夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 午前9時半。 

 通学の途中だ。今朝、黒崎が出張に出た。今夜はお義父さんの家で泊まることと、ラインを忘れずに入れると約束した。電車が大学の最寄り駅に到着した。ここで降りるのは学生ばかりだ。顔なじみの子と挨拶を交わし合って、ゆっくりと階段を降りていった。

 2時限目の授業にはまだ時間がある。悠人が来ていれば楽曲の歌詞を見てもらおう。そう思っていると、後ろの方から、バタバタと足音が聞こえてきた。

「黒崎くーーん!」
「んん?」
「まってーー」

 ホームから走ってくる足音が聞こえてきた。振り返ると山下が立っていた。入学当初に喧嘩を吹っかけてきた相手だ。授業がかぶっていないから、ほとんど話したことがない。ああやって駆け寄って来るなら、よっぽどのことがあるのだろう。山下が頬を紅潮させている

「おはよう~。どうしたんだよ?」
「IKUエンタテイメントから出てきただろ?デビューするの!?」
「バンドコンテストの手伝いがあるんだよ。ステージスタッフのバイトだよ」
「なんだー。噂になってるからさー」
「どんな噂だよ?」
「昨夜、回ってきたんだよ。経済学部の奥村さんが発信元らしい。黒崎君と久田が、IKUから出てきたって。久田もバイト?」
「そうだよ。IKU主催のコンテストに2回も出たから、段取りが分かっているし、俺の家から近いしさ……」
「そうだったのかー」
 
 山下が残念そうに笑った。IKUとの契約事項があり、デビューのことをオープンにできない。デビューの1か月前から送迎が始まり、メディアで告知する。仕事を受けた以上はルールを守る。その時、山下には、そういう理由で言えなかったのだと説明するしかないだろう。この流れで一緒に駅から出て行き、大学の門をくぐった。

 SNSでも話題が出ているそうだ。その画面を見せてもらうと、食事をしている佐久弥の写真が出てきた。シャルロットキッチンだ。テーブルに置いてある料理に覚えがある。チキンサンドとリンゴのタルトだ。理久と一緒に会った時だと思った。

(5月の分だ。佐久弥が、俺と理久を写さないでくれって頼んでいたなあ……)

「これに黒崎君が写っているって話でさー」
「ええー?」
「佐久弥の向かいに座っている人のことだよ。黒崎君じゃない?パーカーの柄が変わってるし」
「んん?」
「この牛柄のパーカーだよ。白黒の。黒崎君しか着ないだろ?」
「うん……」

 佐久弥の向かいに座り、白黒模様の服を着た人がポテトに手を伸ばしている。手の甲にうっすらと傷跡があり、薬指には指輪もある。誤魔化しようがない。

 佐久弥とのプライベートでの付き合いのことは、隠さなくてもOKだと言われている。伏せておくのは、バンド参加のことに限っている。

「……思いだしたよ。それは俺だよ。佐久弥の弟も一緒にいたんだ~」
「マジで佐久弥と知り合いなんだ!?」
「コンテストの審査員だったから、感想を聞かせてもらったんだ。弟とはインターンシップで一緒になって、友達になったよ」
「そうだったのかー。だから噂が大きくなっているのか」
「人気ミュージシャンだもんね。ファンが書いているの?」
「うちの大学の子だよ。教えてよ。どんな人?寝起きみたいなんだけど……」
「うん。この時は徹夜明けだったと思う。忙しかったみたい。気さくな人だよ」
「へえ、いいなあ。今回は奥村さんが出どころだったんだ。まだ久田のことを追いかけてるのかって、呆れている子が多くてさー」
「なにそれ……」

 それは去年の6月頃の出来事だ。奥村が”久田君のことが好きだ”と、自分から噂を広めていた。おかげで悠人が肩身の狭い思いをしていた。寮から大学までの道のりや、大学内でのつきまといが繰り返されて、俺と森本とでガードをしていた。
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