あるクリスマスの話

なきいち

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プロローグ

ある失恋の話

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夕闇に染まる空の下、学校のグラウンドで、部活を終えた一人の男子生徒が立っている。
特徴的な縞模様の毛並みに、成長期を迎えて大きく発達しつつある体躯。
猫人の中でも大柄な虎族であることに加えて、いかにもスポーツマンらしい引き締まった筋肉は、しかしまだ成熟過程の柔らかい曲線も持つ。
彼は誰かを待っているというそぶりではなく、澄んだ金色の目を細めて、どこか名残惜しそうに誰もいないグラウンドを見つめていた。
「先輩!」
遠くから、彼を呼ぶ声が聞こえた。
よく知っている声だ。
彼は驚くでもなく、ゆっくりと振り返る。
振り返った視線の先で、声の主が慌てた様子で走ってくるのが見えた。
何を慌てているのだろうと頭の中だけで小さく首をひねり、そのまま声の主が近づいてくるのを待つ。
「せ、先輩。あの……」
「どうした? そんなに慌てて」
やって来た犬人は、よほど急いで走って来たらしく膝に手をついて肩で息をしている。
まだ成長期前の小さな体は、大人になりつつある彼と並ぶと余計に小さく見えた。
少年は、同じ陸上部の後輩だった。
猫人の彼より歳は二つ下。
二人はただの学校の先輩後輩という関係だけではなく、家が近所で小さい頃からずっと一緒に遊んできた幼馴染。
あるいは、兄弟のように親しい間柄だった。
「あ、あの」
舌を出し、気持ちが先走ってぜーはーという吐息ばかりで言葉にならない。
落ち着け、と、手振りで示して、彼は苦笑を浮かべた。
彼の表情を見た犬人の少年は、少しホッとしたように頭を下げて深く呼吸をする。
「て、転校するって本当ですか!?」
数回、呼吸を整えるとガバっと顔を上げて、決死の表情で噛みつくように叫んだ。
彼はきょとんと目を丸くして、
「ああ、言ってなかったか?」
と、あっけらかんとした様子で肯定した。
「親父の仕事の都合でさ。
今まではずっと単身赴任だったけど、今度母さんと俺も一緒に住むことになったんだ。
ま、転校自体はずっと前から決まってたことなんだけどな」
「そんな……」
冗談のように軽く言う彼とは対照的に、犬人の少年はまるでこの世の終わりを告げられたように表情を無くしていた。
信頼できる情報だったにせよ、まだ本人の口から真実を聞いていなかった以上、ほんのわずかでも「なんだそれ?そんな噂が流れてるのか」などと笑い飛ばしてくれることを期待していた。
だがそんな淡い希望はいまや、霞と消えてしまった。
犬人の少年は数秒間言葉もなく立ちすくんで、泣き出してしまいそうになるのを必死にこらえながら、どうにか言葉を絞り出す。
「なんで……言ってくれなかったんですか?」
「ああ、すまん。もう言ったつもりだったんだ」
口元に愛想笑いを浮かべ、後ろ手に頭を掻きながら「クラスの奴に教えたとき、ついでに伝えたつもりになってた。忘れててすまん」と、軽い調子で謝る猫人の少年。
その様子に、またしても犬人の少年は打ちひしがれた。
こんな大事なことを、自分には伝えてくれなかったなんて。
猫人の少年としては、二人があまりに近い関係だったためにうっかり一番に伝えたつもりになっていただけだったが、犬人の少年にとっては、まるで自分が取るに足らない存在でしかなかったと宣告された気分だった。
彼の、あまりにも普段と変わらない飄々とした態度が許せなくて、悔しくて、悲しくて、全身が震えるのを抑えられない。
彼の笑顔を見上げるのが苦しくて、俯いた拍子に、どうしてだろう。
晴れた夕焼け空から雨粒がこぼれて土を濡らした。
「お、おい。泣くほどのことじゃねえだろ?」
流石に彼もこれには驚いて、慌てて慰めようとする。
犬人の少年はしゃくりあげながら、必死に零れ落ちるものを隠そうと両目を腕でこすった。
「だって、だって……」
「お前なぁ」
呆れたように弟分の頭をぐりぐりと撫でて、猫人の彼は腰をかがめて相手と視線の高さを合わせる。
「もうそんな歳じゃねえだろ?」
「だって、リュウにい」
「ったく、もう13……14だったか?
そろそろ甘えん坊も卒業しろよな」
「だって……」
「そんなんじゃ、兄ちゃん安心できねえだろ?」
それは、犬人の少年には酷くずるい言い回しだった。
この、自分でもわからない、言葉に表せない苦しい胸の内を吐き出して、受け止めて欲しかった。
けれど、それは大好きなお兄ちゃんを困らせてしまう。
言い返す言葉を封じられて、少年は奥歯を強く噛みしめる。
(だって、オレ……)
頭の中がグルグルする。
ずっとこの人と一緒に過ごしてきた。
これからもずっと一緒だと信じて疑わなかった。
いつも帰りが遅い両親を待つだけの、一人ぼっちの家の中。
そこから連れ出してくれたあたたかい手、笑顔。
両親と過ごした時間より、彼と過ごした時間のほうがずっと、心に強く焼き付いている。
この人の事を、自分はきっと誰よりもよく知っている。
誰よりも、自分こそがこの人を好きなんだと言える。
けれど、なぜだろう。
この感情は、この"好き"は、子供のころからずっと抱いていたそれとは、何か違うもののような気がする。
