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旅の路
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将来への不安が自室の天井に張り付いて、抜き差しならぬ朝を迎える。
末枯れ、萎れてしまった、夢に似た風景。目の端に湛えていた雫は苦い果実の味がした。
青年は嘆息ひとつ呑み込んで、目に力を込める。微かなキンモクセイの香り、高架下の雑踏が
目下日常の憂いをより鮮やかなものにする。
理由からの逃避行――。振り返れば、それが旅の始まりだった。
上野から常磐線で一時間。牛久駅に着いたのは午後二時頃だった。
私は駅前のロータリイに立ち、凝っと重なる雲を眺めている。うらさみしい空合の出立だが
それには何ら理由はなく、ためらいすら抱かなかった。ただ、曇った窓ガラスを拭き上げるように
新しい景色を見いだすべきなのだと思った。
それから、私という不可解に就いて、勘定しなければすまない。
とりわけ人類に於ける私という存在に就いて相容れる必要がある......。
十九歳、梅雨の只中にて――。
今朝の天気予報は雨のマーク。低くわだかまる暗い色の空から、ぼた、ぼたぼたと大粒の雨が落ちてきて
アスファルトを忽ち黒く染めてゆく。示し合わせのような雨に、私はそっと傘を開く。
傘を打つ雨音を聴きながら、私に宛がわれた前途を思う。
因循たる日常に倦み、心は混濁の渦。暗雲垂れ篭める空はまるで、私の前途を表しているようだ。
日向の窓はおよそ遠く、今は分厚い曇に遮られたまま。私は膝を抱えたまま生命をぶら下げている。
紫色のジャンパーが今日はいやに色褪せて見えた。夢や希望を信ずることのできぬ私には
私を識るほか路は残されていない。歩き続けるほかないのである。
思えば朝から何も口にしていなかった。
私はひとまず昼食をとることにきめて、近くのレストランに入った。
案内してくれたのは、覇気のある美しい店員だった。私は席に着いて、冷やし天ぷらうどんを注文する。
うどんを待つ間、雨の気慰みにと、先の店員の性情を想像してみる。
生真面目で芯が強く、どこまでもまっすぐで、それでいて......。ひとりすさびの間に、先の店員が
うどんを運んできてくれた。私はそんな想像を引き摺ったまま、勢いよくそれをすすった。
「お気をつけてお帰り下さい、またお待ちしております。」
気持のよい挨拶と微笑みをもらい、私はやや伏し目がちになり、くぐもった声で礼を言って傘を手に取った。
店を出ると、清涼な微風がそよぎ、どことなく私の身体を通りすぎる心地がした。「これが旅情か。」
さもしい想いが独り言ちた。微笑みとは何と清廉な仕草であろう。
真夏の岸辺に萌える草原の鮮やかさが、胸裏にそっと触れた気がした。
軒端の雨はやや小ぶりになっていたように思う。
私は牛久駅前へ戻り、バスで牛久大仏へ向かうことにした。
バスに乗り込みしばらくすると車窓に大仏様が姿を現した。牛久大仏は茨城県の観光地として
有名で全高百二十メートルもあるブロンズ製の立像である。
最寄りの停留所でバスを降りてまもなく、雨がその本分を発揮せんばかり傘を叩きはじめた――。
土産売場が軒を連ねる仲見世通りを抜けると拝観券売場がある。
さらに順路を進んで行くと浄土庭園の入口となる發遣門(はっけんもん)が現れた。
門の内には親鸞聖人の胴像と鐘が下がっている。なるほど、茨城県(常陸国)は古く親鸞聖人と
所縁深い地であるようだ。
門をくぐると白道の先に大仏様が聳え立っていた。一見して人が反り覆りそうになるほどの巨体である。
その巨体はいかめしい印象を私に与えた。迫力はもとより、荒天をものともしない大様泰然たる佇まい。
沈黙とおだやかなる気迫。仏顔その眦には衆生済度の深い慈しみの色が眠っているのであろう。
大仏様の右手に群青海とよばれる池がある。池の周りには花菱草がひしと生い茂り、その黄色い花びらを
