夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 2階へ降りた。静かに話せそうな店が見つからなくて、広場のようなバルコニーへ出た。ベンチには人が座っているが、建物の中より人が少なかった。ここなら話せそうだ。

「ここならどうかな?寒いなら中に入るけど……」
「ありがとう。ここがいいよ」
「そっか。珈琲は何でもいいよね?」

 返事を聞かずに、自動販売機で温かい珈琲を買うことにした。悠人は無糖を飲んでいるけれど、今は甘いものが必要だと思う。

「すっきり微糖にしよう。あ……、ココアだった……」

 出てきたものを取って困ってしまった。間違って買ってしまったからだ。これはホッカイロの代わりにしよう。そう思ってポケットに入れると、悠人が首を振った。嬉しそうに笑っている。

「ココア、大好きなんだよ」
「良かった~。はい」
「ありがとう……」

 悠人がココアを一口飲んだ後、ホッとした顔をしていた。俺はバルコニーの柵にもたれ掛かって、泣いていた理由を聞いた。早瀨さんの昔の恋人のことが引っかかっているということだった。

「裕理さんはね。5年前に別れた人のことが、一番好きだったんだと思うんだ。黒崎ホールディングが独立する時に忙しくなって、その人と気持ちがすれ違って別れたんだって。メジャーデビューする誘いを断って、その恋人と喧嘩になったんだ。冷静に話し合っていたら、今も別れていないと思うんだ……」
「でも、今は悠人と一緒にいるんだよ?どうしてそんなことを思うんだよ?」

 悠人が小さく頷いた。その横顔は自信がなさ気だ。

「これは付き合う前に聞いた話だったから、詳しくは知らないけど……。その人と別れた後、裕理さんは何人もの人と付き合ってきたんだ。でも、仕事を優先してはフラれてきたんだって。今回、昇進したじゃん?部長代理だってさ……。31歳でそこまでいくのって、喜ばないといけないよね。でも、忙しくなって、今までの人みたいになるかもって思っているんだ……」
「忙しいなら、そうならないようにしないと。忙しいのは分かっていることなら、工夫してみようよ」

 そう言いつつも、自分だって寂しい時がある。それでも黒崎と話し合って工夫をしている。うまくいく魔法がないからだ。

「裕理さんは俺に音楽を続けろって言ってくれているよ。親からの防波堤にもなってくれている。結婚っていう形を取ったんだから、当然のことだって……」
「良かったじゃん……」
「もしかすると、俺、5年前に別れた恋人と重ねられている気がするんだ。あの……、ディアドロップのことなんだけど……」
「うん。どうしたの?」
「ギタリストの佐久弥が、裕理さんの前の恋人なんだ……」
「ええ……!?」

 黒崎から聞かされた話を思い出した。5年前の早瀬さんに迫られた選択のことだ。プロ転向へ誘われるぐらいの演奏技術があり、遠藤さんもアマチュアバンド時代の彼を知っていた。でも、早瀬さんは会社員の道を選んだ。詳しい話を聞きたかったけれど、怪我をしたり養子縁組の件があったりして、なかなか聞けずにいた。決して楽しいだけの思い出ではないだろうから躊躇していたのも理由だ。
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