もう一緒にはいられないという事実を突きつけられて、急に膨れ上がったその感情は、幼い心の中で暴れ回っていた。
それが何なのか、幼い心ではまだ理解できなかったけれど。
頭のどこかでは、「仕方のないことだ。お兄ちゃんを心配させちゃいけない」と理解しているはずなのに、どうしてもその未知の気持ちが、今の事実を受け入れることを拒んでいる。
心の中で暴れて、叫んで、溢れる涙だけでは、抑えきれなかった。
だからほんの少し、体が理性の束縛から離れた。
「……!?」
その気持ちを表現する、幼い少年が知っている唯一の方法。
同じ高さにあったお兄ちゃんの肩に抱き着くようにして、顔を寄せて、自分の口を相手の口に押し付ける。
それだけの、その後どうすればいいのかわからない、ただ同じ場所を押し付け合うだけの愛情表現。
けれど、幼い少年にとっては最大で最高の。
突然のことに、猫人の少年は一瞬何が起こったのかを見失っていたが、すぐに我に返ると反射的に相手の小さな体を突き飛ばしていた。
「うっ……え?」
両目を固く閉じていた小さな少年は、何が起きたのかわからずに呆然と目を見開いていた。
背中が、痛む。
突然体が宙に浮いたような感覚に襲われ、気が付いたら目の前には赤い空が広がっていた。
痛みより先にただただ驚きがあって、順番に思い出していく。
自分が何をやってしまったのか。
そして、彼がそれをどう受け取ったのか。
「うえっ。ぺっ、ぺっ」
痛む背中にすぐには起き上がれず頭だけを起こすと、口元をごしごしと手の甲で拭いて、グラウンドの隅の芝生に唾を吐き出している"お兄ちゃん"の姿が目に入った。
「な、何しやがる!? 冗談でも笑えねえって!」
心底不快そうに顔を背ける猫人の姿に、自分の中の何かが崩れていくのを、犬人の少年は感じていた。
(今、オレ……キス……?)
どうしてそんな事をしてしまったのか、自分自身でもわからなかった。
お兄ちゃんのことは大好きだ。
でも、男同士なのになぜ?
この気持ちは、一体なんだ?
これは、もしかして自分は、彼のことをずっとそういうふうに思っていたの?
様々な疑問が頭の中で渦を巻く。
けれど一つだけ、はっきりと理解したことがあった。
これは、彼には受け入れてもらえない感情だ。
この感情は普通じゃない、気持ちの悪いものなんだ。
(でも、オレは……)
本気だった。
心の底から、彼の特別になりたいと思ってしまった。
離れ離れになっても、お互い、決して忘れないように。
だから、体が動いていた。
でも、この人は自分が想っているのと同じようには、自分のことを想ってくれはしないのだ。
それならば、これ以上、気持ち悪いと嫌われたくない……
頭の中はまだグルグルしたままだったが、それらをすべて抑えつけて、少年はよろよろと立ち上がった。
背中の痛みをこらえながら、きまり悪そうに言う。
短い時間で必死に考えた、言い訳の言葉を。
「ご、ごめん。オレただ……びっくり、させてやりたくて……オレだってすごく、びっくりしたから、仕返し、したくて」
「仕返しだぁ?」
機嫌悪く語尾を上げて問い返す彼の声に、思わずびくりと震えてしまった。
「ご、ごめん、なさい」
「ったく、ホントに笑えねえ冗談だな」
吐き捨てるような、冷たい一言だった。
初めてのキスを奪われたせいだろうか。
猫人の少年は、自分でも驚くほどに感情を乱して、それをそのまま態度に出している。
ハッと我に返って、泣き出しそうな顔をしている弟分の姿に急に後悔の念が湧いてくる。
けれど、自分は間違ったことはしていない。
急にこんなことをされて、怒るのは当然だ。普通のことだ。
なら自分は、間違っていない。
間違ってないのだから、自分が謝る必要なんてない。はずだ。
「ごめんなさい……」
「もういいよ。ったく」
声も小さく、俯く弟分の姿に、胸がチクチクと痛む。
でも、意固地になって弟分を泣かせるのもまた、格好が悪い。
どうにか場を誤魔化そうと、猫人の少年にできたのは、気持ちを切り替えるための長く深いため息と、罰の悪さを誤魔化すために作った笑顔だった。
何とも言えない、苦笑いだった。
数秒の沈黙。
うつむき加減の弟分は、何も言わない。
猫人の少年も、何も言葉が浮かばない。
そんな弟分から、あるいは、さっきから引っ掛かっている胸の内のもやもやから逃げるように、猫人の少年は踵を返した。
数歩、歩いた後になってから、思い出したように振り返る。
少し離れた場所にいる犬人の少年に、いつもと同じ事をたずねた。
「俺、帰るけど、一緒に帰るか?」
「……ううん。まだ、クラスでやることあるし」
「そっか。じゃあな」
「うん。じゃあね」
二人の手が、広げて横に振られる。
普段と同じようで、何かが変わってしまった、いつもの別れ。
そして、再び歩き始めた猫人の少年と犬人の少年の距離は離れていく。
小さくなっていく大きな背中を、犬人の少年はじっと見送っていた。
(……あれ?)
誰も居なくなった夕暮れの景色が歪んでいる。
瞬きをすると、頬の毛並みがしっとりと濡れていく。
泣いてなんか、いないのに。
泣いてしまったら、いけないのに。
さっきのは、ただの冗談でなくてはいけないのに。
それなのに、溢れてくる涙はどうしても止まってくれなかった。
どうしても……

夕暮れのグラウンドで、犬人の少年は一人、静かにずっと涙を流していた。
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