。
マーセル大陸北端の軍事国家ラーグ・フェーン帝国、通称ラーフェン。その領土の南端、ここ《賢者の塔》の周辺は広い穀倉地帯だ。
この一週間で新しく覚えたことを口に出して、ひとつひとつ、確かめる。
「……そうですけど。《箒星》さま。いまは魔法学のお時間です」
《賢者の塔》には大賢者がいて、魔物の侵攻から国を護るために結界を張っている。
「さ、ま! 偉大なる大賢者様、です! 最上級に敬ってください!」
悲鳴のようなリコの叫びを聞き流して、俺は続けた。
この世界では、俺のような異世界人を召喚することがある。喚び出された人間は世界を転移する際にその身に大量の魔力を得るため、国家や有力者に保護され、それはそれは丁重に扱われるらしいが――……
「《箒星》さま? なぜそこで口を噤まれるのです? まさか、ご自身の待遇に不満がおありなのですか?」
信じられないと青ざめる少年にはとても聞かせられなくて、そこから先は心の中だけでつぶやいた。
このラーフェンにおいて《箒星の旅人》は、魔法使いである大賢者にその身を捧げる――つまり性行為を強要される。
端的に言って、ちょっと人権がないのだった。
「そんな! 大賢者様に直接ご奉仕できる最大の栄誉を得て、不満などあるはずが――」
まるで俺の心を読んだように、リコが叫ぶ。塔に所属している魔法使い見習いであるリコには、もしかしたらものすごく名誉なことなのかもしれないけども。
「勝手な都合で無理やり郷里から離されて、あろうことか知らない相手に身体を捧げろだなんて、不満しかないと思うがね」
がちゃりと剣帯の音を立てて、数メートル先の草原に寝転んでいた男が身を起こした。昼寝をすると言っていたはずだが、俺とリコの会話をしっかり聞いていたようだ。
「おはよう、ヴィル」
「おう」
「も、もぉおおおお! なんてことを言うのですか! これだから野蛮な騎士は……!」
激怒したリコが地団駄を踏むが、男は意に介すことなく、しなやかな動きで立ち上がる。
綺麗な青年だ。
空の青に映える輝く金の髪。無造作にくくられているだけの長髪は、それでも彼によく似合っていた。いまは穏やかな碧い瞳は、剣を抜いた途端に敵を射殺さんばかりに鋭くなることを俺は知っている。
「アンリ。何度も言うが、君が塔に行く必要はない」
騎士は俺の前で、ごく自然な動作で膝を折った。至近距離で強い視線を向けられて、思わず心臓が跳ねる。
勘弁してほしい。俺はまだこの美青年に慣れていないんだ。
「何を言うんですヴィルヘルム……!」
リコの声がする。この美少年も、放っておいたらショックで卒倒しそうだ。
「大丈夫だよリコ。俺にも一宿一飯の恩義とか、そういうのはあるから」
とりあえずリコをなだめて、俺は膝の上のテキストをさっと鞄に押し込む。これで、気乗りしないお勉強タイムは終了だ。
「はい! 塔の魔法使い一同、これからも心を砕いてお世話いたしますので!」
瞳をきらきらと輝かせるリコは、うまく流されてくれたらしい。対照的に、目の前の騎士の瞳は曇っていくのだけれど……。
「忘れるなアンリ。私は君の騎士だ」
くしゃりと俺の前髪をかき回して、騎士ヴィルヘルムは立ち上がった。続こうとした俺は、ヴィルヘルムの力強い腕に引かれ、草の上に立つ。過保護。
「ありがと。……ヴィルはさ、大賢者から俺を護衛しろって言われてるのに、そんな態度で本当に大丈夫なのか?」
「騎士はみんなそんなものです! 魔法使いに敬意を持たない、恩恵に感謝することもない無礼な者たちなのです! まったく、どうして大賢者様は騎士なんかを《箒星》さまのそばにお付けになるのか……!」
小声だったつもりなのだが、リコにはしっかり聞こえていたらしい。いつものようにきゃんきゃんとヴィルヘルムに噛みつくが、騎士もいつものように聞き流している。
俺が見ている限りでは、リコが言うほど、普段のヴィルヘルムから魔法使いへの軽視は感じられない。それでも彼があえて口にしたのは、この暮れゆく空のせいだろう。
今夜は、大賢者との三回目の性交だ。
頬をなぜる風は柔らかく、心地いい。
目を細めた俺は、膝の上の魔法書をそっと閉じて、大きく伸びをした。
「《箒星》さま、いけません。もうしばらくお勉強を続けますよ」
さっそく見咎めて眉をひそめたのは、傍らに立つ褐色の肌の少年だ。丘を渡る風に遊ばれる紫の髪の間から覗く燃えるような真紅の瞳を見上げて、典型的な日本人である黒髪黒目の俺は凡庸な自分の色彩に肩をすくめた。
「勉強は嫌いじゃないけど。俺がやりたかったのは魔法学なんて突拍子もないものじゃなくて、普通に文化人類学とか民族文化論とかで……いや、それはここでもできるんだろうけど」
「またそうやって、リコにわからないことを言って勝手に納得する」
