あるクリスマスの話

なきいち

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エピローグ

ある失恋の話

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「シンジ? シンジじゃないか?」
昼飯はどうしようかなと考えながら道を歩いていると、急に誰かに呼び止められた。
振り返ってみると、一人の猫人がにこやかに手を振っている。
しかし、その顔にはまったく見覚えが無い。
同じ名前の人物が近くにいるのだろう。
思わず振り返ってしまったことを気恥しく思いつつ、前を向こうとすると、
「久しぶり! お前デカくなったなぁ」
そいつは手を上げたまま、まっすぐ信慈のほうへと近づいてきて、妙に馴れ馴れしく話しかけてきた。
人違いではなかったらしい、が。
(誰だこいつ……?)
記憶を辿るが、やはりその顔には見覚えがない。
信慈と同じくらいかやや大きい体格に特徴的な縞模様は猫人の中でも虎族の証拠。
男らしい体つきや顔つきは信慈の好みに刺さるが、今はそういう時ではない。
ほんの一瞬ブレた思考を戻して、じっと相手の顔を見る。
やはり、思い出せない。
眉をひそめて何も言わない信慈に相手も気が付いて、
「なんだよ。オレだよ俺。忘れちまったのか?」
「……すみません。どちら様ですか?」
新手の詐欺か、何かの勧誘だろうか。
本気で警戒している信慈に、謎の男はオーバーリアクションで落ち込んで見せた。
「ひっでぇなぁ。兄貴の顔、忘れちまったのか?」
「兄貴?」
信慈に兄はいない。
この男はいったい何を言っているのだろうか。
信慈の眉根はますます険しくなり、これは変なことに巻き込まれる前に退散するのが最善と考えたとき、一つの顔がその男とダブって見えた。
記憶の中のその顔はもっと高いところにあって、まだ幼さの残る少年だった。
でも、まさか、
「リュウ、にい……?」
「そーだよ。リュウ兄ちゃん。思い出したか?」
思いがけない再会に、信慈の目は大きく見開かれる。
リュウ兄こと小鳥遊 龍平は、信慈にとって忘れることのできない人物だ。
だって彼は、信慈の幼馴染で、本当の兄のように慕っていた人物で、初恋の人で、初めて拒絶された人なのだから。
ずっと記憶の奥底に沈めていた、忘れていたかった人が今、何の前触れもなく目の前に立っている。
あまりに突然の出来事に頭が混乱して、妙な息苦しささえ覚えた。
「何、してるんですか? こんなところで」
胸の内の動揺を抑えつけて、表面上は冷静に言葉を返す。
彼、龍平は昔と変わらない屈託のない笑顔を浮かべながら、
「何も? 久しぶりに昔住んでた近くに用事があってな。そうしたらいろいろ懐かしくて、ちょっと散歩してただけさ」
「そう、ですか」
その声、喋り方、一つ一つが波紋になって、子どもの頃の記憶がどんどんよみがえってくる。
「ま、せっかくだしさ、ちょっと付き合えよ。メシ時だし」
「え、あの」
「いいからいいから。おごるぜ?」
「は、はあ……」
強引に肩を掴まれて、引きずられるように近くのジャンクフード店に連れ込まれた。
どちらかといえば引っ込み思案だった信慈を、よくこうして遊びやお菓子の買い物に連れ出してくれていたっけ。
(全然変わらないな。この人は)
適当にバーガーとポテトを注文して窓際の席に腰を落ちつけながら、信慈は目を細める。
眩しいものを見るように。
意味もなく明るくて、強引なくせに憎めない、不思議な魅力に溢れる人だった。
すっかり男らしくなった顔立ちは大人の魅力を放ちながら、目元はあの頃の優しさを残したまま。
同じ色の瞳を『兄弟みたいだね』と大人たちに言ってもらえるのが、あのころは何よりも嬉しかったっけ。
「それにしても、いろいろ変わっちまったよな」
運ばれてきたバーガーやらをつまみつつ、昔話に花を咲かせていると、龍平はガラスの向こうの通りに目を移して言った。
「先輩が引っ越してから、もう10年近く経ちますからね」
つられて窓の外を見る。
あの頃、部活帰りや休みの日に見ていた景色は、大まかなレイアウトは同じなのに道はより整備されて並ぶ建物も違うものになっており、同じ場所だとわかるのに全く違う絵に様変わりしていた。
視線を戻すと、窓の外を眺める龍平はどこか、寂しそうな目をしている。
「どうかしたんですか? 先輩」
「ん? いや……まさかお前に会えるなんて思ってなかったからさ。子供のころは、お別れもちゃんと言えなかったし」
「……」
(そうだったな……)
あの日、初めての失恋を思い知ったあの時が、信慈と龍平の別れだった。
自分の気持ちをわかってもらえなかった切なさ。
自分が普通じゃないと知ってしまった怖さ。
それを一番好きな人に知られてしまった後悔。
その全部が苦しくて、信慈は龍平の顔を見ることができなくなってしまった。
部活にも顔を出さず、学校が終われば逃げるように家に帰って、家では居留守を続ける日々。
引っ越しの日も会いに行くことができなくて、一人で公園のブランコに座って時間を潰したっけ。
苦い思い出を流すように、コーラをすする。
「悪かった、なんて言ったら、お前怒るか?」
「何がです?」
「あの時の事、どうしても謝っておきたくてさ」
「いつのことですか?」
「お前と最後に会った、あの校庭の事さ。覚えてないか?」
