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第8話 カラスムギ
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「やあ、これは賑やかだ」
馬の上からフェリックス様は感嘆の声をあげた。
フェリックス様とその従者、それに私、の三人は、それぞれの馬で城下町まで出て来ていた。夜が明けてしばらく経った時間帯で、街は行き交う人と馬と驢馬とで大変な混雑だった。
私はフェリックス様の意向を尋ねた。
「どちらからご覧になりますか? 市場、聖堂、それとも宿場?」
「職人たちの通りから行きましょう」
街では同業の職人たちが集まって、その通りには職人の名前がついている。
ご要望に従って、まずは『布地通り』から、私たちは通ることになった。
大きな桶の中で、鮮やかな青色と赤色に布地が染められているのが染物屋。
青色は、ここではヴァロン候のような人にしか買えない高級品だ。少し懐に余裕があれば人気の色は緑か紫で、私のような使用人は大抵、赤茶けた色の服に身を包んでいる。
店先で様々な色の生地を売っているのが布屋。どこからか仕入れたのか、ちょうど荷馬の背の上と両側に、大量の布地を積んだのが到着したところだった。
お城にも売りに来るので商人の顔は知っている。奥様もジャンヌ様も、城の中の女性たちも、時間をかけて布地を選ぶのを楽しみにしている。
その隣の店では仕立て屋が客の寸法を測ったり、仕上がりについて打ち合わせをしたりしていた。店の奥では忙しく服を仕立てる様子も見えた。
「見事なものですね」
フェリックス様はいちいち感心した様子で通りをご覧になっていた。
しかし、彼自身の衣服も高貴な青色で、かなり上等の部類のものだ。
彼が初めて城に到着した時、彼の趣味のいい衣服は女性たちの注目の的だった。
リュシアン王子の衣装も、王宮で名だたる裁縫士たちが仕立てていると聞くが、それと並んでも見劣りする気がしない。
「フェリックス様も青色がお好きでしたか?」
「青色? 別に、特にこれというわけではないですが」
私が何気なく聞くと、フェリックス様は首を傾げた。
フェリックス様はあまりご自身の衣服には興味がなさそうだった。持っている容姿があるので、必死に装いを凝らす苦労をされたこともないのだと想像できた。
「お嬢様に贈り物をお考えですか?」
「そうですね、いずれ……」
言いながら、フェリックス様は思案顔で私の方をじっとご覧になった。
「そういえば、父はいつも立派な格好をしていましたが、母はびっくりするくらい質素でした。今にして思えば頭の被り物の感じが、何だかあなたに似ていたような……」
「ご冗談でございましょう。あなた様のお母上が、私のような女中などとは比べられるはずもございません」
私はそう言ったけれど、フェリックス様はまだ考え事をしているようだった。
再び私は言った。
「ジャンヌ様は赤色の地に金糸の刺繍がお好みです」
「ありがとう。憶えておきます」
彼は微笑して、そこでようやく思案を打ち切った。
『布地通り』の次は『金銀細工師通り』を通った。
金銀細工の工房が軒を連ね、親方が徒弟の作品に批評をしている姿が見られた。親方の納得のいく作品を作り上げ、同業組合の審査を通って初めて職人として認められる。厳しい道のりだ。
通りに面した工房の出先では、実用品や宝飾品を売る店があり、フェリクス様は馬を従者に預けて徒歩でそれらを見て回った。私も馬を降りて彼のお供をして歩いた。
フェリックス様は商品に熱心に見入っていたが、特に宝飾品の類が気になるようだった。
「何かお探しですか? お手伝いしましょうか?」
「いえ……」
フェリックス様はまた何か考え事を始めた。
「ジャンヌ様のお好みは、金色に赤い石ですよ」
と、私が教えて差し上げても、フェリックス様は上の空だった。
これは何をしても無駄だ。
この人は考え出すと止まらないらしい。
私は少し後ろに下がって、馬を引いている彼の従者と一緒に歩きながらフェリックス様の考え事が終わるのを待った。
彼は明らかに何かを探していた。が、『金銀細工師通り』の終わりまで来ても、探し物は見つからなかったように見えた。
私は早足で駆け寄ってフェリックス様に並ぶと声をかけた。
