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1、不思議な犬現れる
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勝手犬
1、 不思議な犬現れる
「新学期に向けて、、、。」
など、誰かが朗々と作文を読み上げているが、どうせろくなことはおこるまいと光男は思った。
どうせ、この学校にいるというだけで、人種差別のように馬鹿にされるのである。偏差値が低いというだけで、日本では身分が決まってしまうらしい。自由に勉強して、やりたい職業につけと偉い人は言うが、偏差値と経済力、これのせいで、自動的に職業は決まっていく。だから夢なんて持つべきじゃない。大事なことは、どうやって教師のマインドコントロールから乗り越え、どうやってお金を儲けて、金持ちになれるか、これである。
始業式が終わると、授業が始まる。それだって、授業にはならない。スマートフォンを回収するのに30分。黙らせるのに20分で終わってしまう。こんな授業を聞いても仕方ないのである。光男は、勉強したいという意思がないわけではないが、他の生徒がそれを妨げるので、勉強は大嫌いになってしまっていた。
それでも、光男が唯一面白いなと思っていた科目がある。それは世界史だった。それ全体が一つの物語を聞かされているみたいで、このような事件があったからこそ、現代社会があるのかと、感動してしまうものであった。その時は、ノートを開いて、鉛筆をしっかりと握りしめて、先生の話をよく聞いていられた。ほかの生徒がしゃべっていても気にならなかった。
逆に、大嫌いなものは国語だ。どうせ登場人物の話をしたって、先生がいう正しい答えをしっかり言わなければ合格とされない。いくら発表したって、正しい答えだと思えなければ落第だ。光男は、なぜその答えが正しい答えなのか説明してほしいと思ったことはよくあったが、それを口にすれば、教師の激しい叱責が待っているから、何も言わなかった。
「こら!」
と教師が怒鳴った。
その時、まさに国語の授業だった。つまらないときは、歴史の漫画をこっそり読んでいるのがお決まりになっていた。
「おい、こっちに来てみろ!」
光男ははっと我に返って、
「は、はい。」
「ここへきて、漢字を書いてみろ。」
「わ、わかりました。」
と、しぶしぶ黒板の前に出た。
「ここへ、公明正大と書いてみろ。」
「は、は、はい。」
と、言われても、その漢字を思い出せない。光男は頭をがりがりとかいて、チョークを取り、「孔明正大」と書いた。
「馬鹿たれ!今なんの授業だと思っているんだ!」
と、頭上がら、怒鳴り声が聞こえてきた。
「今は、現代文の授業で世界史の授業ではない!そんなに諸葛亮孔明が好きなら、廊下に立っとれ!」
周りの生徒がどっと笑いだした。光男は、しぶしぶ教室のドアを開けて、廊下にたった。その授業が終わるまで、光男は廊下に立っているしかなかった。
放課後、光男はまっすぐ家に帰った。部活なんてとてもやる気になれない。それに教師たちは進学率しか頭にないから、部活というものをことごとく禁止した。だから、部活を一生懸命やる、というのは、本当にごく少数の生徒しかいなかった。それに、優等生は、補習で夜遅くまで学校に残らされる。
家に帰っても、光男は居場所がなかった。優等生だった兄が、家を占拠しているようなものである。兄の世話で精いっぱいな母は、それに気を取られすぎて、こちらを向いてくれることはほとんどない。
「僕は不純物なんだな。」
と、光男はつぶやいた。どうせ今日あったことは、すでに学校から電話で聞かされていることだろう。家に帰ったら、叱られるにきまってる。光男は、駅へ行って、いつも帰る行き先とは、反対方向へ行くことにした。
