【完結】婚約破棄を望んだ悪役令息ですが、破棄して貰えないので隣国に逃走します!

きたさわ暁

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逃走してます!

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 ザナトリス辺境領とは、大国アドナイラム帝国と国境を接する、風の吹きすさぶる荒涼とした要衝の街だった。帝国からクレートゥス王国へ物資が流れ込む最後の関門であり、ひとたび戦が始まれば血と炎が吹き荒れる最前線でもある。そんな場所の、雪のように白い石壁に囲まれた豪奢な邸宅の一室で、僕はゆっくりと瞼を開いた。

 柔らかな天蓋付きのベッドに横たわり、微かなラベンダーの香りと共に意識が戻る。

「ここはどこ?」
「ここはザナトリス領の領都にある、領主か……友人宅だ」

 掠れた声に即座に応えたのは、耳を頭に生やしたままの獣人姿のアスだった。彼は僕の枕元に膝をつき、熱を測るように優しく額に掌を這わせ、次に首筋へと指を滑らせて脈を確かめる。その指先は少し震えていて、抑えきれないほどの切実さが伝わってきた。

「友達?」
「ああ、俺の友人だ。だから心配しなくて良い」

 そう言ってアスは僕の背に腕を回し、まるで壊れ物を扱うようにゆっくりと上半身を起こしてくれた。すぐに渡されたのは、苦味が舌の奥まで突き刺さる抑制剤だった。続いて栄養剤も飲まされ、顔をしかめると、アスは申し訳なさそうに眉を寄せた。

「……アス、お願いがあるんだけど」
「なんだ? なんでも言ってくれ。なんでも用意するしどんなことでも叶えよう」

 その声は低く、熱を孕んでいて、僕の鼓膜を甘く震わせる。

「じゃあ、コトリスの熟した木の実と、サラニムの葉と、アリドリの木の根、セーシとニジエの樹液、それから正確に測れるコートリート製の計量器に強化ガラスを……」
「待て。メモを取るからちょっと待て」
「僕のカバンの中に紙とペンがあるよ」

 ベッドから降りても足元がふらつくことはなく、むしろ体中を熱い活力が駆け巡っているような感覚があった。部屋を見渡せば、重厚な絨毯に沈み込むようなソファーセットが中央に据えられ、そこには銀のトレイに乗った軽食が残されていた。食べかけのフルーツとパンが、きっとアスが僕の傍らで待ちながら口にしていたものなのだろう。

「喉渇いた……」
「水と果実水がある。どちらにする?」
「水が飲みたい」

 甘えた子供のような声になってしまった。けれどアスはそれを聞いて目を細め、まるで世界で一番嬉しい言葉を聞いたかのように顔を輝かせた。次の瞬間、僕は難なく抱き上げられ、ふわりとソファーへと運ばれる。

 コップに注がれた水を差し出されて手を伸ばした途端、アスはそれをさっと引いた。

 ――え?

 疑問に目を見開く僕の唇に、アスが自分の唇を重ねてきた。ぬるりとした水が、舌先から流れ込み、甘い吐息と共に飲み込まされる。

「……っん、んく……っ」

 何度も、何度もキスが繰り返され、そのたびに喉の奥まで水を注がれた。息継ぎの隙間さえ許されず、最後に深く吸い込まれて、頭がくらくらする。

 はふっと吐いた息さえも奪われるように唇を塞がれ、僕は必死にアスの肩をペチペチと叩いた。

「⋯⋯は、あ⋯⋯、いきなり過ぎるよ!」
「我慢出来なかったんだ。ずっと我慢していたから、タガが外れそうになった」
「ずっと我慢していたって?」

 そんなこと、アスはしていたのだろうか。

「お前を甘やかすのをだ。ずっと抱き上げていたいのを、ずっと触れたいのを我慢していた」

 その告白に胸が熱くなる。出会った頃のアスは確かに優しかったけれど、どこか一線を引いていた。あの距離は、全部、僕を想うがゆえの自制だったのか。

「もっと甘えて良い。もっとわがままでも良い。欲しいものはなんだ? なんでも叶えてやる」
「えっと、それなら薬草と調薬の道具を揃えて欲し……」

「あっはっはっは! あの獰猛な狼が、可愛い子犬ちゃんになってるぞ! ほら見ろ、あれは本当に現実か? 私は夢を見ているんじゃないのか?」
「あるじ様、指をさして笑うなど、あまりにも下品です」

 突然の声にびくりと肩を震わせて顔を上げると、扉が開いて、見知らぬ二人の人物が立っていた。

「ユーリ、サネス、不躾だぞ」
「いやこんな面白いものが見れるなら、私は不躾にもなるぞ」
「あるじ様、無礼です」

 アスの友だちらしく、遠慮のない口調で笑い合う人と、不機嫌になるアス。僕は驚きに目を見開いたまま固まっていたが、大笑いしていた黒髪の男を諌めていた少年従者が、僕の視線に気づいてぴくりと眉を動かした。

