聖なる雫の音楽少年~あの日のキミ

夏目奈緖

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17-6(早瀬視点)

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 17時半。

 早めにオフィスを出てきた。待合ロビーで母親に電話をするために。悠人の前では避けておく。感情的になった姿を見せたくない。

 早瀬玲子の連絡先をタップした。電話をかけるとすぐにつながり、聞き覚えのある硬質な声色が聞こえてきた。美容院で話した時のような、優しさなど欠片もない話し方だ。

 悠人の文面にある、”親切な女性”とはイメージが違う。偽りの姿を見せたのだろう。外向きの顔だ。もう見慣れている。

「もしもし。悠人が世話になった」
「……電話をもらえて嬉しいわ。ありがとう。悠人君と会えてよかった」
「何も言っていないのか。言いがかりは承知の上だ」

 どうして短い会話で感情が高ぶるのか。たったひと言のみで完了だ。ありがとう。また今度と。しかし、母と話すと冷静でいられない。祖父と話す方が平常心でいられる。ああいう人だと諦めているからだ。

 そこで気づいた。期待しているのかだと。優しい言葉をかけて貰いたくて、叶わないから悔しいのか?俺は子供の頃、久弥のことが羨ましかった。父親の再婚によって、”新しいお母さん”になった女性から守られていた。”いい子”になっていた久弥が、自由に外で遊べるようにまでなった。

 そうか。俺は求めているのか。今なら分かる。悠人に森井氏のことで酷いことを話した。諦めるという距離感を持てと話した。泣かせたくないのに。俺がそうしている。
 
「……裕理君。どうしたの?」

 スピーカーから優しい声が聞こえてきた。どうして今更聞かせるのか。こういう声を。俺は今、感情のコントロールを失いつつある。

「今更だ。優しく名前を呼ぶな」
「……どうしたの?会社にいるでしょう。あなたが外でそうなるのは……」
「俺の何が分かるんだ?指摘する権利はない」
「ごめんなさい。悠人君とは普通に話したわ。なるべく優しく丁寧に……」
「その外向きの顔を見せるな。あの子は信じる子だ。あんたに裏切られたら傷つく。もうそうさせたくない。普通に話しただと?わざわざ出てくる言葉じゃない。あんたは分かっていたのか。自分がおかしいことを」
「……何があったの?まずは家に帰りなさい。あなたにも莉奈にも……酷いことを言った。今になって思い知ったの。もう遅いのは分かっているわ」

 母が電話口で泣いている。そして、謝っている。俺はどうすればいいのか。弱々しい声だ。子供の頃に聞いた声ではない。今は俺の方が強いだろう。しかし、涙が出てきた。

「お母さん……謝るな。泣くな。高圧的な物言いをしてくれ」
「できない。そんなに泣いている子には。あなたは悪いことをしていないもの……」
「だったらあんたも泣くな……」

 恨めなくなるだろう。恨みと怒りの矛先を失い、行き場を無くすのが怖い。怒りを原動力にしてきたのに。すると、母の感情を押し殺した声が聞こえてきた。しかし、弱々しい。このまま電話を切ることができない。

「あんた、いつから弱くなった?普段通りの話し方なのに」
「……謝るしか出来ないからよ。言い訳はしません」
「何も言えない。そんなに弱くなった人には……」

 最初からそうだったのか?高圧的に振舞うしか出来なかったのか?そうではないのか。記憶を探ったところで、何も変わらない。悠人に優しく振舞ってくれた女性だ。帰った後の笑顔を見るのが楽しみだ。そうさせてくれた人だ。

「お母さん、ありがとう」
「裕理君……。こちらこそ」
「いつでも電話してこい」
「いいの?裕理君……」
「マンションにいるのか?親父が待っているぞ。莉奈は嫌っているけど」
「莉奈と話ができたの。会ってくれるようになったの。裕理君……」
「その呼び方をやめてくれ。俺だけ”君”づけをするな。裕理でいい」
「ええ。裕理。連絡するわ……」

 初めて”裕理”と呼ばれた。どういうわけだろう?肩の重みが取れた。

 電話を切り、ホッとため息をついた。俺の後ろからは退社してゆく社員達の姿がある。まさか泣いていたのかと思われたくない。もう一度、涙を拭いた。これでいい。悠人に見られずに済むし、今日は叱られずに済む。そう思うことにした。
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