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逃走中の回想
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隣町に到着し、母娘と別れた僕は、この街のギルドに向かう。路銀もお弁当もすっかりなくなってしまったので、お腹が空いても食べるものと言えば、カバンの底に押し込めておいた干し肉しかない。初めて歩く道は、埃っぽくて少し疲れが溜まっていた。
昼過ぎに到着した隣町は、王都に比べて小さいけれど、通りには人々が活気よく行き交い、商店の看板が色鮮やかに並んでいて、十分に栄えている印象だった。冬に近づく季節だが今日は陽射しが暖かく、風が軽く頰を撫でる中、僕は少しだけ心を落ち着かせながら歩を進めた。
乗り合い馬車の御者に聞いたギルドは、予想以上にすぐに見つかり、そこでカードを見せてお金を引き出す。今まで気にしたことはなかったけれど、学園に入るためにエルドリス領から王都に出て来て、アーデルに紹介されて僕個人としてギルドに薬を卸していたのだが、かなりの代金が支払われていたらしい。
窓口の職員が丁寧に説明してお金を渡してくれる様子を見ながら、僕は内心で驚きを隠せなかった。薬草や調薬の材料費が回収できたらいいな、くらいにしか思っていなかったのに、それ以上に逃走資金になってくれたのは本当に幸運だった。
「試験的な調薬の材料費が回収出来たらいいなって思ってたけど、それ以上に逃走資金になって良かったな」
王都に到着してすぐに三級薬師の試験に合格したので、最初は三級でも出来る薬を卸していた。そのうち徐々に薬の納品の依頼が増えていた。冒険者登録しているシフと、薬師のシルフィードを結びつける人はギルド内の職員しかいないので、これも隣国までの旅の間、自分の身分を隠してくれるだろう。ギルドの建物を出る時、木製の扉が軋む音が響き、外の喧騒が一気に耳に戻ってきた。僕は深呼吸をして、街の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「お腹空いたな。どこかで食べるもの⋯⋯あ! こんな時は屋台の串肉じゃない?」
冒険物語でよく読む、庶民の食べ物だ。肉汁たっぷりで串に刺さっていて、香ばしくて美味しいと書いてあった。一応貴族令息だったので、外で立って食べる食べ物は外聞が良くないと思って食べたことがなかった。今ならそんなことを気にせず食べられる。自由になった身の軽さが、胸の奥で少しだけ喜びを灯した。
僕は意気揚々と街の中心にある広場に向かい、念願の串肉を手に入れた。広場は人々で賑わい、子供たちの笑い声や商人たちの呼び込みが混じり合っていた。
塩と胡椒を振っただけの肉が、一口大に切られ串に刺さって焼かれている。その匂いに釣られるように屋台の前に足を向けた僕は、ごくんと唾を飲み込む。煙が立ち上る様子が食欲をそそり、胃が鳴るのを抑えきれなかった。
「一つ、ください!」
「あいよ! 銅貨二枚だ」
「はい!」
僕は物語をよく読んでいたので、こんな時に金貨を出したりしない。ちゃんとギルドでお金を引き出す時に、銅貨に崩していた。串肉を受け取った僕は、その場で齧り付く。熱い肉汁が口の中に広がり、塩味が絶妙に効いて、思わず頰が緩んだ。
「⋯⋯っ! 美味しい!」
「そいつぁ良かった。あそこに噴水の縁で座って食いな。危なっかしいな、坊主」
「教えてくれてありがとう! それから僕は坊主じゃないよ!」
「おう、坊主。また食いに来てくれよ」
礼を言ってその場を離れ、串肉屋の店主に言われたように、噴水の縁に腰掛けた。噴水の水音が心地よく、冷たい石の感触が疲れた体を優しく受け止めてくれた。僕の旅は順調だ。オメガだと誰にもバレていないし、ましては貴族令息だなんて思われていない。この地味な容姿がその隠匿に一役買っていると思う。
こんな風に人に紛れて、目的地の隣国、アドナイラム帝国で小さくても良いから幸せを見つけたい。番……恋人なんて贅沢は言わない。せめて友だちだちが欲しい。串肉を食べ終え、串を捨てながら、そんな事を考えていると、自然と足が動き、街の中を歩き出していた。屋台や小物が並んでいた通りを過ぎてしまった頃、ふと噴水のある場所に戻ろうとした。
目の前に突然不自然な影が出来たので顔を上げる。陽射しが遮られ、急に薄暗くなった視界に、嫌な予感が走った。
「あなたは……」
「よお、さっきは良くもバカにしてくれたな!」
ああ、やっぱり物語と同じように、悪役は恨みを向けた相手が一人になった時に再度現れるのだ。心臓がドキリと跳ね、背筋に冷たいものが走った。
「こんなに物語通りなんてっ!」
「はあ!?」
「あ、こっちのことです」
さて、どうしたらいいのかと思案する間もなく、乗り合い馬車で前に座っていた大柄な男は僕の腕を掴む。ごつごつした指が肌に食い込み、痛みが走った。
「ぎゃ――っ! 離せっ……むぐっ、ん――っ、ん――っ!」
普通の物語ならこんな時に助けてくれるヒーローがいるかもしれないが、残念ながら僕はヒロインじゃないし、そんな助けは望めない。物語の序盤で退場なんて、最悪の展開だ。男は慣れているのか僕の口を布で覆ったので、声が出せなくなる。それでも必死に暴れた。布の雑巾のような臭いが鼻を突き、吐き気が込み上げてきた。
「むぐ――っ!」
「騒ぐなっ!」
太い腕が首に回され、拘束された。そのまま腹を殴られて痛みに目の前がチカチカする。吐き気が込み上げて、体を折り曲げる。息が苦しく、視界がぼやけていく。
「吐くなよ。お前にはこれからやってもらう事があるからな」
男はぐったりした僕を肩に抱え上げ、どこかに運んでいく。腹で折り曲げられていて、ますます吐き気が込み上げる。地面が揺れて気持ち悪い。肩にかけられた体が揺れるたび、痛みが波のように襲ってきた。
「腕の良さそうな薬師が手に入るなんてラッキーだな。きっとお頭は俺に褒美をくれる。それに、あのポーション。冒険者ギルドで高額取引されてたな。お高く止まったA級冒険者が持ってるのを見たことがあるぜ。お前ならそれをたんまり作ることが出来るだろ。死ぬまで作れよ!」
「むがががっ……」
あのポーションは作る工程が大変で、使用する材料も種類が沢山あるし、手に入れるのに苦労する薬草もある。そう簡単に作れるものではないのだ。特にエルドリス領を離れた今の僕には作れない。まず、材料が手に入らないからだ。でもこの悪党はそんな事を伝えても僕を殴るだけだろうと、物語のセオリーを知っている僕は、一瞬だけ反応して後は黙り込む。口を塞がれたまま、必死に息を整えようとしたが、恐怖が体を震わせた。
困った。これはもう「死」か「死んだ方がマシ」な目に遭う流れではないだろうか。まだ僕の華麗なる逃走劇は始まったばかりで、何も成し遂げてない。心の中で絶望が広がり、涙がにじみそうになる。
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