実結と恋と青春の謎

壱ノ瀬和実

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想いは燃ゆる。

♯3

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 冬だからと言って、太陽が燦燦と輝く時間まで寒苦に責められる訳ではない。なんだか今日は暖かいね、などという昼間もあるのだ。今日がそうだった。気温はどうあれ、体感は太陽熱を浴びて心地よかった。

 実結さんと待ち合わせたのは、実結さんが在籍する大学の学食だった。学外の人間でも自由に利用できるというのがなかなかに便利だとも思ったが、はじける青春の真っ只中にこの身一つで飛び込むのはなかなかに勇気のいることだった。

 広い学食は、一面ガラス張りのおかげか入り込む日光の量が並みでなく、私はニット帽と薄手のジャンパーを脱いだ。

 学食のメニュー自体はさほど多くはなかった。しかし安い。実に安い。味噌カツ定食味噌汁おかわり自由が五〇〇円でお釣りが来る店が世の中にあろうか。学生の財布にも私の財布にも優しいことこの上ないが、申し訳なさすら覚えるこの値段設定に私は「すみません」と言いながら食券をおばちゃんに渡した。

 数分待って、私は味噌カツ定食、実結さんはきつねうどんが載った盆を手に、四人掛けのテーブルについた。

「で、今日はどんなお話で」

 と訊ねると、手を合わせて行儀良く「いただきます」と口にした実結さんは、向かいからかわいらしい瞳を私に向けた。

「はい。まずは、四件目が発生するリスクと、次のターゲットは誰なのか、です」
「四件目」

 実結さんは首肯した。

「関係性から申し上げて、倉橋くんは高校の後輩です。ここ二年は、数ヶ月に一度書店でお会いする程度でした。大学の友人というのも学内で会うだけで、プライベートでは一度会ったのと、書店でお見かけした程度。であれば、もう少し深い関係の方が狙われることを想像するのは当然かと思います。例えば麗奈さん、真奈加ちゃんです」

 実結さんの周囲がのべつ幕なしに狙われるというなら、私たちは比較的近しい人間としてターゲットたり得るだろう。始めから、不安に感じていたことだった。

「正直、あまり夜は眠れてませんよ」
「すみません、わたしのせいで」
「いやいや、一番苦しい思いをしてらっしゃるのは実結さんですから、気に病まないでください。わたしのことより、ご自身の心配を」
「ありがとうございます。そうですね。わたしも、もう少し眠らないといけないですね」

 思えば、いつもかわいらしい実結さんだが、温かなスープをすする姿も以前よりは弱々しく見える。憔悴しきっているとまではいかないが、私なんかよりも長い間不安な夜を過ごす実結さんが、疲れていない筈はない。

「早く解決しましょうね」私は語気を少し強めた。
「はい。そうですね」

 すると、実結さんが私の肩越しに何かを見ていた。

「どうしました?」私は味噌カツを頬張っていた。
「友人です。昨日訪ねて不在だった」
「いたんですか」
「はい」と言って実結さんが立ち上がった。膝元まである紺色の薄手のカーディガンをふわりと舞わせ、珍しく小走りで実結さんはその人の元へ向かう。
「女の子走りかわいいなあ」と呟いている内に連れてこられていたのは、いかにも遊んでいそうな女性だった。

 チョコレートカラーのロングヘアは鎖骨辺りから少しだけカールしていて印象が明るく、目許はぱっちり二重。おとなしいチークは少しだけ清純さを漂わせているけれど、ぽってりとした唇のピンク色には妙に色気がある。

「どうしたの、実結」その女性は明らかに戸惑っていた。小走りの実結さんに連れてこられたのだ。そうなるだろう。
「お話したかったんです。連絡を試みてもなかなか繋がらず、昨日はお家を訪ねたのですが、お留守で」
「家?」女性はやや驚いた様子だったが、すぐに引きつったような笑みを浮かべた。「ああ、そうね。ごめん。ちょっと、やっぱ、色々あったから」

 女性は実結さんに促されるまま席に着いた。とてつもなく美人だ。目の前にして分かる。間違いなく、もてる。

「実結さん。この方が例の事件の?」
「はい。三件目の被害者です」
「さん、けんめ?」女性は可愛らしく首を傾げた。
「ええ。この辺りで起きている不審火事件です。麻衣ちゃんの住むアパートのゴミ捨て場で起きた不審火は、その三件目とされています」
「そうなんだ。三件目か」