雄弁に咲かせている。群青とは、すべての生きとし生けるもののこと。
四季折折の花を咲かせるこの池は生命の源を現している。
それから暫し浄苑を歩いていると、紫陽花の咲き誇る小径に行き当たった。
水無月の若い紫陽花が植込のそこここ顔を覗かせている。それらは一途季節に焦がれ、成長の予感を
湛えながら、その時を待っている。ひとつとして影を持たない、頑是なき童の無垢。
雨に濡つ、慎ましき可憐な姿をそこに旧りのこして。
牛久浄苑には十方堂という、礼拝堂と会席場を構えた施設がある。
ここでは宗教を問わず法要が行える。堂内ロビーからは大仏様の全景を眺めることができ
法要で訪れた人々の安息の場となっている。
聳え立つ阿弥陀如来仏とその眼下に広がる茫漠たる墓地。
美しく刈り整えられた生垣の裡に佇む、墓石のそれぞれが静謐で清らかなこの杜の
この空間のゆたかさの象徴である。
――鐘の音がこだまする。
墓地を歩いてみると、手桶に水を汲む人や言葉少なげに線香をあげる家族の姿があった。
故人は偲ぶものをひとつの空間へ請待する。偲ぶものは近ごろのこぼれ話なんぞして、是に呼応する。
私たちが瞑目し掌を合わせるとき、奇しき気脈で以て故人と通じ合うのである。
世は無常迅速。時人を待たず――。
墓地を進むと、芝生に石畳の敷かれた小径を見つけた。
ここは「光の道」と云い、阿弥陀如来仏と十方堂を結ぶ道であった。
この道には、衆生一切を救われようとする仏の智慧や願いが込められているそうだ。
阿弥陀如来仏の慈悲の念は、やがて光明となり、私の前途をともして呉れるであろう。
「私はひとり、歩いてゆくべきなのだ。」つとそんな想念が浮かんだ。
旅の大儀は、向こう見ずに拠るところが多い。私は一路、東の方角へ歩き出した――。
路沿いの畑に大きなスイカが割れ転がっているのを見つけた。牛久市から少しく歩いてきたが、ここはすでに
隣町の阿見町であるようだった。阿見町の名物に大玉すいかがある。このすいかは普通のものに比べて
大きく、糖度が高いことで知られている。そのほか、名産品に阿見グリーンメロンがあるが、これも大きく
糖度が高いことが特徴的である。茨城県と言えば、レンコンの生産量が日本一で有名だが
ここ阿見町を含む湖岸地域は気候が温暖で水温も高く、肥沃な土壌があるため、それらの栽培に
適しているのだという。干拓された霞ヶ浦湖畔地域には多くの遺跡や貝塚も現存している。
足取りは自若として、腕時計の針がグルグルと倍速で回るように時が過ぎてゆく。
アスファルトの窪みには鉛色の空が映っている。気が付けば雨は止んでいた。
私はリュックから檸檬味の飴玉をひとつ取り出して、口の中へ放り込んだ。
酸いも甘いもわからないまま、すぐに噛み砕いて、とにかく歯応えを確かめた。
つと不可解な勇気が私の裡に沸き起こる。何にでも成れるような、何処へでも行けるような
根拠も脈略もないものが。所詮、夢や希望その類いを持たざる、凡庸な生活者の夢想じみた勇気である。
時々訪れる、このようなヒロイックな感覚を、私は不純なる勇気と呼んでいる。
私はあるとき気が付いてしまった。生活と作業とは近しいものであることに。
いつしか感情に蓋をして、人間を忌避するようになった。人はそれを虚無の病と呼ぶらしい。
他方、人類は溢れ出す情感を以ってあるべき姿をひけらかし、燦然たる生命の光のなかにいるかのようだ。
私はそれらを信ずることができず、生命だけをぶら下げている。私とは何者であるのか、どうあるべきなのか。
意味がわからなかった。しかしながら、狷介な私はひとり頭を搔きむしり、ひとり考え
続けている。例えば人間としての在り方だとか、他者との違い、有為無為について。
青春における光と影。追憶......。以って私が私らしく生きるということ......。
否、考えすぎては、いよいよ変になりそうだ。唾棄すべきは何者か。多分それは、心の裡の堆き塵埃なるもの。
