海のそばの音楽少年~あの日のキミ

夏目奈緖

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 仕事帰りに待ち合わせをして食事に行くことはあるが、職場のメンバーと食べるのは初めてのことだ。いつものように甘やかされているのに、早瀬の雰囲気が違っている。子供じみた部分が消えていて、丸ごと大人に見えているからだ。こんなにカッコいいなら、もっと早くに気がつけばよかった。

 さすがにオフィスの中では、仕事の話しかしていない。隣り合っていても、指示を出す時は普段とは違う。今はプライベートの姿に近づいている。歓迎会という場だからだろう。すると、枝川さんからお礼を言われた。

「室長の意外な姿が見られたよ。ありがとう」
「そうなんですか?いつもはどんな人なんですか?」
「腹黒室長。氷点下マイナスだよ。黒崎常務をマイルドにしているのは表向きで、実は営業企画部内で一番、怖い人だと恐れられているんだよ。大げさじゃないんだよ」
「ほお……」
「春の人事で上司になった時は、メンバーは分かっていなかった。2週間後には常務の恐ろしさと優しさを知って、室長の怖さを思い知らされたよ。久田君が来てから空気が柔らかいよ。今週だけの穏やかさでも、助かったよーー」

 枝川さんから両手を握られた。大げさに目を潤ませる仕草をした後、わざとらしくオシボリで目元を拭っていた。それが面白くて如月と笑っていると、早瀬の方から、女性達の華やいだ声が聞こえてきた。

「山下と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ。慌ただしいと思うけど……」
「とんでもないです。親切にしてくださって」
「常務、山下さんです。総務部から……」
「さっそく初日に世話を掛けたね」
「そんな……」
「早瀬室長のファンになったそうですよ」
「そうなのか……」

 山下さん達と早瀬の距離が近い気がする。ここで邪魔するわけにはいかず、如月と話すことで気を紛らわせた。すると、如月から白澤さんの話題が出た。

「さすがに来ていないな。気まずいもんな」
「そうだよね。どうして怪しいって分かったんだよ?」
「チームの田辺から聞いた。ペラペラ喋って来たんだけど。気になる話だったからなー」
「そうだったんだ……」

 俺は田辺に対して苦手意識を持っているが、助けられた結果になった。一方的に嫌うのはおかしいと気づいた。向こうの方からは、伊藤さんを呼ぶ声が聞こえてきた。
 
「伊藤さーん、石黒チーフが……」
「ちょっと待てて」

 つい聞き耳を立ててしまった。ここまで気になるなら、話しかければいいのに。モヤモヤしていると、早瀬から手を握られた。ごめんねという意味だ。俺に対して変な態度を取られているからだ。たぶん、早瀬のことが好きだったのだろう。手を握られていることを、如月には気づかれていない。

「久田、どうした?」
「ううん。平気だよ」
「そうか。桜木さんが向こうでさー、行ってみないか?」
「そうなんだ?えーっと……」

 桜木さんが今日の歓迎会に出ている。行きたいのはやまやまだが、早瀬と離れてしまう。すると、枝川さんから笑いが起きた。テーブルの下を覗き込んでいる。

「あれー?久田君のテーブルの下、どうなっているんだー?」
「わわわっ。裕理さんっ」
「いいじゃないか」

 慌てて手を離そうとすると、握られた手ごと持ち上げられた。早瀬が笑いながら俺の方を見ている。そして、枝川さん達に見せびらかすようにして、軽く振り上げた。

 俺のことにはお構いなしだ。他の人からも囃し立てられてしまった。びっくり顔になっている人も多い。枝川さんが語っていた人物像が正解だったということだ。しかも、黒崎さんまで参加した。

「このまま抜け出してもいいぞ」
「問題発言です!あ……」
「ははははっ、常務が叱られているよ。いいものを見た」
「ぴしゃりと叱られた。問題発言には違いない。正しい指摘だ」
「すみませんでしたっ」
「大事なことだ。謝ることはない。すまなかった」
「そんな……」
「……だったらいいのか。早瀬、抜け出していいぞ」
「そうしなくても構わない。分かっているでしょう?」

 2人が軽口を叩いている間も、手は握られたままだ。彼らの話が終わり、別のグループが入って来た。握られた手を引かれて、早瀬が耳打ちしてきた。

「あと30分以内でお開きだ。匂いに酔っていないか?」
「平気だよ」
「気分が悪くなったら言うんだよ?」
「うん……」

 最近になり、気づいたことだ。食事に出かけた先で、酒の匂いがするだけで気分が悪くなることがある。酒に弱い体質かもしれない。

 如月と枝川さんがワイワイと話している。枝川さんが向いた方向には、お菓子をくれる女性たちが座っていた。こっちを向いて手を振っているから、振り返した。

 その4人がこっちへ歩いてきた。すぐに囲まれて、ジュースを勧められたり料理を取ってくれたりして、世話を焼かれた。こうして話している間も、早瀬と伊藤さんのことが気になっている。不安に思うことはないのに。でも、二人の会話に聞き耳を立てた。

「いつもお疲れ様です。ヴァイオリンの練習と仕事の両立は大変ですね。いつでも息抜きにお付き合いします」
「この子がいるから行けない」
「それなら……」
「ヤキモチを妬くし我儘なんだ。大変だよ」
「あ……」

 早瀬がさらっと誘いを断った。相手に恥をかかさないようにだ。だったら俺の方からも声をかけておこう。そんなことないですよと言い、会話に入った。

「伊藤さーん。この後、秘書室だけで……」

 なんてタイミングがいいのだろう。伊藤さんのことを呼ぶグループが出て来た。彼女が俺たちへ会釈をして、向こうへ戻った。
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