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逃走中の回想
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風呂から上がると、湯気の残る体に心地よい疲労が染みつき、部屋の扉を開けた瞬間、柔かなランプの光が優しく視界を包み込んだ。そこにはアスがいて、ソファーの前のテーブルには、湯気を立ち上らせる熱々のスープ、焼きたてのパンが黄金色に輝き、色とりどりの野菜とジューシーな肉の煮込みが並ぶトレーが置かれていた。
香ばしい匂いが部屋中に広がり、甘くスパイシーな香りが鼻腔をくすぐり、腹の虫がまた鳴きそうになるのを必死に抑え込んだ。空腹の体が本能的に反応し、口の中に唾液が溢れそうになる。
アスはソファーにゆったりと腰掛け、僕が出てくるのを待っていたようだ。その視線に気づき、急に頰が熱くなって、渡された服の裾を慌てて引っ張った。ぶかぶかの服はきっとアスのものだ。僕が着たら手の先くらいしか出ないし、膝上まで裾が来た。
ズボンも長くて裾を何度も折り曲げて着ていた。少しみっともない格好だが、着るものがないのだから仕方ない。生地の柔らかな感触が肌に優しく触れ、微かに残るアスの体臭が鼻をくすぐり、恥ずかしさと奇妙な安心感が混じり合う。
物語では着替えのことなんて全然描写が無かったから気がつかなかった。いつでも汚れたら着替えられる生活は、終了したことに今更ながら気づく。あの豪奢な屋敷での日々が、遠い夢のように感じられ、胸に寂しさがよぎる。
「あの、お待たせしました」
「敬語」
一言で何が気に入らないか指摘するアスに、僕はたじろぐ。そんなに敬語を嫌う人を見たことがなかった。心臓が少し速く鼓動し、視線を逸らしたくなる衝動に駆られる。
「ごめんなさい。僕、家でも敬語でしたので……」
貴族家の親子関係なんて、そんなものだ。少しでも相応しくない言葉遣いをすれば、眉を顰められる。厳格な父の顔が脳裏に浮かび、背筋が自然と伸びる。
「謝って欲しいわけじゃないんだ。気軽に話して欲しい。そうだな、友だちみたいに話すのはどうだ?」
「友だち?」
そんな会話は、友だちがいない僕には難しすぎる。だから僕は正直にそれを話す。声が少し震え、孤独な過去が胸を締め付ける。
「えーっと、実は僕に友だちはいないので、どんな話し方をするのかわかりません」
「さっきは気軽に話していただろう?」
あの時は驚きすぎて咄嗟に繕うことも出来なかったからであって、普段からあんな言葉遣いはしていない。心の中で言い訳を並べ、頰が熱くなる。
「……あれは、その、驚いたので」
「わかった。徐々に慣れてもらう」
「わかりました」
そんなに長時間一緒にいることはないだろうと、僕は軽く考えて頷く。視線はテーブルに並べられている料理に釘付けだ。スープの表面がゆらゆらと揺れ、肉の脂が光を反射して誘うように輝いている。
「腹減ってるだろう。座って食べろ」
僕の視線に気づいたのか、アスに促されてソファーに座ると、カトラリーを差し出された。朝食を食べてから乗り合い馬車に乗り、この街に到着して串肉を一本食べたっきりだったので、お腹がペコペコだった。胃がきゅうっと鳴り、恥ずかしさが込み上げる。
煮込み料理の肉を口に入れようとした時、僕は大事なことを思い出す。フォークを置いて姿勢を正し、アスに向き直る。心臓がどきどきと高鳴り、感謝の言葉を丁寧に紡ごうとする。
「どうした? 肉は苦手か?」
「アス、助けてくれてありがとうございました。あなたがいなかったら僕は死んだ方がマシな目に遭っていました」
あの時アスが来てくれなければ、僕はあの悪党に穢されていただろう。作りたくもない薬を作らされていたかもしれない。貴族子息として守られていた生活は、自由になって失った。
それを後悔はしていないが、目的も果たせず消えてしまうところだったのを救ってくれたのはアスだ。恐怖の記憶が蘇り、体が微かに震える。
「お礼になるかわかりませんが、お金が少しあります」
立ち上がって床に置いていたカバンを持ってソファーに戻る。中に入れていたお金を取り出して、渡そうとしたが不機嫌なアスの顔しか見れなかった。鋭い視線に射抜かれ、手が止まる。
「あの……」
「金銭が欲しいからお前を助けたわけじゃない」
アスのプライドを傷つけたようだ。声の低さに、罪悪感が胸を刺す。
「わかってます。これは僕の自己満足で……お礼をしたいと思ったんです。あ、冒険者ならこっちが良いですか?」
カバンの中を漁って今度は銀色の缶を取り出す。三つ使ってしまったので、あと七つしかないが丸いポーションが入った缶の蓋を開け、アスに渡す。缶の冷たい感触が指に残る。
受け取ったアスは、缶の中を見てから僕に視線を向けた。その瞳に驚きと警戒が混じる。
「近頃噂になってた丸いポーションだな。王都のギルドにしか卸されず、その効き目の凄さから超高額で取引されている物。……シフ、俺だから良いがちょっと助けられたくらいでこんな高額なものをほいほい人目に晒すな。命がいくらあっても足りなくなる。それにお前は旅をしてる自覚がないのか。乗り合い馬車であんなに目立つ真似をして、具合が悪ければ誰にでも薬を渡す奴だと思われたぞ。俺が蹴り飛ばしたやつ以外にもお前の後をついてくる奴はいたんだ」
「ひと息でよくそれだけ喋れるね。凄いや……」
アスの勢いに僕は口をぽかんと開けて感心したように呟く。言葉が自然に零れ落ち、慌てて口を抑えたが、出てしまった言葉は戻らない。頰が熱くなり、視線を逸らす。
「……反省はしてないようだな」
「え? えっと……?」
乗り合い馬車でフィーナとエルサに薬を渡したことは後悔していない。何度同じよう場面になったとしても、僕は渡してしまうだろう。優しい二人の顔が浮かび、心が温かくなる。
「……あ、二人のところに行かなきゃ!」
盗賊団に目をつけられたのは僕だけじゃない。フィーナとエルサも同じだ。立ち上がった僕はカバンを肩にかけて、部屋を出ようと足速に歩く。あと一歩でドアまで来たのに、その前にアスが立ち塞がる。逞しい体躯が視界を塞ぎ、圧倒的な存在感に息を飲む。
「そこをどいてください。僕は、二人のところに行かなきゃならないんです」
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