「少し馬を休ませてはどうでしょう。この先に小料理屋がありますので、そこの馬屋で馬を預けられます」
「わかりました。でもその前に」
フェリックス様は足を止めて私の顔を見た。
「何かあなたの気に入る物はありましたか? あなたのご苦労に報いて、何か差し上げましょう」
「……」
私は返答に詰まった。
主人が臣下や召使に何かを下さるのはよくあること。素直にそれを有難がることができれば、どんなにいいか。
しかし今、私が、彼から何か物をもらうわけにはいかない。彼に買収されたのではないかという余計な疑いを、旦那様や奥様に持たれたくない。
別に今に限らずとも、お心遣いを受け取るのに気をつけるのはいつものことで、奥様から頂き物をすればお嬢様が、お嬢様から物を頂けば奥様がいい顔をしない。
リュシアン王子も気前よく何かを下さろうとするが、それでは妙な気を起こしたのではないかとお嬢様に疑われる。
もらっても、もらわなくても、誰かに気を悪くされる。しかし、もらってしまうと、私の立場が悪くなる。
「そんなに悩むようなことですか」
私の考えの堂々巡りに気づいてか、フェリックス様は完全に苦笑いをしていた。
「あ、でも、もし頂けるのでしたら」
私はあることを思いついて言った。
前々からずっと気になっていたことがある。もしかしたら彼が助けになってくれるかもしれないし、助けにならなくても、それはそれで構わない。
「お言葉に甘えて……あの、カラスムギを二枡分、買っていただけませんか」
「カラスムギ……? いいですよ」
フェリックス様は不思議そうな顔をして、でも快諾してくれた。
私は小料理屋のはす向かいにある、屋根付きの市場に入って行った。穀物、豆類、野菜、果物などの食料品を扱う市場で、穀物はすべて量り売りだった。
フェリックス様は私のすぐ後ろからついて来て、従者は馬の手綱を持って市場の外で待つことになった。
穀物屋の前では私の前に何人か客がいて、麦の売り買いが行われていた。私はじっと目を凝らして売買の様子を観察し、自分の考えを改めて確認した。
穀物屋は枡を二つ持っていて、使い分けている。買い取る時に計量する枡と、売る時に計る枡の二つだ。枡は内側で底が斜めになっていて、片方の枡では見た目よりも量が多く、もう片方では少ない量が入るのではないかというのが、市場での公然の疑惑だった。
私が買い物をする順番が回って来て、私は麻袋を差し出して言った。
「カラスムギを」
「どれくらい?」
「二枡分。この袋と、その袋に入っているのと、両方から買いたいの。その枡とその枡で測って、合わせて一緒に袋に入れてよ」
お客が買う用に、二つの枡を両方使って測れ。
穀物屋の主は突然不機嫌になって私を恫喝した。
「なんだい……人の商品にケチをつける気か。信用ならねえんなら、何も無理して買うことはないんだ」
「ちょっとの面倒くらい、聞いてくれたっていいじゃないの。こっちはお得意様よ……」
主に言い返してから、私は振り返ってフェリックス様の方を見た。
私はわざと大声で悪態をつき続けて、主とは売り言葉に買い言葉で、騒ぎで人々の注目が集まった。
この状況でフェリックス様がどう出るか、私は彼を試した。
フェリックス様はあきれたような様子で主に言った。よく通る声だった。
「面倒だが頼む。何も別々の袋に入れてくれと言っているわけではないし。二枡が不足なら、袋ごと買う。袋だと、何枡分になるんだい?」
カラスムギの袋を重さで測って代金を支払うこともできたけれど、まるで枡で測ることしかないような言い方を彼はした。フェリックス様も計量のからくりに気づいて、私の意図を汲んでくれたのだと思う。
ついに主の方が折れた。
「ああ、うるさい旦那方だな、ほら、二枡分だよ」
「ありがとう。はじめっからそうしてくれればよかったのに」
フェリックス様が代金を支払って、私はカラスムギの袋を受け取った。
「用がねえならもうあっちへ行きな」
穀物屋の主は次の客を相手にした。
私は勝った、と思った。少なくとも、一矢報いた。
今後も両方の枡を使って、二枡ずつ取引をする者があれば、穀物屋の主の思い通りにはならない。
市場を出ながら、フェリックス様は私の耳元で言った。
「ずいぶんと訳ありな買い物でした。あなたも、無茶をしますね」
「何のことですか」
私はとぼけた。彼はひとつため息をついた。