とはいっても行くところはない。ずっと電車に乗り続けていたら、電車は東京までついてしまった。東京は、光男の住んでいる街と全然違う。にぎやかだし、華やかだし、そして眠らない。
「はあ、兄ちゃんは、ずっとここへ通っていたのかあ。」
兄は、東京芸術大学に通っていた。日本の音楽大学の最高峰だという。下宿を取ることはできなかったから、毎日電車で大学に通っていたのだ。そのまま延長線で大学院まで通い、遂に博士号まで取った。きっと、天才的なピアニストになれると周囲は期待を寄せていたが、その兄、由紀夫は大学院を卒業した直後、上野公園で倒れたところを発見された。SLEだった。いわゆる、リウマチのひどい奴だ。それから、しばらくして、歩けなくなっていき、遂に寝たきりになってしまった。
「お客さん。終点ですよ。降りてください。」
と、中年の車掌がいった。
「は、はい。」
光男は急いで電車を降りると、そこには「渋谷」と書かれていた。
「な、なんで渋谷まできてしまったのだろう、、、。」
大きなため息をついた。
とりあえず駅を出なくてはならない。光男は急いでハチ公口を見つけ、そこから外へ出た。
パスモをもっていたから、改札も気にならなかった。夕方の渋谷は、通勤客で混雑していた。
光男が、ハチ公口のゲートで、どこかの喫茶店にでも入ろうかなあと考えて、周りを見渡すと、ハチ公の像の前に小さな段ボール箱が置かれている。その段ボール箱は、左右に動いているようなのだ。何か作動中の機械でも入っているのではないかと思って、光男はハチ公の像の前に近づいた。
箱を触ってみると、明らかに動いている。しかも蓋はガムテープで止められていた。光男はその箱のふたをもっていたカッターナイフで慎重に開けた。
「い、犬!!」
中に入っていたのは、犬である。しかし、皮膚がむき出しで毛は生えていない。頭の上にモヒカン上の毛が生えているだけなのだ。いわゆるヘアレスドックというものだろうと、光男はすぐにわかった。かつて、インカ帝国について書かれていた歴史小説に、毛のない犬を、体を悪くしたときに抱いて、あんかの代わりにしていたという記述があった。犬は、紫がかかった、黒っぽい皮膚をして、大体ラブラドールと同じくらいの大きさの大型だった。乳首がないので、雄犬だった。
「捨て犬か。お前も居場所がなかったんだな。」
妙に親近感を覚えた。もしかしたら、虐待をされていたのかもしれない。体に殴られたような跡もあった。
「お前もうちに来ないか?こんなところで野良犬になるよりも、いいところだぞ。」
犬は嬉しそうにワン、と吠えた。
「じゃあ、行くか。」
光男はもう一度犬を段ボール箱に入れ、それを抱えて渋谷駅に戻り、電車に乗って家に帰った。家に着くと、もう夜の八時を過ぎてしまっていた。
「なんでこんなにおそかったの?」
母親の恵子も、もう仕事が終わって帰ってきていた。
「うん。補習で忙しかったんだ。」
「この箱は何?」
「ああ、駅で拾ってきた。僕がせわをするから心配ないよ。名前は、電車の中で考えてきたんだけど、名前は孔明だ。」
と、箱の中から犬が出てきて、恵子の足元に座った。
「まあ、これ、犬じゃない!何馬鹿なことやってるの!あんただって学校があるし、由紀夫の治療費でお金かかるのに、エサ代だって確保しなきゃならないのよ。うちではもう、これ以上お金が、、、。」
「いいよ、俺が面倒みるから。」
「そう簡単に言うもんじゃあないわ。あんただって、学校があるんだから。」
「学校なんて何になるんだ。何もならないよ。」
光男は思わず本音を言った。母は、嫌そうな顔をした。
「しかも、この犬、毛が何もないのね。」