生来夢を持たなかった私が、強固な信念をもって研磨してきたはずの「青春」はその実、
季節に摩耗し塵埃に塗れただけの「過去」であること。日向の窓に憧れて一途刻苦し
懐中握りしめてきた、あらゆる道理やつまらない執着。そして「現実」という白亜で
私と夢とを隔してきた虚像。それらを質すすべを識らぬ私という虚像。
結句、黝ずんだ掌には煤けた想いだけが残っている。悔恨のあとに答えなどはない。
私は宛所ないやつれた焦燥感を路傍の葉叢へ投げうって歩いた。ただ、ひたすらに。
――どれだけ歩いたか知れない。
もうすっかり私の影を見えなくしていた。畦道にウシガエルの声だけが子気味よく響いている。
ちょうど床の間でじっと瞳を閉じている時分、いましがた私は見知らぬ暗がりの路をひとり歩いている。
近くに見える果方(はてがた)にはきっと、光に浸された街があって。あと何千里かしら、もう少しく
行かば辿り着くはずだった。辿りつかなければならない。
喪神の孤客たる私の些事悩みが不思議なくらい平らかに感ぜられる夜だ。
よろずのカエルらが草陰で狂躁組曲を奏ではじめる――。
魁カエルの声に始り、残党らがこれに続く。畔にしばらく喧騒の音がどよもす。
やがて、殿カエルの声が尾を引くように淡い余韻を残して闇夜に消えた。
こんな途方もない夜に休符じみた闃の間、カエルたちが一斉に鳴くのやめる刹那がある。
その時、心の深更は図らずもありありと浮き彫りになり、私の胸は苦みで満たされてゆく。
アスファルトを踏みしめる度にじりじりと滲みだすのは、夜に取り残されたような孤独な
哀しみだけ。歩けども、歩けども、私はひとりだと思った。
私は誰彼なにもわからないこの夜の間に、蒼き日々のすべてを溶かし切って了いたい......。
夜目に夕焼け空の残光じみた微かな緋が走る。私は瞼(まぶた)を少しこすって、俯きながら歩き続けた。
枕頭の灯りを消して、やおら寝息をたてている時分のこと。
あるいは夢の半ば。涼風吹く叢に湿った靴やしみたれた衣服を放り出していた。
熱に侵された体をおもむろに横たえて眠る、私の姿がある。不透明な景だが、ここは葦の原だと判る。
陽だまりの匂いと濯ぎあげられた快いうるおいが拡がり満ちてゆく。抗うことは何もない。
瑞々しき思い出など、もう必要ないのだから。大きな影に抱かれて眠る。ただそれだけ。
きっと、それが善いだろう。嗚呼。手を伸べ旧り行く久遠のひびきよ......。
午後十一時四十五分。
県道沿いに一軒の本屋を発見した。私はその店の店員に近くの駅を訪ねてみた。
「ここから近い駅は何駅になりますか?」
「ここらには駅はないけど、少し離れたところにさわらという駅がありますよ。」「さわら......。」
私は鞄から小さなノートを取り出して、ひらがなで記した。
「もしかして徒歩ですか?」かなり驚いた様子で聞いてくる。
「はい......。」
「少し待っていてください。」
店員はそれだけ言い残してバックヤードに消えていった。
しばらくして、一片の紙を持って戻ってきた。なにやら駅までの地図を刷ってくれたようだ。
「わざわざありがとうございます。」
礼を云って、店を出ると店員も外まで出てきて、駅までの行き方を教えてくれた。
「この先をまっすぐ行くと大きな橋が見えてきます。その橋を渡って右へ行ってください。」
「分かりました。」
「もう終電はないと思いますよ。」
「駅に着いたら始発を待ちます。」
私は会釈をして、もらった紙片を手に駅の方へ歩いて行った。
「お気をつけて。」そう云って店員は私の背中を見送ってくれた。
まっすぐ歩いて行くとだんだん夜霧が視界をかすめてゆく。触れると濡れてしまいそうな
輪郭の定かでない風景だ。やがて霧の先に橋が見えてきた。中空にぼんやりと橙色の灯りが
いくつもならび、黒く澱んだ川面に鈍い灯りがたゆとうている。まるで幻を見ているようだった。
それは私にとり、希望と呼ぶに相応しい一等耀う灯りだった!