 事件に怯えてはいるのだろうが、しかしその概要にまでは頓着がない様子の女性は、実結さんの呼び方から麻衣というらしい。

「お話したかったのはその事件のことなのです。被害に遭われた日や、その前後、何かおかしなことやもしくは……」

 と本題に入った実結さんを遮るように、携帯の着信音が鳴った。実結さんと、麻衣の携帯からだ。学食内の何人かも、ほぼ同じタイミングで携帯を開いていた。

「もう」と言いながら、実結さんは携帯を開いた。かわいい。

 電話ではなくメールだったようで、実結さんは「はっ」として、こう言った。

「麗奈さん。四件目です。四件目の不審火が起きました」
「ぶっ……ま、マジですか」危うく味噌汁を噴き出しそうになった。

 机越しに携帯画面を見せてもらう。メールの内容はこうだ。


遠柿とおかき市メールサービス
 消防情報
 本日十二月二十日、午前二時頃。○○町の住宅敷地内にて不審火』


「――え、これだけ?」びくびくさせられたが、拍子抜けした。
「これだけ、ですね。ここまで情報の少ない内容は初めてかもしれません」
「うん。ほんとにね」という麻衣も、自身の携帯を覗いていた。どうやら同じものが届いているらしい。
「麻衣ちゃんも登録なさっているんですね……メールマガジン」
「物騒な世の中だしね。一人暮らし始めてすぐに」
「そうなんですか。わたしはつい最近登録したばかりで、いけませんね、そういうことには敏感になっておかないと」
「そうだよ。あんたも一人暮らしなんだし、気をつけないと」

 実結さんの周囲が狙われている、ということは、私と実結さんしか知らない。麻衣はおそらく、自分は偶然狙われた、と思っているのだ。そう思っている方が楽だろうと今の私はそう思う。

「しかし、このメール、どうしてこんな時間に配信されたのでしょうか」実結さんは首を傾いだ。「取るに足らないものなら配信しませんし、もし一大事なら夜中でも配信すべきで、遅くとも朝早くには届けなければいけないことです。そう考えると、未明の事件をお昼にというのは、少しおかしいです」

 あまりにも薄い内容と、配信時間に疑問を覚えているようだった。

「なんか新事実判明、みたいなことがあったんじゃないの」麻衣はそう言った。
「なるほどです。単なる事故による小火だと思って調べてみると、もしか不審火、と疑うべき何かが出て来た、ということもありえますね。例えば……深夜に不審な人物を見かけた、という証言を得た、ですとか」
「ということは、その証言から犯人が見つかる可能性もあるってことですかね」
「ええ。であればいいのですが。過信せず、急いだ方がいいでしょうね」

 今度は麻衣が首を傾げた。「なんで急ぐの?」

 実結さんは明らかな作り笑顔で、隣に座る麻衣を見た。

「少しだけ調べているのです。実は、二件目に被害に遭われたのは、以前わたしに、その、想いを伝えてくださった方の家でして」

 実結さんは隠さなかった。友人と言う割に学外では会わないという関係の薄さからは考えられないほど、迷いなく教えた。

「日比野の家だったの?」麻衣から出たのは、また知らない名前だった。
「いえ。日比野くんではなくて」
「へえ、違うんだ。意外だなあ。日比野以外にも告白されてたなんて、結構幅広い人からモテてんじゃん」

 実結さんの脇腹を肘で小突きながら、麻衣の言い方は若干、皮肉染みていた。

「そんな」実結さんは謙遜した。

 私も実結さんに好意を寄せているから、幅広くモテるというのはその通りなので、その謙遜は間違いだ。

「ちなみにですが、麻衣ちゃんは六日の夜のことを憶えていらっしゃいますか?」
「ん? なんで?」麻衣の表情が怪訝なものになった。
「一応ですよ」

 六日の夜、というのは、連続不審火一件目、実結さんの自宅近くのゴミ捨て場が燃やされた日のことだ。アリバイを知りたいのだろう。倉橋くんにも訊いていたことから、実結さんは友人をも疑っていた。現状、仕方のないことだ。

「六日って言ったら、たぶん咲恵の家に泊まってたんじゃないかな」

 実結さんは、「咲恵さんは麻衣ちゃんのお友達です」と、私に潜めた声で言った。

「サークル旅行の計画したのが確か六日だから、うん。咲恵の家にいた」
「そうですか。ありがとうございます」実結さんは頭を下げて、その後、事件については話題に出さなかった。

 一度訝った彼女に対し、もし二件目のアリバイまで訊いてしまえば、憤るか、少なくとも不快には思ってしまうだろう。そんな雰囲気がある。いわゆる『イケイケ』な感じに慣れない私の偏見には違いないけれど、そう差異はないと思う。

 麻衣は携帯を見ながら、「ごめん。咲恵に呼ばれた」と言って、席を立った。

「はい。また、ご連絡します」

 麻衣は女の子らしい甘い香りを残して、さわやかに去って行った。

「麻衣ちゃんのアリバイ、は確かなようですね」
「どうしてですか?」
「咲恵さんに麻衣ちゃんのご自宅を訊ねた際、今と同じことを訊いたんです。咲恵さんも確かに、六日は麻衣ちゃんと一晩中一緒にいた、と仰っています」
「じゃあ、あの人は犯人じゃない、か」