「うん。いわゆるペルービアン、ヘアレスドック、というやつだね。」
「でも、うちでは飼育できないわ。」
そう言っていると、犬はどこかへ向かって歩き出してしまった。
「おい、待て!」
そんなことは耳に入らないのか、犬はどんどん奥の部屋に行ってしまうのである。
「奥の部屋は、兄ちゃんが、、、。」
それも耳に入らないらしい。犬は奥の部屋のドアを勝手に開けて、部屋に入ってしまった。大型犬だから、ドアノブに届いてしまい、勝手にドアを開けてしまうこともできるのだ。
奥の部屋では、由紀夫がベッドに寝ていた。かつてのピアニストとして輝いていた顔はどこへやらというくらい弱っていた。
犬は、由紀夫のそばへ近寄って、二回ほど吠えた。
「犬か、、、。」
由紀夫は彼の頭を優しく撫でてやった。
「どっからきた?」
「ワン!」
「きっと、犬語で何かしゃべってるんだろうな。」
由紀夫は、優しく言った。そういう優しいところが、亡くなった父にそっくりなのである。
と、突然、犬はベッドに駆け上がり、由紀夫の顔をぺろぺろとなめ始めた。
「な、な、なに、」
始めは驚いたようだが、犬はさらに顔をなめるのである。
「あはは、くすぐったいよ。やめてくれ。」
それでも犬が続けるので、由紀夫は思わず顔を払いのけようとした。
「あ、あ、由紀夫が、、、!」
思わず、追いかけてきた恵子が、たたこうと持っていた、布団たたきを落とした。
「腕を動かした!」
光男もそれに続いて、口を開けたままになってしまった。
「兄ちゃん!やったよ!あれほど痛いと言って動かすことすらできなかった腕をこんなに簡単に動かしてしまうとは、もしかしたら、、、奇跡だ!」
恵子は由紀夫のほうへ掛けよった。
「由紀夫、腕は痛くないの?」
「はい、何も?」
答えがさらりと出たので、恵子は涙を流した。何人ものリハビリの先生が、匙を投げた腕だ。
「兄ちゃんが笑ったからじゃないか?」
光男は、母にそっと言った。
「彼のおかげだよ。」
なおも、顔をなめ続ける犬に、由紀夫はそう説明した。
「もう、大丈夫だから、顔をなめるのは、やめて。あ、何か名前があったほうがいいね。なあ、光男。」
「兄ちゃん、もう決めちゃった。名前は孔明だ。諸葛亮孔明。」
「諸葛亮ね。わかったよ。かわいいな、お前がいてくれたらいいな。」
そういって、由紀夫は、そのモヒカン頭を撫でた。
「頭が触れる、、、。」
恵子はまだ開いた口がふさがらなかったが、
「お母さん。そろそろご飯に」
と、由紀夫の言葉を聞いて、すぐに我に返った。
「そういえば、俺も、ご飯なんてまだ食べていなかった。」
光男は、初めて腹が減った気がした。
「そうね、いいかげんにご飯を食べないと明日に響くわよね。今日も簡単なものになっちゃうけど、ごめんね。」
と、恵子は涙を拭きながら、部屋を出て行った。
「兄ちゃん、よかったな。」
光男もうれしいやら照れくさいやらで泣いている。由紀夫は、今までの生きるしかばねのような顔から穏やかな、笑顔になっていた。
「二人とも、ご飯よ!」
母の元気な声が聞こえてくる。
「先に食べて来い、後で持ってきてくれればいい。」
「わかったよ。」
光男は、涙を拭いて食堂に向かっていった。
「諸葛亮、お前もいけ。」
由紀夫がそういうので、孔明はベッドから降りて光男の後をついていった。
光男が食堂に行くと、レトルトのカレーを母が準備して待っていた。
「君はこれ。」
恵子は、小皿に新品のドッグフードを入れて、孔明の前に置いた。
「母ちゃん、ドッグフードどうしたんだ?」
「お隣から、分けてもらってきたの。さあ、新しい家族と一緒に食べましょう。」
孔明は、毛のない口で、がつがつとドッグフードを食べ始めた。光男も、カレーを口にしたが、それは、どこかの高級ホテルで食べているくらいおいしいカレーだった。