右に折れてしばらく行くと青い街燈の立ち並ぶ路に出た。
静かな原郷を思わせる、向きのある路である。
歩みを進めるにつれて、私の蒼い自意識が瘡蓋のように剥がれ落ちてゆくように思えた。
この路を歩いていると、どこか居直った気分になり、不思議と疲労を忘れて闊歩していた。
本当を云えば、目下の暗澹たる念を打ち消したいが為に、つらい逡巡の旅の終りを願って、
私はひとり出立したのだ。詮方なくさすらい歩く私の前途は、未だ霧の中の在る。
誰もが夜霧に惑い、抜き差しならぬ朝を迎えることであろう。己とは、問わず語りの意匠である。
他方から侵されることの無い、まったく奇異なる自分というものだ。そして私は、人類と相容れずとも
何はなくとも生きようと思った。そんなことを考えている途方もない夜もまたの朝(あした)。
空には月が偕している。
踏切を一つ渡り、佐原駅へ到着したのは深夜二時ごろだった。
私は暁闇のなか、駅前のスロープの夜伽に疲労を預けて、空が白けるまで待った。
末枯れ、萎れてしまった、夢に似た風景。目の端に湛えていた雫は苦い果実の味がした。
青年は嘆息ひとつ呑み込んで、目に力を込める。微かなキンモクセイの香り、高架下の雑踏が
目下日常の憂いをより鮮やかなものにする。
理由からの逃避行――。振り返れば、それが旅の始まりだった。
上野から常磐線で一時間。牛久駅に着いたのは午後二時頃だった。
私は駅前のロータリイに立ち、凝っと重なる雲を眺めている。うらさみしい空合の出立だが
それには何ら理由はなく、ためらいすら抱かなかった。ただ、曇った窓ガラスを拭き上げるように
新しい景色を見いだすべきなのだと思った。
それから、私という不可解に就いて、勘定しなければすまない。
とりわけ人類に於ける私という存在に就いて相容れる必要がある......。
十九歳、梅雨の只中にて――。
今朝の天気予報は雨のマーク。低くわだかまる暗い色の空から、ぼた、ぼたぼたと大粒の雨が落ちてきて
アスファルトを忽ち黒く染めてゆく。示し合わせのような雨に、私はそっと傘を開く。
傘を打つ雨音を聴きながら、私に宛がわれた前途を思う。
因循たる日常に倦み、心は混濁の渦。暗雲垂れ篭める空はまるで、私の前途を表しているようだ。
日向の窓はおよそ遠く、今は分厚い曇に遮られたまま。私は膝を抱えたまま生命をぶら下げている。
紫色のジャンパーが今日はいやに色褪せて見えた。夢や希望を信ずることのできぬ私には
私を識るほか路は残されていない。歩き続けるほかないのである。
思えば朝から何も口にしていなかった。
私はひとまず昼食をとることにきめて、近くのレストランに入った。
案内してくれたのは、覇気のある美しい店員だった。私は席に着いて、冷やし天ぷらうどんを注文する。
うどんを待つ間、雨の気慰みにと、先の店員の性情を想像してみる。
生真面目で芯が強く、どこまでもまっすぐで、それでいて......。ひとりすさびの間に、先の店員が
うどんを運んできてくれた。私はそんな想像を引き摺ったまま、勢いよくそれをすすった。
「お気をつけてお帰り下さい、またお待ちしております。」
気持のよい挨拶と微笑みをもらい、私はやや伏し目がちになり、くぐもった声で礼を言って傘を手に取った。
店を出ると、清涼な微風がそよぎ、どことなく私の身体を通りすぎる心地がした。「これが旅情か。」
さもしい想いが独り言ちた。微笑みとは何と清廉な仕草であろう。
真夏の岸辺に萌える草原の鮮やかさが、胸裏にそっと触れた気がした。
軒端の雨はやや小ぶりになっていたように思う。
