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逃走中の回想
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ドアがゆっくりと開き、男爵令嬢が入ってきた。手紙の指示通り、一人でやってきたようだ。彼女の背後に、護衛みたいな騎士爵令嬢がいなくて心底ホッとした。あの騎士爵令嬢が一緒だと、僕の計画は一気に複雑になる。男爵令嬢が一人で現れたことに、思わずニッコリと笑ってしまった。
「わ、来てくれてあり……あ!」
しまった、また言葉を間違えた。男爵令嬢を呼び出したのは、感謝するためではないのに。彼女の驚いた表情に、僕の失態がバレバレだと気づき、慌てて取り繕う。
「え?」
男爵令嬢が怪訝そうに眉を上げる。彼女の瞳には、警戒と困惑が混ざっていた。
「あ、その、違……っその、あのっ! えっと、来てくれてありがとう、……じゃない! 僕、その……」
言葉がうまく出てこない。男爵令嬢の視線が刺さるように感じられ、頭の中が真っ白になる。
「おかしなことを言ってないで、私を呼び出した理由を教えてください!」
男爵令嬢の声は、鋭く、しかしどこか不安げだった。彼女の細い肩が小さく震えているのが見えた。
「えっと、それは……その」
僕は男爵令嬢を見つめながら、ゆっくりと出口に向かって歩き始める。この空き教室に彼女を閉じ込めることが目的だった。呼び出した理由なんてそんなものは最初から用意していない。僕の計画は、男爵令嬢をここに閉じ込め、公爵令息に助けさせることで、二人の愛を確かめ合う場面を作ることだ。理由を告げるつもりなど、毛頭ない。
なのに、彼女が来てくれたことに心のどこかで喜んでしまい、ついお礼を言ってしまったのだ。なんて失態だ。男爵令嬢の疑うような視線に、背筋が冷たくなる。
「えっと、ごめんなさいっ!」
理由なんて言えるわけがない。二人の愛を確かめ合わせることをどうして僕がやるのかなんて説明出来なかった。それにそんなことを本人たちに明かすわけにはいかない。
僕は慌てて空き教室の外に飛び出し、ドアに鍵をかけた。たった十歩ほど走っただけなのに、緊張で息が荒くなり、額に汗が滲む。
「ちょっ……! 何するのよ、出して!」
男爵令嬢の叫び声がドアの向こうから響く。まだ夕暮れ前の薄明るい時間とはいえ、埃っぽい空き教室に閉じ込められたら、誰だって怖いだろう。ドアがドンドンと叩かれ、鈍い音が廊下にこだまする。
「ご、ごめんなさいっ! すぐに公爵令息が助けに来るから待ってて! それまで他の人が近づかないように僕がちゃんと見張ってるから!」
僕の声は、焦りと申し訳なさで震えていた。男爵令嬢の安全は確保するつもりだ。怪我をしないように、ちゃんと見張っている。それに、公爵令息には時間を少しずらした手紙を送ってある。彼がここに到着するのは、もうすぐのはずだ。
「はあっ!?」
男爵令嬢が驚いたような声を上げる。
「あわ、ち、違うっ! えっとえっと、こ、怖がらなくても良いから、すぐに公爵令息が来るはずだから!」
僕の言葉は、まるで言い訳の連鎖だ。男爵令嬢の混乱を落ち着かせようとすればするほど、言葉が空回りする。
「あなた……」
「あんまり扉を叩くと手が痛くなります。怪我をするので叩くのはやめた方が良いですよ!」
僕は必死で叫んだ。男爵令嬢の手が傷つくのが心配だった。いや、それ以上に、彼女が怪我をすれば、公爵令息の心を余計に刺激してしまうかもしれない。それはそれで計画にはプラスかもしれないが、僕の本意ではない。
公爵令息に出した手紙には、男爵令嬢が閉じ込められていることをほのめかし、急いで助けに来るようにと書いた。計算では、彼がこの廊下に現れるまであと数分のはずだ。
「何言ってるの!? 早くここから出して!」
男爵令嬢の声は、怒りと恐怖が入り混じっていた。彼女は僕の制止を無視し、ドアを元気よく叩き続ける。埃っぽい廊下に、彼女の叩く音が反響し、僕の心臓の鼓動をさらに早めた。
「もう、物語のヒロインはそんな元気いっぱい騒がない! もう少ししたら公爵令息が来るからそれまで大人しくして。ドアを叩いたら手が痛くなるし、怪我でもしたら大変だよ。障害があればあるほど二人の愛は燃え上がるんだから、これくらい我慢して!」
あまりにも男爵令嬢が暴れるので、思わず声を荒げてしまった。すると、ドアの向こうが一瞬静かになった。僕の言葉が、彼女に何かを感じさせたのかもしれない。
「あなた何言ってるの?」
男爵令嬢の声は、驚きと怒りに満ちていた。
「何って……、きみは公爵夫人になりたいんでしょう? それなら、普段の言葉使いと所作から改めなきゃ! きみが公爵令息と幼馴染でどんなに親しくても、その態度に目を潜める年寄り達は多い。その年寄りたちの前だけでもきちんと振る舞えば、道は開けるんだ」
僕の言葉は、半分は本心、半分は彼女を挑発するためのものだった。男爵令嬢が公爵令息の隣に立つには、貴族社会の厳しい視線を乗り越えなければならない。それを彼女に自覚させ、奮起させることが、僕の計画の一環だった。
「バカにしないで! 私は夫人になりたいからノアが好きなんじゃないわ! ノアが好きだから、ずっと一緒にいたいのよ!」
男爵令嬢の声は、顔が見えずともその激昂ぶりが伝わってくるほどだ。彼女の純粋な気持ちを汚されたと感じたのだろう。ドアの向こうで、彼女の息遣いが荒くなっているのがわかった。
「……それならきみは、今よりもっと頑張らなきゃいけない。公爵令息の隣にいるためには、好きって気持ちだけじゃダメだ。その隣に相応しくならなくちゃ!」
僕の声は、思った以上に熱を帯びていた。男爵令嬢の気持ちは純粋だ。それを否定するつもりはない。
「あなた……」
「クラリスっ!」
その時、ようやく公爵令息が到着した。薄暗い廊下で見る公爵令息は、息を切らして高位貴族子息とは思えないほど慌てた様子だった。汗で額が光り、普段の優雅な佇まいとはかけ離れたその姿に、僕は彼の男爵令嬢への本気を感じた。
その姿を見て、僕は安堵する。もし彼が来なかったらどうしようと思い始めていたからだ。
「……遅かったですね」
僕は手のひらに握りしめていた鍵を公爵令息に投げると、急いでその場から逃げ出した。本当は男爵令嬢と話などせず、「これに懲りたら公爵令息に近づかないことです」と言い捨て、去る予定だった。
その時に「うっかり」鍵を落とすことも忘れない。けれどもう来てしまったのなら、仕方ない。
走り出した僕は、今度の悪役令息も成功した! と浮かれていた。
僕の言動に男爵令嬢が不信感を持ち始めたことは、この時の僕は知らなかった。
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