1、 不思議な犬現れる
「新学期に向けて、、、。」
など、誰かが朗々と作文を読み上げているが、どうせろくなことはおこるまいと光男は思った。
どうせ、この学校にいるというだけで、人種差別のように馬鹿にされるのである。偏差値が低いというだけで、日本では身分が決まってしまうらしい。自由に勉強して、やりたい職業につけと偉い人は言うが、偏差値と経済力、これのせいで、自動的に職業は決まっていく。だから夢なんて持つべきじゃない。大事なことは、どうやって教師のマインドコントロールから乗り越え、どうやってお金を儲けて、金持ちになれるか、これである。
始業式が終わると、授業が始まる。それだって、授業にはならない。スマートフォンを回収するのに30分。黙らせるのに20分で終わってしまう。こんな授業を聞いても仕方ないのである。光男は、勉強したいという意思がないわけではないが、他の生徒がそれを妨げるので、勉強は大嫌いになってしまっていた。
それでも、光男が唯一面白いなと思っていた科目がある。それは世界史だった。それ全体が一つの物語を聞かされているみたいで、このような事件があったからこそ、現代社会があるのかと、感動してしまうものであった。その時は、ノートを開いて、鉛筆をしっかりと握りしめて、先生の話をよく聞いていられた。ほかの生徒がしゃべっていても気にならなかった。
逆に、大嫌いなものは国語だ。どうせ登場人物の話をしたって、先生がいう正しい答えをしっかり言わなければ合格とされない。いくら発表したって、正しい答えだと思えなければ落第だ。光男は、なぜその答えが正しい答えなのか説明してほしいと思ったことはよくあったが、それを口にすれば、教師の激しい叱責が待っているから、何も言わなかった。
「こら!」
と教師が怒鳴った。
その時、まさに国語の授業だった。つまらないときは、歴史の漫画をこっそり読んでいるのがお決まりになっていた。
「おい、こっちに来てみろ!」
光男ははっと我に返って、
「は、はい。」
「ここへきて、漢字を書いてみろ。」
「わ、わかりました。」
と、しぶしぶ黒板の前に出た。
「ここへ、公明正大と書いてみろ。」
「は、は、はい。」
と、言われても、その漢字を思い出せない。光男は頭をがりがりとかいて、チョークを取り、「孔明正大」と書いた。
「馬鹿たれ!今なんの授業だと思っているんだ!」
と、頭上がら、怒鳴り声が聞こえてきた。
「今は、現代文の授業で世界史の授業ではない!そんなに諸葛亮孔明が好きなら、廊下に立っとれ!」
周りの生徒がどっと笑いだした。光男は、しぶしぶ教室のドアを開けて、廊下にたった。その授業が終わるまで、光男は廊下に立っているしかなかった。
放課後、光男はまっすぐ家に帰った。部活なんてとてもやる気になれない。それに教師たちは進学率しか頭にないから、部活というものをことごとく禁止した。だから、部活を一生懸命やる、というのは、本当にごく少数の生徒しかいなかった。それに、優等生は、補習で夜遅くまで学校に残らされる。
家に帰っても、光男は居場所がなかった。優等生だった兄が、家を占拠しているようなものである。兄の世話で精いっぱいな母は、それに気を取られすぎて、こちらを向いてくれることはほとんどない。
「僕は不純物なんだな。」
と、光男はつぶやいた。どうせ今日あったことは、すでに学校から電話で聞かされていることだろう。家に帰ったら、叱られるにきまってる。光男は、駅へ行って、いつも帰る行き先とは、反対方向へ行くことにした。
とはいっても行くところはない。ずっと電車に乗り続けていたら、電車は東京までついてしまった。東京は、光男の住んでいる街と全然違う。にぎやかだし、華やかだし、そして眠らない。