私は牛久駅前へ戻り、バスで牛久大仏へ向かうことにした。
バスに乗り込みしばらくすると車窓に大仏様が姿を現した。牛久大仏は茨城県の観光地として
有名で全高百二十メートルもあるブロンズ製の立像である。
最寄りの停留所でバスを降りてまもなく、雨がその本分を発揮せんばかり傘を叩きはじめた――。
土産売場が軒を連ねる仲見世通りを抜けると拝観券売場がある。
さらに順路を進んで行くと浄土庭園の入口となる發遣門(はっけんもん)が現れた。
門の内には親鸞聖人の胴像と鐘が下がっている。なるほど、茨城県(常陸国)は古く親鸞聖人と
所縁深い地であるようだ。
門をくぐると白道の先に大仏様が聳え立っていた。一見して人が反り覆りそうになるほどの巨体である。
その巨体はいかめしい印象を私に与えた。迫力はもとより、荒天をものともしない大様泰然たる佇まい。
沈黙とおだやかなる気迫。仏顔その眦には衆生済度の深い慈しみの色が眠っているのであろう。
大仏様の右手に群青海とよばれる池がある。池の周りには花菱草がひしと生い茂り、その黄色い花びらを
雄弁に咲かせている。群青とは、すべての生きとし生けるもののこと。
四季折折の花を咲かせるこの池は生命の源を現している。
それから暫し浄苑を歩いていると、紫陽花の咲き誇る小径に行き当たった。
水無月の若い紫陽花が植込のそこここ顔を覗かせている。それらは一途季節に焦がれ、成長の予感を
湛えながら、その時を待っている。ひとつとして影を持たない、頑是なき童の無垢。
雨に濡つ、慎ましき可憐な姿をそこに旧りのこして。
牛久浄苑には十方堂という、礼拝堂と会席場を構えた施設がある。
ここでは宗教を問わず法要が行える。堂内ロビーからは大仏様の全景を眺めることができ
法要で訪れた人々の安息の場となっている。
聳え立つ阿弥陀如来仏とその眼下に広がる茫漠たる墓地。
美しく刈り整えられた生垣の裡に佇む、墓石のそれぞれが静謐で清らかなこの杜の
この空間のゆたかさの象徴である。
――鐘の音がこだまする。
墓地を歩いてみると、手桶に水を汲む人や言葉少なげに線香をあげる家族の姿があった。
故人は偲ぶものをひとつの空間へ請待する。偲ぶものは近ごろのこぼれ話なんぞして、是に呼応する。
私たちが瞑目し掌を合わせるとき、奇しき気脈で以て故人と通じ合うのである。
世は無常迅速。時人を待たず――。
墓地を進むと、芝生に石畳の敷かれた小径を見つけた。
ここは「光の道」と云い、阿弥陀如来仏と十方堂を結ぶ道であった。
この道には、衆生一切を救われようとする仏の智慧や願いが込められているそうだ。
阿弥陀如来仏の慈悲の念は、やがて光明となり、私の前途をともして呉れるであろう。
「私はひとり、歩いてゆくべきなのだ。」つとそんな想念が浮かんだ。
旅の大儀は、向こう見ずに拠るところが多い。私は一路、東の方角へ歩き出した――。
路沿いの畑に大きなスイカが割れ転がっているのを見つけた。牛久市から少しく歩いてきたが、ここはすでに
隣町の阿見町であるようだった。阿見町の名物に大玉すいかがある。このすいかは普通のものに比べて
大きく、糖度が高いことで知られている。そのほか、名産品に阿見グリーンメロンがあるが、これも大きく
糖度が高いことが特徴的である。茨城県と言えば、レンコンの生産量が日本一で有名だが
ここ阿見町を含む湖岸地域は気候が温暖で水温も高く、肥沃な土壌があるため、それらの栽培に
適しているのだという。干拓された霞ヶ浦湖畔地域には多くの遺跡や貝塚も現存している。
