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【第十一幕】烏賊令嬢のお涙頂戴物語
海岸に立つピクルスと長い説法の始まり
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実際、その場で死なずに済みはしたが、よくよく考えてみると、完全に助かったとまではいえない。この先ピクルスは、ずっと烏賊の着ぐるみを身に纏った状態で生きて行かなければならないのだ。そういう理解に至った。
一体どれほどの人間が分かるだろうか? この境遇の辛さと切なさを。ピクルスは天井を仰ぎ見ながら、珍しく弱気になって嘆く。
「おお神様よ、あなた様は、このわたくしを一体どうなさりたいのかしら? いえいえ、それはいけませんわね。決して神様が悪いのではなくって、わたくしがそのような星の下に生まれただけなのですわね、きっと。ええ、今ではそのように解釈致しておりますわ!!」
そうこうしていたところに、ジッゲンバーグがやってきた。キュウカンバ家で五十二年間勤めている第一執事である。
「お朝食の準備が万事整っておりますので、すぐにお支度の方をなさいませ。本日は午後から――」
いつもの決まり文句が始まった。
最期までいわせて堪るものかと、ピクルスが遮る。
「わたくしの背中にファスナーがありましたの。腰の辺りにつまみがあって、引きましたわ。すると烏賊の着ぐるみが脱げました。でも三分で息ができなくなりますのよ。お分かりかしら?」
「ピクルスお嬢様、もしやとは思いますが、ご病気をお患いになられたのではございませんか。念のため、お医者を呼ぶことに致しましょう」
この七十歳の老人が、昨日の朝、烏賊の姿になっているピクルスの姿を見ても、平然とした澄まし顔でもって、「そのようなことは普通に良くあることにございます」などといっていた。それが今「ファスナー」と聞くやいなや、病気なのだといい出す。
「あなた、そのように偏見の満ち溢れる頑固老人のままでいますと、ろくな死に方をしませんわよ、ジッゲン」
「左様で……」
結局、ピクルスは医者に診て貰うことになった
その診断結果は残酷なものとなった。どうやら、昨日から身体に起きている怪症状は、「突発性烏賊着ぐるみ症」と呼ばれている、稀に見る不治の難病らしいとのことである。
これを聞かされたピクルスは、やはり嘆くことしかできない。
「わたくし、目の前の景色が真っ黒に見えましてよ。それは、まるで空気が烏賊の墨のようなあり様ですわ……おほほ」
だが、いつものような前向きの精神を完全に失った訳ではなかった。
「ですが、このように悲劇のヒロイン然として、ふさいでいたところで、しようがありませんもの。わたくしは旅に出ますλ!」
どうしようもない烏賊墨的な気分を一掃するために、いつも愛用している戦闘機ブルーカルパッチョに乗って、たった一人で海へ向かって飛ぶことにした。
ウムラジアン大砂漠の西端に位置する海岸に着陸させたブルーカルパッチョの機体から飛び降り、ピクルスは思わず「まあ、どうしてなのですか!」と、とても大きな声を発してしまう。
なんと砂浜に、つい先ほどピクルスを見送ってくれたジッゲンバーグが立っていたのだから無理もない。邸にいるべき第一執事が先にきていたのだ。
ジッゲンバーグは、ピクルスの顔を真っすぐに見て、告白する。
「ピクルスお嬢様、いよいよ私の正体を明かす時がきたようにございます。実のところを申しますれば、私は海亀の化身なのです」
これが冗句でないことくらい、彼の目を見れば分かることである。生まれた時からのつき合いだから、ピクルスは察したのだ。
「そうでしたのね。ですが、海亀の化身でありながら、どうして地上で、といいますよりもキュウカンバの邸で、執事をしていたのです?」
「文学がなんのための学なのか、ということについてお話しさせて頂きます。文学は人間のためである、ということは今さら申すまでもございません。そしてそれは人間の更なる高みに達するべくためであるのです。ですがここで人間の更なる高みなどと表現しますと、いささか傲慢さのような臭気が漂ってきて鼻につくような嫌悪感を与えてしまう恐れもあるでしょうし、言葉を変更して、人間の幅と深みを増すべくとしておきましょう。もちろん、幅を増すというのが多量に食べて肥満するという意味でないのは、明明白白にございましょう。食べるという意味におきましては、たしかに食べる行為に類するのではございますが、その目的は、身体のための糧にすることではなく、心のための糧にすることなのです。木が土壌から養分を摂って幹を太くし根を深く張りやがて大樹となるように、人間もまた文学から良文を採って神を太くし精を深く張りやがて大人となるのです。立派な根幹と十全な精神を育成するためなのです」
ここでジッゲンバーグは一息ついた。
ピクルスは、話の内容を全く理解できていない。
やめさせようかとも思うのだが、無理に遮ると、余計に長くなることは経験上分かっている。だから黙っていることにした。
「ですがここで、どうしてそれに文学をか、という素朴なる質疑糾問の念を、ピクルスお嬢様は抱かれたことでしょう?」
「シュアー!」
「早早に結論を申しますれば、文学でなくともよろしゅうございます。科学追究であっても、調理実習でもよろしいのです。あるいは裸婦画でも、あいえそれにつきましては言及せず、個人的にそういうのを好きでなくもない、と述べるに留めておきましょう。要するに、そのような多種多様の文化的精神活動のうちの一例として挙げております。文学においてもまた、裸婦画に負けず劣らずエロス、すなわち美や善への精神的な愛が満ち溢れています。プシュケーがひたすらエロスに求められて止まないのであります」