忘れていた痛みが、ギュッと胸を強く締め付ける。
夕闇の校舎。痛む背中。止めようとしても流れてきてしまう涙。
しばらくは夜になると、一人布団の中で泣き続けたりもした。
もう思い出さなくなってたのに、この人も覚えてくれていたという事実に、急に、痛みが鮮明によみがえってくる。
言葉に詰まり目を伏せた信慈に、龍平も信慈があの日の事を忘れていないことを悟った。
「あの時は、さ……俺も、ガキだったんだ。だから冗談だって、思いたかった。
でも本当はさ、俺、初めてドキドキしたんだ。
弟分のお前に、男同士なのに。おかしいだろ?
だから、怖くなって……お前が冗談だって言ってくれて、ホッとした。
本当はもっと早く、気が付かなきゃいけなかったんだ。
でも俺、本当にガキでさ、次にお前に会ったときどんな顔をすればいいのかわかんなくて、怖くて、会いに行けなかった」
まったく自分と同じだった。
顔を上げると、龍平はまっすぐに信慈を見つめている。
何かを決めた、強い目で。
「あのときの埋め合わせ、やらせてくれないか?」
「どういう、意味です?」
「今なら、お前のことをわかる気がする。たぶん俺も、同じだから。
……ずっと、好きだったんだ」
ああそれは、それは……
あの日の信慈が、ずっと欲しかった言葉だ。
求めてやまなかった、夢の言葉だ。
それなのに、どうしてだろう。
待ち焦がれ続けたはずの告白を受けた今、信慈の心は何も、感じていなかった。
(どうして……?)
嬉しいはずなのに。
あの日の子犬は、尻尾を振って泣き出したはずなのに。
今、胸の内は、風のない湖面のように静かだ。
(……ああ、そうか)
理由を探していると、一人の小さな犬人が無邪気に笑っていた。
そうだった。
ここにはもう、彼がいるんだ。
だからもう、遅いんだ。
信慈は龍平の顔をしっかりと見つめ返し、ニコッと口の端を上げる。
「からかわないでくださいよ、先輩」
「おまっ、こっちは本気で」
「あの日のことは、本当にただの冗談ですよ。
先輩が本気で怒ったのにびっくりして、怖くて会いに行けなくなっただけです」
「っ!」
すらすらと眉一つ動かすことなく、自分がこんなにも上手に嘘がつけることに信慈は小さく驚いていた。
「そう、なのか?」
「はい」
意趣返しのつもりなどなかったが、この言い方は残酷だっただろうか。
一念込めた告白を受け流された昔の思い人はがっくりと肩を落として、その姿が切なくて、ついまた、上を見上げてしまった。
そこには、白い天井があるだけだ。
そこにはもう、赤い空はない。
もう、過去は取り返せない。
欲しかった言葉は、今となってはもう、遅すぎたのだ。
「それでも」
龍平の声に信慈は顔を下ろした。
「それでも俺は、今の俺の気持ちは、本物だから」
真剣な眼差し。
まっすぐ自分を射貫くその目にわずか、昔の感情が呼び起こされるが、小石が落ちただけの水面はすぐ落ち着いていく。
もう既に、心はこの人から離れてしまっているのだから。
もう、戻れない。
「困りますって。俺、付き合ってる奴いるんですよ?」
「!?」
さらりと言い放った言葉がとどめになった。
龍平はしばらくの間金魚のように口をパクパクさせていたが、
「そ、そうか……ははっ、悪ぃ悪ぃ」
昔と変わらない笑顔は、少しだけ、引きつっていた。
信慈はそれを見届けて、残っていたポテトを一気に口に流し込む。
コーラで全てを胃の中まで流し落とすと、
「それじゃあ先輩、お昼、ご馳走様でした。久しぶりに会えて、嬉しかったです」
そそくさと立ち上がり店を出ようとしたが、背を向けた直後呼び止められた。
「信慈!」
ゆっくりと振り返る。
そこにはテーブルをはさんでわずかばかりの距離しかない。
だが、もうその距離を縮めることはできないと、二人とも理解できていた。
「あの時、お前に酷いことして、本当にごめんな」
「……別に、気にしてないですよ」
呆れたように浮かべる苦笑は、きっと、泣きじゃくる信慈をいつもあやしてくれたお兄ちゃんの、あの表情と同じものだっただろう。
そして、信慈は店を出て行った。

数分後、信慈は人気の少ない、寂れた公園にいた。
ところどころペンキの剥げたベンチに座り、空を見上げている。
「あーあ。すっげー、かっこわりぃ」
自分の頭を掴むように目元を隠しているが、溢れ出した涙は容赦なく顔の毛並みを汚していく。
心は落ち着いているはずなのに涙が後から後から溢れてきて、まるで、あの日と同じだった。
(……これで、いいんだよな?)
ずっと、心の中にはあの人がいた。
どれだけ恋を重ねても、いつもあの人の影を追いかけていた。
自分でも気づかないうちに。
そのせいで、何人の人を傷つけてきたのだろう。
だから自分の手で、自分の言葉で終わらせなければいけなかったんだ。
それなのに、涙が止まらない。
(自分で振ったくせに、情けねぇ)
自嘲すると、不思議と頬が吊り上がった。
こんなに胸が苦しいのに、同時にすごく、晴れ晴れとした気分だ。
(さようなら、先輩。オレ、本気で好きでした)
あの日の涙は、今ごろになってようやく、止まってくれそうだった。

夕焼けの中でずっと泣いていた泣き虫の犬人は、やっと一つの恋を終わらせて、次の恋に向かって歩き始めた。
たったそれだけの、小さなお話。
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