「女性に欲しい物を聞いてはいけないという……、僕にもよい教訓でした」
馬の上からフェリックス様は感嘆の声をあげた。
フェリックス様とその従者、それに私、の三人は、それぞれの馬で城下町まで出て来ていた。夜が明けてしばらく経った時間帯で、街は行き交う人と馬と驢馬とで大変な混雑だった。
私はフェリックス様の意向を尋ねた。
「どちらからご覧になりますか? 市場、聖堂、それとも宿場?」
「職人たちの通りから行きましょう」
街では同業の職人たちが集まって、その通りには職人の名前がついている。
ご要望に従って、まずは『布地通り』から、私たちは通ることになった。
大きな桶の中で、鮮やかな青色と赤色に布地が染められているのが染物屋。
青色は、ここではヴァロン候のような人にしか買えない高級品だ。少し懐に余裕があれば人気の色は緑か紫で、私のような使用人は大抵、赤茶けた色の服に身を包んでいる。
店先で様々な色の生地を売っているのが布屋。どこからか仕入れたのか、ちょうど荷馬の背の上と両側に、大量の布地を積んだのが到着したところだった。
お城にも売りに来るので商人の顔は知っている。奥様もジャンヌ様も、城の中の女性たちも、時間をかけて布地を選ぶのを楽しみにしている。
その隣の店では仕立て屋が客の寸法を測ったり、仕上がりについて打ち合わせをしたりしていた。店の奥では忙しく服を仕立てる様子も見えた。
「見事なものですね」
フェリックス様はいちいち感心した様子で通りをご覧になっていた。
しかし、彼自身の衣服も高貴な青色で、かなり上等の部類のものだ。
彼が初めて城に到着した時、彼の趣味のいい衣服は女性たちの注目の的だった。
リュシアン王子の衣装も、王宮で名だたる裁縫士たちが仕立てていると聞くが、それと並んでも見劣りする気がしない。
「フェリックス様も青色がお好きでしたか?」
「青色? 別に、特にこれというわけではないですが」
私が何気なく聞くと、フェリックス様は首を傾げた。
フェリックス様はあまりご自身の衣服には興味がなさそうだった。持っている容姿があるので、必死に装いを凝らす苦労をされたこともないのだと想像できた。
「お嬢様に贈り物をお考えですか?」
「そうですね、いずれ……」
言いながら、フェリックス様は思案顔で私の方をじっとご覧になった。
「そういえば、父はいつも立派な格好をしていましたが、母はびっくりするくらい質素でした。今にして思えば頭の被り物の感じが、何だかあなたに似ていたような……」
「ご冗談でございましょう。あなた様のお母上が、私のような女中などとは比べられるはずもございません」
私はそう言ったけれど、フェリックス様はまだ考え事をしているようだった。
再び私は言った。
「ジャンヌ様は赤色の地に金糸の刺繍がお好みです」
「ありがとう。憶えておきます」
彼は微笑して、そこでようやく思案を打ち切った。
『布地通り』の次は『金銀細工師通り』を通った。
金銀細工の工房が軒を連ね、親方が徒弟の作品に批評をしている姿が見られた。親方の納得のいく作品を作り上げ、同業組合の審査を通って初めて職人として認められる。厳しい道のりだ。
通りに面した工房の出先では、実用品や宝飾品を売る店があり、フェリクス様は馬を従者に預けて徒歩でそれらを見て回った。私も馬を降りて彼のお供をして歩いた。
フェリックス様は商品に熱心に見入っていたが、特に宝飾品の類が気になるようだった。
「何かお探しですか? お手伝いしましょうか?」
「いえ……」
フェリックス様はまた何か考え事を始めた。
「ジャンヌ様のお好みは、金色に赤い石ですよ」
と、私が教えて差し上げても、フェリックス様は上の空だった。
これは何をしても無駄だ。
この人は考え出すと止まらないらしい。
私は少し後ろに下がって、馬を引いている彼の従者と一緒に歩きながらフェリックス様の考え事が終わるのを待った。
彼は明らかに何かを探していた。が、『金銀細工師通り』の終わりまで来ても、探し物は見つからなかったように見えた。
私は早足で駆け寄ってフェリックス様に並ぶと声をかけた。
「少し馬を休ませてはどうでしょう。この先に小料理屋がありますので、そこの馬屋で馬を預けられます」
「わかりました。でもその前に」
フェリックス様は足を止めて私の顔を見た。