ここで再度ジッゲンバーグは一息つく。
一体どれほどの人間が分かるだろうか? この境遇の辛さと切なさを。ピクルスは天井を仰ぎ見ながら、珍しく弱気になって嘆く。
「おお神様よ、あなた様は、このわたくしを一体どうなさりたいのかしら? いえいえ、それはいけませんわね。決して神様が悪いのではなくって、わたくしがそのような星の下に生まれただけなのですわね、きっと。ええ、今ではそのように解釈致しておりますわ!!」
そうこうしていたところに、ジッゲンバーグがやってきた。キュウカンバ家で五十二年間勤めている第一執事である。
「お朝食の準備が万事整っておりますので、すぐにお支度の方をなさいませ。本日は午後から――」
いつもの決まり文句が始まった。
最期までいわせて堪るものかと、ピクルスが遮る。
「わたくしの背中にファスナーがありましたの。腰の辺りにつまみがあって、引きましたわ。すると烏賊の着ぐるみが脱げました。でも三分で息ができなくなりますのよ。お分かりかしら?」
「ピクルスお嬢様、もしやとは思いますが、ご病気をお患いになられたのではございませんか。念のため、お医者を呼ぶことに致しましょう」
この七十歳の老人が、昨日の朝、烏賊の姿になっているピクルスの姿を見ても、平然とした澄まし顔でもって、「そのようなことは普通に良くあることにございます」などといっていた。それが今「ファスナー」と聞くやいなや、病気なのだといい出す。
「あなた、そのように偏見の満ち溢れる頑固老人のままでいますと、ろくな死に方をしませんわよ、ジッゲン」
「左様で……」
結局、ピクルスは医者に診て貰うことになった
その診断結果は残酷なものとなった。どうやら、昨日から身体に起きている怪症状は、「突発性烏賊着ぐるみ症」と呼ばれている、稀に見る不治の難病らしいとのことである。
これを聞かされたピクルスは、やはり嘆くことしかできない。
「わたくし、目の前の景色が真っ黒に見えましてよ。それは、まるで空気が烏賊の墨のようなあり様ですわ……おほほ」
だが、いつものような前向きの精神を完全に失った訳ではなかった。
「ですが、このように悲劇のヒロイン然として、ふさいでいたところで、しようがありませんもの。わたくしは旅に出ますλ!」
どうしようもない烏賊墨的な気分を一掃するために、いつも愛用している戦闘機ブルーカルパッチョに乗って、たった一人で海へ向かって飛ぶことにした。
ウムラジアン大砂漠の西端に位置する海岸に着陸させたブルーカルパッチョの機体から飛び降り、ピクルスは思わず「まあ、どうしてなのですか!」と、とても大きな声を発してしまう。
なんと砂浜に、つい先ほどピクルスを見送ってくれたジッゲンバーグが立っていたのだから無理もない。邸にいるべき第一執事が先にきていたのだ。
ジッゲンバーグは、ピクルスの顔を真っすぐに見て、告白する。
「ピクルスお嬢様、いよいよ私の正体を明かす時がきたようにございます。実のところを申しますれば、私は海亀の化身なのです」
これが冗句でないことくらい、彼の目を見れば分かることである。生まれた時からのつき合いだから、ピクルスは察したのだ。
「そうでしたのね。ですが、海亀の化身でありながら、どうして地上で、といいますよりもキュウカンバの邸で、執事をしていたのです?」
「文学がなんのための学なのか、ということについてお話しさせて頂きます。文学は人間のためである、ということは今さら申すまでもございません。そしてそれは人間の更なる高みに達するべくためであるのです。ですがここで人間の更なる高みなどと表現しますと、いささか傲慢さのような臭気が漂ってきて鼻につくような嫌悪感を与えてしまう恐れもあるでしょうし、言葉を変更して、人間の幅と深みを増すべくとしておきましょう。もちろん、幅を増すというのが多量に食べて肥満するという意味でないのは、明明白白にございましょう。食べるという意味におきましては、たしかに食べる行為に類するのではございますが、その目的は、身体のための糧にすることではなく、心のための糧にすることなのです。木が土壌から養分を摂って幹を太くし根を深く張りやがて大樹となるように、人間もまた文学から良文を採って神を太くし精を深く張りやがて大人となるのです。立派な根幹と十全な精神を育成するためなのです」
ここでジッゲンバーグは一息ついた。
ピクルスは、話の内容を全く理解できていない。
やめさせようかとも思うのだが、無理に遮ると、余計に長くなることは経験上分かっている。だから黙っていることにした。
「ですがここで、どうしてそれに文学をか、という素朴なる質疑糾問の念を、ピクルスお嬢様は抱かれたことでしょう?」
「シュアー!」
「早早に結論を申しますれば、文学でなくともよろしゅうございます。科学追究であっても、調理実習でもよろしいのです。あるいは裸婦画でも、あいえそれにつきましては言及せず、個人的にそういうのを好きでなくもない、と述べるに留めておきましょう。要するに、そのような多種多様の文化的精神活動のうちの一例として挙げております。文学においてもまた、裸婦画に負けず劣らずエロス、すなわち美や善への精神的な愛が満ち溢れています。プシュケーがひたすらエロスに求められて止まないのであります」
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