「はあ、兄ちゃんは、ずっとここへ通っていたのかあ。」
兄は、東京芸術大学に通っていた。日本の音楽大学の最高峰だという。下宿を取ることはできなかったから、毎日電車で大学に通っていたのだ。そのまま延長線で大学院まで通い、遂に博士号まで取った。きっと、天才的なピアニストになれると周囲は期待を寄せていたが、その兄、由紀夫は大学院を卒業した直後、上野公園で倒れたところを発見された。SLEだった。いわゆる、リウマチのひどい奴だ。それから、しばらくして、歩けなくなっていき、遂に寝たきりになってしまった。
「お客さん。終点ですよ。降りてください。」
と、中年の車掌がいった。
「は、はい。」
光男は急いで電車を降りると、そこには「渋谷」と書かれていた。
「な、なんで渋谷まできてしまったのだろう、、、。」
大きなため息をついた。
とりあえず駅を出なくてはならない。光男は急いでハチ公口を見つけ、そこから外へ出た。
パスモをもっていたから、改札も気にならなかった。夕方の渋谷は、通勤客で混雑していた。
光男が、ハチ公口のゲートで、どこかの喫茶店にでも入ろうかなあと考えて、周りを見渡すと、ハチ公の像の前に小さな段ボール箱が置かれている。その段ボール箱は、左右に動いているようなのだ。何か作動中の機械でも入っているのではないかと思って、光男はハチ公の像の前に近づいた。
箱を触ってみると、明らかに動いている。しかも蓋はガムテープで止められていた。光男はその箱のふたをもっていたカッターナイフで慎重に開けた。
「い、犬!!」
中に入っていたのは、犬である。しかし、皮膚がむき出しで毛は生えていない。頭の上にモヒカン上の毛が生えているだけなのだ。いわゆるヘアレスドックというものだろうと、光男はすぐにわかった。かつて、インカ帝国について書かれていた歴史小説に、毛のない犬を、体を悪くしたときに抱いて、あんかの代わりにしていたという記述があった。犬は、紫がかかった、黒っぽい皮膚をして、大体ラブラドールと同じくらいの大きさの大型だった。乳首がないので、雄犬だった。
「捨て犬か。お前も居場所がなかったんだな。」
妙に親近感を覚えた。もしかしたら、虐待をされていたのかもしれない。体に殴られたような跡もあった。
「お前もうちに来ないか?こんなところで野良犬になるよりも、いいところだぞ。」
犬は嬉しそうにワン、と吠えた。
「じゃあ、行くか。」
光男はもう一度犬を段ボール箱に入れ、それを抱えて渋谷駅に戻り、電車に乗って家に帰った。家に着くと、もう夜の八時を過ぎてしまっていた。
「なんでこんなにおそかったの?」
母親の恵子も、もう仕事が終わって帰ってきていた。
「うん。補習で忙しかったんだ。」
「この箱は何?」
「ああ、駅で拾ってきた。僕がせわをするから心配ないよ。名前は、電車の中で考えてきたんだけど、名前は孔明だ。」
と、箱の中から犬が出てきて、恵子の足元に座った。
「まあ、これ、犬じゃない!何馬鹿なことやってるの!あんただって学校があるし、由紀夫の治療費でお金かかるのに、エサ代だって確保しなきゃならないのよ。うちではもう、これ以上お金が、、、。」
「いいよ、俺が面倒みるから。」
「そう簡単に言うもんじゃあないわ。あんただって、学校があるんだから。」
「学校なんて何になるんだ。何もならないよ。」
光男は思わず本音を言った。母は、嫌そうな顔をした。
「しかも、この犬、毛が何もないのね。」
「うん。いわゆるペルービアン、ヘアレスドック、というやつだね。」
「でも、うちでは飼育できないわ。」
そう言っていると、犬はどこかへ向かって歩き出してしまった。
「おい、待て!」