少年――リコは腰に手を当てて、おかんむりのポーズだ。
わかってる。
もう普通の大学生でいられないことは、それなりに思い知っているんだ。
俺は、秋晴れにも似た高い空を見上げる。
小高い丘から仰ぐのは、太陽がひとつ。彼方には、月もひとつ。
それでもここは、俺が十八年暮らした日本ではない。なんなら、地球ですらない。
ため息しか出ない状況に、疲れた頭ががくんと落ちた。
「まあ、往生際は悪いかもしれない」
俺がこの世界に来て、もう一週間になる。
マーセル大陸北端の軍事国家ラーグ・フェーン帝国、通称ラーフェン。その領土の南端、ここ《賢者の塔》の周辺は広い穀倉地帯だ。
この一週間で新しく覚えたことを口に出して、ひとつひとつ、確かめる。
「……そうですけど。《箒星》さま。いまは魔法学のお時間です」
《賢者の塔》には大賢者がいて、魔物の侵攻から国を護るために結界を張っている。
「さ、ま! 偉大なる大賢者様、です! 最上級に敬ってください!」
悲鳴のようなリコの叫びを聞き流して、俺は続けた。
この世界では、俺のような異世界人を召喚することがある。喚び出された人間は世界を転移する際にその身に大量の魔力を得るため、国家や有力者に保護され、それはそれは丁重に扱われるらしいが――……
「《箒星》さま? なぜそこで口を噤まれるのです? まさか、ご自身の待遇に不満がおありなのですか?」
信じられないと青ざめる少年にはとても聞かせられなくて、そこから先は心の中だけでつぶやいた。
このラーフェンにおいて《箒星の旅人》は、魔法使いである大賢者にその身を捧げる――つまり性行為を強要される。
端的に言って、ちょっと人権がないのだった。
「そんな! 大賢者様に直接ご奉仕できる最大の栄誉を得て、不満などあるはずが――」
まるで俺の心を読んだように、リコが叫ぶ。塔に所属している魔法使い見習いであるリコには、もしかしたらものすごく名誉なことなのかもしれないけども。
「勝手な都合で無理やり郷里から離されて、あろうことか知らない相手に身体を捧げろだなんて、不満しかないと思うがね」
がちゃりと剣帯の音を立てて、数メートル先の草原に寝転んでいた男が身を起こした。昼寝をすると言っていたはずだが、俺とリコの会話をしっかり聞いていたようだ。
「おはよう、ヴィル」
「おう」
「も、もぉおおおお! なんてことを言うのですか! これだから野蛮な騎士は……!」
激怒したリコが地団駄を踏むが、男は意に介すことなく、しなやかな動きで立ち上がる。
綺麗な青年だ。
空の青に映える輝く金の髪。無造作にくくられているだけの長髪は、それでも彼によく似合っていた。いまは穏やかな碧い瞳は、剣を抜いた途端に敵を射殺さんばかりに鋭くなることを俺は知っている。
「アンリ。何度も言うが、君が塔に行く必要はない」
騎士は俺の前で、ごく自然な動作で膝を折った。至近距離で強い視線を向けられて、思わず心臓が跳ねる。
勘弁してほしい。俺はまだこの美青年に慣れていないんだ。
「何を言うんですヴィルヘルム……!」
リコの声がする。この美少年も、放っておいたらショックで卒倒しそうだ。
「大丈夫だよリコ。俺にも一宿一飯の恩義とか、そういうのはあるから」
とりあえずリコをなだめて、俺は膝の上のテキストをさっと鞄に押し込む。これで、気乗りしないお勉強タイムは終了だ。
「はい! 塔の魔法使い一同、これからも心を砕いてお世話いたしますので!」
瞳をきらきらと輝かせるリコは、うまく流されてくれたらしい。対照的に、目の前の騎士の瞳は曇っていくのだけれど……。
「忘れるなアンリ。私は君の騎士だ」
くしゃりと俺の前髪をかき回して、騎士ヴィルヘルムは立ち上がった。続こうとした俺は、ヴィルヘルムの力強い腕に引かれ、草の上に立つ。過保護。
「ありがと。……ヴィルはさ、大賢者から俺を護衛しろって言われてるのに、そんな態度で本当に大丈夫なのか?」
「騎士はみんなそんなものです! 魔法使いに敬意を持たない、恩恵に感謝することもない無礼な者たちなのです! まったく、どうして大賢者様は騎士なんかを《箒星》さまのそばにお付けになるのか……!」
小声だったつもりなのだが、リコにはしっかり聞こえていたらしい。いつものようにきゃんきゃんとヴィルヘルムに噛みつくが、騎士もいつものように聞き流している。
俺が見ている限りでは、リコが言うほど、普段のヴィルヘルムから魔法使いへの軽視は感じられない。それでも彼があえて口にしたのは、この暮れゆく空のせいだろう。
今夜は、大賢者との三回目の性交だ。
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