 すっかり冷めた味噌カツ定食、とりわけ残念なことになった味噌汁を、私はすすった。顔をしかめていると、実結さんはいつの間にか食べ終えていた。

「あの、麗奈さん、午後からもお時間を頂いてよろしいですか?」
「いいですけど、実結さんは大丈夫ですか、授業とか」
「ええ。出るべき授業には出てありますので」

 不幸中の幸い。私は味噌カツ定食をそそくさと食べて、スキップしたくなる躰を抑えながら学食を出た。温かな冬に、ニット帽とジャンパーを持て余していた。


     ○


 四件目の被害者が、実結さんの高校時代の後輩である日比野なる人物であるというところに行き着くのに、そう時間は掛からなかった。市からのメールには律儀に『○○町にて』まで書いてあるからだ。

 市民への情報提供は行政として欠かしてはならないことではあるのだろうが、個人情報の扱いには十分に気を遣うべきだろう、と思いつつ、今回に限ってその情報は細大漏らさず必要不可欠だったので、感謝しておくこととする。

 然りとて、本来は高校の後輩の家なんて憶えてもいないどころか知りもしないのが普通だ。しかしそれは私の思う普通であって、実結さんに当てはめるべきものではない。実結さんにとって人との繋がりは、私が考える以上に大切なものだと思うからだ。

「そうですか、では敷地内にはない、と。そうでしたか。あ、すみません、急に連絡してしまって。はい。では」

 田舎コンビニ特有のだだっ広い駐車場に止められた車の中で、助手席に座る実結さんは、携帯を耳許に当てながら、相手には見えやしないのに頭を下げた。通話を終え、沈んだ顔で携帯を鞄にしまう。

「またゴミ捨て場でしたか?」
「いえ、バイクでした。ご実家で被害に遭われたようで、バイクを覆うカバーに火がつけられていたそうです。お父様が煙草を庭に放置していたことからそれが原因かとも思われたそうですが、煙草は水につけてあったそうで、さらにご近所の方が不審な人物を見たと教えてくださったことから、警察に通報、ということだったようです。燃えにくいカバーだったおかげで大事には至らなかった、と。本当に良かったです」

 つまり、大方の想像通りだ。

「あの、根本のところなんですけど、その日比野くんというのは?」
「日比野くんも倉橋くんと同じで、高校時代の後輩で、文芸部だった方です。それから、わたしに、想いを伝えてくれた内の一人、です」

 恥ずかしそうに話す実結さんのあざとさよ。

 しかし私は「ん?」と、疑問を抱く。

「だとしたら、あの麻衣って人が日比野くんとやらを知っているのはおかしくないですか? だって、高校時代の後輩でしょう」
「ああ、それは、日比野くんがわたしに告白してくださったのが、高校時代ではなく大学に入ってから、つまり去年だったことに関係しています。大学一年生の頃、当時高校三年生の日比野くんと偶然お会いして、その時に、まるで勢いに乗せられるように告白されまして。そのことに関して、麻衣ちゃんに相談したことがあったのです」
「つまり何もおかしなことはない、と」
「はい」
「にしても、あれですね。実結さん、やっぱりモテるんですね」

 と言うと。

「そんな、は、恥ずかしいです」

 実結さんは顔を真っ赤にした。

 他人の色恋には敏感なのに、自分のこととなるとこうだ。耳まで紅潮させて、もじもじする様子は私を落とそうとしているのではと思うほどかわいくて、私が向ける視線はもはや凝視だった。世界的絵画を見るくらいなら実結さんを見る方がよっぽど芸術的だとさえ思う。

「お、おほん」照れを誤魔化す実結さんの咳払いは驚くほどに下手だった。「しかし困りました。日比野くんは予定があるそうで、お家には伺えないようです」
「そう、ですか……じゃあ、その、提案なのですが。実結さん、今日バイトは」
「五時からです」
「でしたら、喫茶店にでも入って、少し考えをまとめませんか。このままじゃ混乱しちゃう気がするんです」

 助手席で小さな躰を丸める実結さんは、少し悩む素振りを見せて、数秒。

「そうですね。行き詰まってしまっていることは確かですし」

 私は実結さんに見えないように拳を握る。ガッツポーズというやつだった。こんなときでも、私の心は正直だ。

「……ああ、なんて不謹慎」

 と呟いた私を見ながら、疑問符を浮かべて首を傾げる実結さんは、やっぱりほれぼれするほどにかわいかった。青春を同じ部室で過ごした後輩が好きになるのは、きっと必然なんだろうな、と思った。
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