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逃走中の回想
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「おい、そのポーションとシロップ、俺にも寄越せ!」
さっきこの母娘に絡んでいた冒険者みたいな大柄な男だった。振り返って僕を見る目がギラギラして気持ち悪い。欲得ずくの視線が、僕の肌を這うように不快だった。
「うーん、あなたはどこも悪く見えません。元気いっぱい怒鳴ってるあなたに、薬なんて必要ないでしょ?」
はっきりとそう告げて首を傾げる。毅然とした態度で、男の威圧を跳ね返した。
「違いない!」
同乗している客の中からどっと笑いが出た。大柄な男は怒ったように顔を赤らめたが、それ以上何も言わずフンと鼻息を荒くしてまた前を向いた。笑い声が馬車内に広がり、緊張が解けた。
絡まれなかったことに安堵しながらも、僕だってやる時にはやるし、言うべき時には言うんだとまた自信が湧いてきた。薬師としての小さな誇りが、胸に灯った。
「あの、お名前を伺っても?」
「僕はシル……えっと、シフと言います。あなたは?」
危ない。もう捨てた名前を名乗るところだった。
「私はエルサです。この子は……」
「フィーナだよ、お兄ちゃん」
「エルサさんと、フィーナちゃんか。よろしくね」
「⋯⋯はい」
はにかんだ笑顔を見せるフィーナが可愛くて、僕は何か渡せるものはないかともう一度カバンの中を漁る。カバンの底から、宿から貰ったお弁当が出てくる。
「あ、これ食べる?」
お弁当を差し出せば、フィーナは嬉しそうに受け取ってくれた。ガリガリに痩せた体、この子が今どんな生活をしているのか如実に表していた。干し肉を頰張る小さな口元が、健気で胸が疼いた。
エルサさんはオメガだ。番契約を破棄されたのか、ただ捨てられたのかわからないが首に巻かれたスカーフがズレたところからチョーカーが見えた。もしかしてフェロモンを出しているのかもしれないが、僕にはわからない。けれど彼女の今の姿が苦難を物語っていた。
「エルサさん、もし行く場所がないなら、エルドリス領に向かいませんか? これがただの旅行でまた王都に戻るなら、下町の二級薬師アーデルのところでも構いません。あの、⋯⋯余計なお世話ならすみません……」
僕には全く力がない。腕力も権力もない。この痩せたオメガの女性を助けることなんて僕には出来ない。それでも助けてくれそうな人のところを教えることは出来るだろう。自分の無力さを噛みしめながら、言葉を紡いだ。
「なぜ……」
「僕も、⋯⋯だからです。もし、僕が言ったどちらかに行かれるなら、……ちょっと待ってくださいね」
揺れる馬車の中で書くのは初めてで、文字が歪んでしまったが、この人を助けてくれるようにお願いする手紙を書く。インクがにじみそうになるのを、慎重に抑えた。
「これを渡せば、きっと助けてくれます」
揺れる馬車の中で、記名と僕だとわかるように、印であるヘルダーフラワーの小さな花は丁寧に書く。花びらの曲線を思い浮かべながら、ペンを走らせた。
もう二度と名乗ることはない名前を見て、なんだか胸が締めつけられた。後悔なんてしてないはずなのに。過去の絆が、かすかな痛みを残した。
「もし疑われたら、その缶を見せると良いですよ。僕印の缶なので」
エルサさんに渡したオメガのヒートを抑える丸薬の入った缶は、父が僕の為に作ってくれた世界に一つしかない缶だ。そしてそれを領地の屋敷を守る家令や、アーデルも知っている。特別な模様が刻まれた缶は、僕が初めて作ったシロップ⋯⋯ヘルダーフラワーだった。
「……ありがとうございます」
小さな囁き声は、聞こえるかどうかだったが、僕の心には感謝の気持ちが響く。彼女の瞳に涙が光った。
「これ、路銀にしてください」
薬を卸していたギルドで、隣国までの旅費として引き出してきたお金の入った袋も渡す。隣町にもギルドはあるし、ギルドカードがあればどこでもお金は引き出せると聞いていた。袋の重みが、彼女の手に移る。
日のある時間に隣町には到着するし、今夜はそこで泊まるつもりだった。もしかしたらエルドリス侯爵家から追っ手が来るかもしれないので、早く隣国に向かわなければならないとわかっていても、僕はどこか浮かれていてのんびりした気分になっていた。自由の風が、頰を撫でるようだった。
「い、いえ、これ以上は⋯⋯」
「良いんです。これはフィーナちゃんが無事に安全な場所に行ける為です」
僕だって慈善事業で誰にでも、こんなことをやってる訳ではない。多分、フィーナちゃんもオメガだ。まだ幼くてフェロモンなんかは出ていないが、華奢な骨格に庇護欲をそそる容姿をしていて危なっかしい。この子を守りながらエルドリス領まで無事に到着することは、エルサさん一人では難しいかもしれない。未来の不安が、頭をよぎった。
「隣町に着いたら、まず薬師のいる店に行ってください。そこでエルドリス領に戻る荷馬車がないか確認して、到着するまでしばらくそこで待ってから同行させて貰えるか聞いてください。大丈夫です。エルドリス領と他の領地を行き来する荷馬車には、これでもかって護衛がつきます。無事到着したら、手紙を見せてくださいね」
「⋯⋯ありがとうございます」
「フィーナちゃん、エルドリス領に着いたら、美味しいものたくさん食べて元気になってね」
「はい」
ここからエルドリス領まで馬車で三日ほどの距離だ。僕がこちらの方へ向かったという情報はきっとすぐに父に伝わる。領地に帰ろうとしていると思われたなら、隣国に向かっている事も誤魔化せるかと思っていた。策略めいた考えが、僕の旅を少しだけ複雑にした。
ポーションを飲み、干し肉を食べて眠くなったのだろう、フィーナちゃんの体が揺らいで僕の方に傾いた。小さな頭が、僕の肩に寄りかかる。
「ダメよ、フィーナ」
「いいんです、このままで。フィーナちゃん、温かいし」
僕はカバンを床に置いて、フィーナちゃんの頭を自分の膝に乗せる。僕は末っ子で妹も弟もいないが、兄たちが僕を可愛がってくれる気持ちが、今少しだけわかった気がした。柔らかな髪の感触が、膝に伝わる。
こちらに全幅の信頼を向けて頼る小さな存在は、とても可愛い。この子が幸せになりますように、と僕は胸の中で祈ったのだった。馬車の揺れが優しく続き、僕の新しい旅路に、温かな思い出を刻んだ。
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