「何かあなたの気に入る物はありましたか? あなたのご苦労に報いて、何か差し上げましょう」
「……」
私は返答に詰まった。
主人が臣下や召使に何かを下さるのはよくあること。素直にそれを有難がることができれば、どんなにいいか。
しかし今、私が、彼から何か物をもらうわけにはいかない。彼に買収されたのではないかという余計な疑いを、旦那様や奥様に持たれたくない。
別に今に限らずとも、お心遣いを受け取るのに気をつけるのはいつものことで、奥様から頂き物をすればお嬢様が、お嬢様から物を頂けば奥様がいい顔をしない。
リュシアン王子も気前よく何かを下さろうとするが、それでは妙な気を起こしたのではないかとお嬢様に疑われる。
もらっても、もらわなくても、誰かに気を悪くされる。しかし、もらってしまうと、私の立場が悪くなる。
「そんなに悩むようなことですか」
私の考えの堂々巡りに気づいてか、フェリックス様は完全に苦笑いをしていた。
「あ、でも、もし頂けるのでしたら」
私はあることを思いついて言った。
前々からずっと気になっていたことがある。もしかしたら彼が助けになってくれるかもしれないし、助けにならなくても、それはそれで構わない。
「お言葉に甘えて……あの、カラスムギを二枡分、買っていただけませんか」
「カラスムギ……? いいですよ」
フェリックス様は不思議そうな顔をして、でも快諾してくれた。
私は小料理屋のはす向かいにある、屋根付きの市場に入って行った。穀物、豆類、野菜、果物などの食料品を扱う市場で、穀物はすべて量り売りだった。
フェリックス様は私のすぐ後ろからついて来て、従者は馬の手綱を持って市場の外で待つことになった。
穀物屋の前では私の前に何人か客がいて、麦の売り買いが行われていた。私はじっと目を凝らして売買の様子を観察し、自分の考えを改めて確認した。
穀物屋は枡を二つ持っていて、使い分けている。買い取る時に計量する枡と、売る時に計る枡の二つだ。枡は内側で底が斜めになっていて、片方の枡では見た目よりも量が多く、もう片方では少ない量が入るのではないかというのが、市場での公然の疑惑だった。
私が買い物をする順番が回って来て、私は麻袋を差し出して言った。
「カラスムギを」
「どれくらい?」
「二枡分。この袋と、その袋に入っているのと、両方から買いたいの。その枡とその枡で測って、合わせて一緒に袋に入れてよ」
お客が買う用に、二つの枡を両方使って測れ。
穀物屋の主は突然不機嫌になって私を恫喝した。
「なんだい……人の商品にケチをつける気か。信用ならねえんなら、何も無理して買うことはないんだ」
「ちょっとの面倒くらい、聞いてくれたっていいじゃないの。こっちはお得意様よ……」
主に言い返してから、私は振り返ってフェリックス様の方を見た。
私はわざと大声で悪態をつき続けて、主とは売り言葉に買い言葉で、騒ぎで人々の注目が集まった。
この状況でフェリックス様がどう出るか、私は彼を試した。
フェリックス様はあきれたような様子で主に言った。よく通る声だった。
「面倒だが頼む。何も別々の袋に入れてくれと言っているわけではないし。二枡が不足なら、袋ごと買う。袋だと、何枡分になるんだい?」
カラスムギの袋を重さで測って代金を支払うこともできたけれど、まるで枡で測ることしかないような言い方を彼はした。フェリックス様も計量のからくりに気づいて、私の意図を汲んでくれたのだと思う。
ついに主の方が折れた。
「ああ、うるさい旦那方だな、ほら、二枡分だよ」
「ありがとう。はじめっからそうしてくれればよかったのに」
フェリックス様が代金を支払って、私はカラスムギの袋を受け取った。
「用がねえならもうあっちへ行きな」
穀物屋の主は次の客を相手にした。
私は勝った、と思った。少なくとも、一矢報いた。
今後も両方の枡を使って、二枡ずつ取引をする者があれば、穀物屋の主の思い通りにはならない。
市場を出ながら、フェリックス様は私の耳元で言った。
「ずいぶんと訳ありな買い物でした。あなたも、無茶をしますね」
「何のことですか」
私はとぼけた。彼はひとつため息をついた。
「女性に欲しい物を聞いてはいけないという……、僕にもよい教訓でした」
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