足取りは自若として、腕時計の針がグルグルと倍速で回るように時が過ぎてゆく。
アスファルトの窪みには鉛色の空が映っている。気が付けば雨は止んでいた。
私はリュックから檸檬味の飴玉をひとつ取り出して、口の中へ放り込んだ。
酸いも甘いもわからないまま、すぐに噛み砕いて、とにかく歯応えを確かめた。
つと不可解な勇気が私の裡に沸き起こる。何にでも成れるような、何処へでも行けるような
根拠も脈略もないものが。所詮、夢や希望その類いを持たざる、凡庸な生活者の夢想じみた勇気である。
時々訪れる、このようなヒロイックな感覚を、私は不純なる勇気と呼んでいる。
私はあるとき気が付いてしまった。生活と作業とは近しいものであることに。
いつしか感情に蓋をして、人間を忌避するようになった。人はそれを虚無の病と呼ぶらしい。
他方、人類は溢れ出す情感を以ってあるべき姿をひけらかし、燦然たる生命の光のなかにいるかのようだ。
私はそれらを信ずることができず、生命だけをぶら下げている。私とは何者であるのか、どうあるべきなのか。
意味がわからなかった。しかしながら、狷介な私はひとり頭を搔きむしり、ひとり考え
続けている。例えば人間としての在り方だとか、他者との違い、有為無為について。
青春における光と影。追憶......。以って私が私らしく生きるということ......。
否、考えすぎては、いよいよ変になりそうだ。唾棄すべきは何者か。多分それは、心の裡の堆き塵埃なるもの。
生来夢を持たなかった私が、強固な信念をもって研磨してきたはずの「青春」はその実、
季節に摩耗し塵埃に塗れただけの「過去」であること。日向の窓に憧れて一途刻苦し
懐中握りしめてきた、あらゆる道理やつまらない執着。そして「現実」という白亜で
私と夢とを隔してきた虚像。それらを質すすべを識らぬ私という虚像。
結句、黝ずんだ掌には煤けた想いだけが残っている。悔恨のあとに答えなどはない。
私は宛所ないやつれた焦燥感を路傍の葉叢へ投げうって歩いた。ただ、ひたすらに。
――どれだけ歩いたか知れない。
もうすっかり私の影を見えなくしていた。畦道にウシガエルの声だけが子気味よく響いている。
ちょうど床の間でじっと瞳を閉じている時分、いましがた私は見知らぬ暗がりの路をひとり歩いている。
近くに見える果方(はてがた)にはきっと、光に浸された街があって。あと何千里かしら、もう少しく
行かば辿り着くはずだった。辿りつかなければならない。
喪神の孤客たる私の些事悩みが不思議なくらい平らかに感ぜられる夜だ。
よろずのカエルらが草陰で狂躁組曲を奏ではじめる――。
魁カエルの声に始り、残党らがこれに続く。畔にしばらく喧騒の音がどよもす。
やがて、殿カエルの声が尾を引くように淡い余韻を残して闇夜に消えた。
こんな途方もない夜に休符じみた闃の間、カエルたちが一斉に鳴くのやめる刹那がある。
その時、心の深更は図らずもありありと浮き彫りになり、私の胸は苦みで満たされてゆく。
アスファルトを踏みしめる度にじりじりと滲みだすのは、夜に取り残されたような孤独な
哀しみだけ。歩けども、歩けども、私はひとりだと思った。
私は誰彼なにもわからないこの夜の間に、蒼き日々のすべてを溶かし切って了いたい......。
夜目に夕焼け空の残光じみた微かな緋が走る。私は瞼(まぶた)を少しこすって、俯きながら歩き続けた。
枕頭の灯りを消して、やおら寝息をたてている時分のこと。
あるいは夢の半ば。涼風吹く叢に湿った靴やしみたれた衣服を放り出していた。