「これは、失礼。私はユーリ・ザナトリス。このザナトリス領の領主だ。アスとは友人だ」
「初めまして、シルフィ……あ、えーっと、シフと申します。お会い出来て光栄です」

 貴族としての華やかな挨拶をしようとしたけれど、今の僕はただの平民だ。ぎこちなく頭を下げると、ユーリはにやりと笑った。

「ああ、知ってるよ。シルフィード・エルドリス侯爵令息。エルドリス侯の掌中の珠」

「え?」

「怪しい人間が領内に入り込んだって報告があってね」

 ――僕たちのこと? でもちゃんとギルドカードもあるし、犯罪歴もないはずなのに。

「あ、君たちの事じゃないよ。……座っても?」
「見てわからないのか、邪魔だ。消えろ、ユーリ」

 アスが冷たく吐き捨てると同時に、僕はいつの間にか彼の膝の上に座らかに座らされていた。立ち上がろうとしても、腰に回された腕がびくともしない。

 友達にそんな態度、ひどすぎる……!

「ちょ、アス! 友だちなんでしょ。なんであんな言い方するの。すみません、アスが⋯⋯あ、あの、どうぞ座ってください」
「この男の狭量さは知ってるから、気にしなくて良い」

 僕が促すより早く、ユーリはどっかりとソファーに腰を下ろした。その後ろにはサネスという少年が控えめに立っている。

「はあ⋯⋯」

 僕は諦めてアスの膝に体を預けた。どんなに力を込めても、あの腕は微動だにしない。痛くはないのに、逃がしてくれない、独占欲に満ちた拘束。

「ブフフっ! 獣化を解いてるっ」
「あるじ様、失礼です」

「従者の方が礼儀正しいな。おい、いつまで根っこが生えたようにそこに座っている気だ。さっさと要件を言って出ていけ。ああ、待て。集めて欲しいものがある。シフ、欲しいと言っていたさっきの言葉を繰り返してくれ」

「えっと、コトリスの熟した木の実、サラニムの葉、アリドリの木の根、セーシとニジエの樹液、それから正確に測れるコートリート製の計量器に強化ガラス、です」

「なんだそれは?」

「あるじ様、先程の品物は全部調薬に使われるものです。すぐにご準備いたします」

 サネスが恭しく一礼して退出しようとすると、ユーリが声を上げた。

「え? なんで俺が何か欲しいと言っても、なんだかんだ理由をつけて却下するのに、アスの番くんの願いは叶えるの?」

「あるじ様の願いはほんっとうにくだらなくて叶える価値はないですが、番様が望まれたのは薬を作られる材料です、つまり薬師様。あるじ様の願いとは社会貢献度が違います。しかも今おっしゃられた材料は抑制剤に使われるものと存じております。番様はエルドリス領で優秀な薬師でいらしたと聞き及んでおります。今、この領では品質の良くない抑制剤が多数出回っており、領内のオメガ達は苦しんでおります。あなた様のお作りになる抑制剤の一部を、分けていただけないでしょうか」

 さっき飲んだ抑制剤の味と効き目の悪さを思い出し、僕は頷きかけた瞬間、アスに口を塞がれた。

「もがっ」

「シフはアドナイラム帝国で暮らす。ここに留まるのはせいぜい三日だ」

「わあ、自分の欲望のために、番くんをこの寒空の旅に連れ出すの?」

「揺れの少ない馬車を用意させた。内装は快適さを最優先させている。旅程もゆっくり進むようにする。無茶はさせない」

「まあ、自分の番が巣の中以外にいるから気が気が無いとは思うけど。謝礼はするから、エルドリス領の天才薬師に抑制剤と流感の時の咳止め、熱冷ましを頼めないか?」

「もがっ⋯⋯もちろん、作らせて貰います。実は、咳止めと熱冷ましは今持っている分がありますので、先に渡しますね。抑制剤は切らしてしまっていて、でも材料さえ用意して貰えれば三日⋯⋯いえ、一日で作ります。幼い子はどうやっても苦味を感じる咳止めを嫌がるでしょう。もしカリンの実があるなら、そちらとセントの葉っぱ、ハチミツでシロップを作りたいと思います」

 サネスが満面の笑みで礼を言い、部屋を出て行く。ドアが静かに閉まると、僕はぱっと顔を輝かせた。

「これは、お世話になったお礼に⋯⋯」

 ここでどれだけ眠っていたのかわからないけど、突然倒れた友人の連れを泊めるのは、どんなに親しい間柄でも迷惑なことだ。僕はカバンから銀の缶に入ったポーションを取り出し、一つだけ残して、残り六つを差し出した。



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