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逃走中の回想
10(現在)
焚き火にくべた枝が、燃えてパチッという音を立てる。乾いた木々が炎に飲み込まれるたびに、赤々と揺れる光が闇の中に温かな円を描き、冷え切った夜の空気をわずかに和らげていた。
温かな炎を見ていると、なんだか吸い込まれそうになり、僕は視線を地面に落とす。地面に散らばる枯れ葉や、焚き火のそばに置かれた僕の粗末な荷物が目に入った。この旅装の簡素さが、かつての華やかな生活との対比をいやでも思い出させる。
数日前まで、僕は貴族の屋敷で絹のシーツに包まれ、使用人に囲まれて暮らしていたのだ。今は、こうして森の奥で、粗末な外套を羽織り、星空の下で過ごしている。
「……お前の考えた婚約破棄の作戦をどうこう言いたい訳じゃないが、それは成功したのか?」
思考の中に沈み込みそうになった時、アスに声をかけられる。出会った時、冒険者で「アス」と言うと名乗られた。僕はこの人の名前しか知らないが、警戒もせずに過去を話していることが不思議だった。
「えっと」
ずっと話していたので喉が渇いた僕は、少しぬるくなった紅茶に口をつけた。錫製のカップから漂う紅茶の香りは、かつて領地や王都の屋敷で飲んだものと変わらないはずなのに、自由と引き換えだと思うと苦味を感じる。
それでも、旅の疲れを癒すには十分だった。カップを口に運ぶその一瞬の隙を見逃さず、旅の同行者――アスは、少し悲しげな面持ちでそう問いかけてきた。
「話したくないのか?」
彼の瞳には、焚き火の炎が映り込み、まるでその奥に何か強い意志が宿っているように見えた。数時間前に出会ってからしか知らないが、アスは言葉少なに、しかし鋭い観察眼で、僕の心の奥底を探るような質問を投げかけてくる。
「いえ、……悪役令息になると考えていた時は最高の作戦だと思ってたんですが、最初はなかなか上手くいきませんでした。まず、男爵令嬢は婚約者がいる相手だとわかっていて公爵令息に近づいたわけじゃないですから、僕は彼女に悪感情がないんですよね。公爵令息は高位貴族の癖に姑息な真似するなあって思ってましたけど」
言葉を紡ぎながら、僕はあの日、東屋で見た二人のことを思い出す。男爵令嬢の無垢な眼差しはまっすぐ公爵令息に向かっていた。彼女が公爵令息と話すときに浮かべる、少しはにかんだ表情。あれは、計算や思惑から生まれたものではなかった。
彼女はただ、純粋に公爵令息に心を動かされていただけなのだろう。一方、公爵令息の態度は、僕の目にはどうしても狡猾に映った。高位貴族としての誇りもなにもなく、陰でこそこそと策略を巡らせるその姿に、苛立ちを覚えたものだ。
「だろうな。ところで、その婚約者……あー、元だな、元婚約者になったんだな?」
別にそこは気にするところではないと思っているので、首を傾げると、アスはぐいっと身を乗り出して元婚約者と確認する。その動作はあまりにも唐突で、焚き火の光が彼の顔を一瞬強く照らし出し、鋭い眼光を際立たせた。彼の声には、どこか確信を求めるような響きがあった。まるで、僕の答えが彼にとって何か重要な意味を持つかのように。
「さあ? ダンスパーティーの後は会ってませんし」
あの後はすぐに国を出る為、急いで王都の屋敷に戻って荷物を持ち出し、騒ぎに乗じて遁走したから大変だった。あのダンスパーティーの夜、きらびやかなシャンデリアの下で、出席した生徒たちと来賓の貴族たちの視線に晒されながら、僕は全てを捨てる決意をした。
屋敷に戻ったときの召使いたちの驚いた顔、慌ただしく荷物をまとめて屋敷を飛び出そうとした僕に家令が「三の坊っちゃまどちらへ!?」という声が今でも耳に残っている。あの夜、僕は自由と引き換えに、貴族としての地位も、婚約も、すべてを置いてきたのだ。
「だが、お前にとっては、元婚約者だな?」
教本の通り、僕は大勢の前で悪役令息として断罪されたのだから、貴族席からも除籍され、もちろん婚約も破棄されただろう。多分あれは断罪だったと思う。そんな相手と婚約なんて継続しているはずがないから元婚約者になっているはずだ。
あの日のことを思い出すと、今でも胸の奥がちりちりと疼く。パーティー参加者の冷ややかな視線、囁き合う声、そして元婚約者の幼なじみである男爵令嬢の顔に浮かんだ複雑な表情。あれは、僕を責める目だったのか、それとも別の何かだったのか、今ではもうわからない。
「そうですね。元婚約者です」
短く答えると、僕の声は焚き火の音にかき消されそうになる。アスはそれを聞いて、なぜかほっとしたような表情を浮かべた。
「それなら良い」
そう言って、物凄く爽やかな笑顔をアスは見せてくる。その笑顔は、まるで夜の闇を一瞬で吹き飛ばすような明るさを持っていた。アスの笑顔はいつもそうだ。どこか無防備で、しかし心の底から面白がるような純粋さがある。それを見ていると、僕の心に溜まっていた重苦しいものが、少しだけ軽くなる気がした。
「で? これで、終わりじゃないんだろ。その教本を見本にしてやったという、悪役令息の行動を聞かせてくれ」
アスは僕のそばにもう一度腰を下ろし、膝に肘をついて身を乗り出す。その姿勢は、まるで子供が冒険譚に耳を傾けるような、純粋な好奇心に満ちていた。僕は思わず苦笑する。こんな話を、こんな夜に、こんな場所で語るなんて、まるで物語の中の出来事のようだ。
「もちろんです。僕にしてはかなり練られた華麗なる婚約破棄の作戦だと思ったんです」
声に少しだけ誇らしさを込めて、僕は答えた。あの作戦は、確かに僕なりに考え抜いたものだった。失敗も多かったけれど、その過程で学んだことも多かった。
「ほう、例えば?」
アスの声には、期待と興味が混じっている。焚き火の炎が揺れるたびに、彼の顔に光と影が交互に踊る。僕は身動ぎして外套の端を掴んで温まった体温を逃さないように身をくるむ。そして記憶をたどりながら話し始める準備をした。
「えっと、最初の悪役令息の行動は……」
これまで一ヶ月間、ありとあらゆる悪役令息の行動をしてきたつもりだ。一つずつ思い出しながら、なんだか懐かしい気持ちで話し始めた。あの頃の僕は、ただがむしゃらに突き進んでいた。
失敗を重ねながらも、自分の道を切り開こうと必死だった。その一つ一つの行動が、今こうして焚き火の前で語る物語となり、僕とアスの間に新たな絆を紡いでいくのだった。
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