熱に侵された体をおもむろに横たえて眠る、私の姿がある。不透明な景だが、ここは葦の原だと判る。
陽だまりの匂いと濯ぎあげられた快いうるおいが拡がり満ちてゆく。抗うことは何もない。
瑞々しき思い出など、もう必要ないのだから。大きな影に抱かれて眠る。ただそれだけ。
きっと、それが善いだろう。嗚呼。手を伸べ旧り行く久遠のひびきよ......。
午後十一時四十五分。
県道沿いに一軒の本屋を発見した。私はその店の店員に近くの駅を訪ねてみた。
「ここから近い駅は何駅になりますか?」
「ここらには駅はないけど、少し離れたところにさわらという駅がありますよ。」「さわら......。」
私は鞄から小さなノートを取り出して、ひらがなで記した。
「もしかして徒歩ですか?」かなり驚いた様子で聞いてくる。
「はい......。」
「少し待っていてください。」
店員はそれだけ言い残してバックヤードに消えていった。
しばらくして、一片の紙を持って戻ってきた。なにやら駅までの地図を刷ってくれたようだ。
「わざわざありがとうございます。」
礼を云って、店を出ると店員も外まで出てきて、駅までの行き方を教えてくれた。
「この先をまっすぐ行くと大きな橋が見えてきます。その橋を渡って右へ行ってください。」
「分かりました。」
「もう終電はないと思いますよ。」
「駅に着いたら始発を待ちます。」
私は会釈をして、もらった紙片を手に駅の方へ歩いて行った。
「お気をつけて。」そう云って店員は私の背中を見送ってくれた。
まっすぐ歩いて行くとだんだん夜霧が視界をかすめてゆく。触れると濡れてしまいそうな
輪郭の定かでない風景だ。やがて霧の先に橋が見えてきた。中空にぼんやりと橙色の灯りが
いくつもならび、黒く澱んだ川面に鈍い灯りがたゆとうている。まるで幻を見ているようだった。
それは私にとり、希望と呼ぶに相応しい一等耀う灯りだった!
右に折れてしばらく行くと青い街燈の立ち並ぶ路に出た。
静かな原郷を思わせる、向きのある路である。
歩みを進めるにつれて、私の蒼い自意識が瘡蓋のように剥がれ落ちてゆくように思えた。
この路を歩いていると、どこか居直った気分になり、不思議と疲労を忘れて闊歩していた。
本当を云えば、目下の暗澹たる念を打ち消したいが為に、つらい逡巡の旅の終りを願って、
私はひとり出立したのだ。詮方なくさすらい歩く私の前途は、未だ霧の中の在る。
誰もが夜霧に惑い、抜き差しならぬ朝を迎えることであろう。己とは、問わず語りの意匠である。
他方から侵されることの無い、まったく奇異なる自分というものだ。そして私は、人類と相容れずとも
何はなくとも生きようと思った。そんなことを考えている途方もない夜もまたの朝(あした)。
空には月が偕している。
踏切を一つ渡り、佐原駅へ到着したのは深夜二時ごろだった。
私は暁闇のなか、駅前のスロープの夜伽に疲労を預けて、空が白けるまで待った。
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公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。
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婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。
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