そんなことは耳に入らないのか、犬はどんどん奥の部屋に行ってしまうのである。
「奥の部屋は、兄ちゃんが、、、。」
それも耳に入らないらしい。犬は奥の部屋のドアを勝手に開けて、部屋に入ってしまった。大型犬だから、ドアノブに届いてしまい、勝手にドアを開けてしまうこともできるのだ。
奥の部屋では、由紀夫がベッドに寝ていた。かつてのピアニストとして輝いていた顔はどこへやらというくらい弱っていた。
犬は、由紀夫のそばへ近寄って、二回ほど吠えた。
「犬か、、、。」
由紀夫は彼の頭を優しく撫でてやった。
「どっからきた?」
「ワン!」
「きっと、犬語で何かしゃべってるんだろうな。」
由紀夫は、優しく言った。そういう優しいところが、亡くなった父にそっくりなのである。
と、突然、犬はベッドに駆け上がり、由紀夫の顔をぺろぺろとなめ始めた。
「な、な、なに、」
始めは驚いたようだが、犬はさらに顔をなめるのである。
「あはは、くすぐったいよ。やめてくれ。」
それでも犬が続けるので、由紀夫は思わず顔を払いのけようとした。
「あ、あ、由紀夫が、、、!」
思わず、追いかけてきた恵子が、たたこうと持っていた、布団たたきを落とした。
「腕を動かした!」
光男もそれに続いて、口を開けたままになってしまった。
「兄ちゃん!やったよ!あれほど痛いと言って動かすことすらできなかった腕をこんなに簡単に動かしてしまうとは、もしかしたら、、、奇跡だ!」
恵子は由紀夫のほうへ掛けよった。
「由紀夫、腕は痛くないの?」
「はい、何も?」
答えがさらりと出たので、恵子は涙を流した。何人ものリハビリの先生が、匙を投げた腕だ。
「兄ちゃんが笑ったからじゃないか?」
光男は、母にそっと言った。
「彼のおかげだよ。」
なおも、顔をなめ続ける犬に、由紀夫はそう説明した。
「もう、大丈夫だから、顔をなめるのは、やめて。あ、何か名前があったほうがいいね。なあ、光男。」
「兄ちゃん、もう決めちゃった。名前は孔明だ。諸葛亮孔明。」
「諸葛亮ね。わかったよ。かわいいな、お前がいてくれたらいいな。」
そういって、由紀夫は、そのモヒカン頭を撫でた。
「頭が触れる、、、。」
恵子はまだ開いた口がふさがらなかったが、
「お母さん。そろそろご飯に」
と、由紀夫の言葉を聞いて、すぐに我に返った。
「そういえば、俺も、ご飯なんてまだ食べていなかった。」
光男は、初めて腹が減った気がした。
「そうね、いいかげんにご飯を食べないと明日に響くわよね。今日も簡単なものになっちゃうけど、ごめんね。」
と、恵子は涙を拭きながら、部屋を出て行った。
「兄ちゃん、よかったな。」
光男もうれしいやら照れくさいやらで泣いている。由紀夫は、今までの生きるしかばねのような顔から穏やかな、笑顔になっていた。
「二人とも、ご飯よ!」
母の元気な声が聞こえてくる。
「先に食べて来い、後で持ってきてくれればいい。」
「わかったよ。」
光男は、涙を拭いて食堂に向かっていった。
「諸葛亮、お前もいけ。」
由紀夫がそういうので、孔明はベッドから降りて光男の後をついていった。
光男が食堂に行くと、レトルトのカレーを母が準備して待っていた。
「君はこれ。」
恵子は、小皿に新品のドッグフードを入れて、孔明の前に置いた。
「母ちゃん、ドッグフードどうしたんだ?」
「お隣から、分けてもらってきたの。さあ、新しい家族と一緒に食べましょう。」
孔明は、毛のない口で、がつがつとドッグフードを食べ始めた。光男も、カレーを口にしたが、それは、どこかの高級ホテルで食べているくらいおいしいカレーだった。
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