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真実が明かされる日

長谷川正紀という男

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長谷川サイド

俺、長谷川正紀は、つい先日、長年の片思いの彼女に失恋した。彼女の相手は、目の前にいる人外の美しさと、手に負えないほど強力な魔力を持つ淫魔だ。

彼女の事は、入社時から好きだった。大切に育てられたのだろう、綺麗なオーラを持つ、素直で優しい女性。透明な宝石のような心を持った美しい魂の持ち主。

恋愛には、びっくりするほど奥手で、退魔師の性質で彼女が、その手の事を、つまり手を握るとかキスするとか、その先とかを全く意識しておらず、つまり脈ナシだと気付いてしまい、どうしても一歩が踏み出せない。告白したら何か変わるかもしれないのだろうが、玉砕する勇気も無い。

そうこうしているうちに、あの悲しい事故が起こる。彼女は深い深い悲しみの海の底に独りきりで沈んでしまった。上から誰が声を掛けても、手を差し伸べても、彼女の心には届かない。

時間という慰めが彼女の身体を、水の中から浮かび上がらせるまで、どれくらいかかるのか、それは果てしなく先に思えた。

無力な自分が悔しかった。それでも、水底に沈んだ彼女に声を掛け続けよう。手を差し伸べ続けようと、そう心に決めた矢先の事だった。

ある日、ひょっこり彼女は海から陸に戻って来た。悲しみが完全に消えた訳では無いけれど、彼女はもう絶望の海の底で揺蕩ってはいなかった。現実の世界で、以前の無理に作った笑顔では無く、自然に微笑んでいた。

彼女に淫魔の影さえなければ手放しで喜んでいただろう。

立ち直った彼女に、微かだが淫魔の気配がある。個体は1つ。おそらく若い生まれて間もない淫魔。ソイツが彼女の心を癒している?相手は淫魔だ。心だけである筈がない。日に日に明るくなってゆく、そんな彼女を前に、とても冷静ではいられない。

心配で、話が聞きたくて何度も食事に誘うが、その度に同じ答えで、すまなそうに断られる。

「ごめんなさい。事情があって親戚の子供が家に来ていて無理なんです」

その親戚の子供が淫魔なのか?彼女が、親戚の子供と思い込んでいるだけで、ソレは人間じゃない。彼等は精神操作に長けている。子供に淫らに嬲られる彼女の姿が脳裏にチラついて、心がザラザラする。正気でいられるはずもない。

彼女の近くの淫魔の力が爆発的に増したのを感じた時に、俺は限界を感じて、早朝の彼女の家に向かって車を走らせたのだった。

結果から言えば、彼女は操られてなどいなかった。それどころか、同居人の正体も知った上で一緒に暮らしていた。

自らの正体を明かすのは淫魔にとっては命取りだ。真実を知られたら相手の記憶を消して速やかに去るのが彼等のセオリーだ。

全くのイレギュラー。

彼女と少年の姿の淫魔の間には何がしかの絆が生まれている。こんなケースは初めてだ。その上、童貞の淫魔と処女なんて伝説でしか聞いた事が無い。

仕事柄、様々なインキュバス、サキュバス、そして糧となった人間を診てきた。もともと、退魔師は、家が代々やってるだけで、俺はやりたくなかった。性的快楽を糧に生きる妖魔など誰が好んで関わりたいと思うだろう。夢の中で、現実で、奴らは好き勝手な事をする。同意の元でとか、人間の心の奥底の欲望に従ってとか色々言っているが、やる事は大概エゲツない。まあ夜の褥の中なんて人間同士でも綺麗事だけで成り立っていられないのは承知しているが。


「熟成」に至っては、清らかな女性を、夢の中とはいえ何人もで、時間さえ無限に操れる空間に連れ込んで快楽を与え続けた事例もあった。

 それは、協会の外の奴らがやった悪質なケースではあったが。

協会内で「熟成」は細かい規制があって、それに従って、レオに言わせれば規律正しく行われる。そのルールをレオや、彼に準ずる経験の豊かな淫魔が、若い淫魔が「熟成」を始めたら必ず介入して教える。従わない場合は、直ちに中止させる。

糧である人間の身体も心もキズ付けず、むしろキズ付いた心を癒し、疲れた身体をリフレッシュさせる、それが協会の言い分だ。

70年ほど前に西洋から流れて来た、どれくらい生きているのかすら分からない、とんでもない化け物のレオに至っては、会社も不動産もいくつも所有しているし、財界、政界にも顔が効くはずだ。

この世界の芸能人やモデル、様々な性産業、美容、芸術に至るまで、淫魔達は数多く存在している。一般人は知らないだけで、淫魔と人は、もう離れられないくらい共生している。

そんな中で発生するトラブルを秘密裏に解決するのが退魔師だ。もちろん協会もルール違反は取り締まる立場だ。無秩序な淫魔を規制するのが役目のひとつだと公言して憚らない。

そんな協会の代表者であるレオが背後に居るのだから、こんなに短期間で酷い事にはならないと気を抜いていた。タカをくくっていたのだ。

俺の、愚かなその油断の所為で、コイツは、最早、俺に止められないほど強力な淫魔に化けた。

「彼女は………どうなっている。」

「ゆうきさんを守って欲しいんです。危険が無いか気を配って欲しい」

「は?何、言ってる。貴様が1番の危険物だろう?」

「長谷川先輩、ゆうきさんに、まだ会ってないでしょう。目がいいらしいですね。彼女を、良く視て決めて下さい。ぼくは盾がひとつでも多く欲しい。先輩は決して彼女を傷付けない貴重な人材ですからね」

「何を言っている?貴様が傷付けている張本人だろうが!」

「そうですね。否定はしませんよ。それでは、ぼくの話は終わりです。ご機嫌よう。三課にお送りしますよ。ゆうきさんに宜しく」

そう言った途端に視界が揺れて三課の前に、俺は立っていた。ふらついて思わずたたらを踏む。全く出鱈目な奴だ。

さっきから、ほとんど時期が経っていない。始業、1時間前の三課の中から、女性2人の声が聞こえてきた。

「サラさん!?」

「はい。本日から三課に配属になりました」

「きゃあ、眼鏡似合う。瞳の色が違うね。髪をアップしているとカッコいい!」

「あの、あの、あまり近付かないで下さい。触れられたら、大怪我しそうです」

「え?由希人くんのアクセのせい?気をつけなくちゃ」

そこまで聞いてドアを開ける。

「長谷川先輩。おはようございます」

「……おはようございます」

彼女を視て、声が出ない。これは………どう判断したらいいのか。こんなに「熟成」が進んだ状態の女性を視た事がない。しかし、彼女自身に濁りは無い。おそらく「魅了」も使われていない。時間操作も他の淫魔との共有の気配も全く無い。ヤツなりに加減をしながら大切にしていたのが解る。そして彼女も自らの意思で受け入れた。

その事実に、ひどく胸が痛む。俺が退魔師でなければ、こんなに苦しむ事はなかっただろうか。それにしても、一体、どうやったら、こんな短期間に「熟成」が進むのだろうか?見当がつかない。

「長谷川先輩?」

彼女は、心配そうに声をかけてきた。いや、君の方が、余程心配だ。頑丈な結界が二重三重に施されているけれど、確かに、あらゆる淫魔に狙われそうだ。それに一部の強欲な力を求める人間にも。


「いや、大丈夫だ。おはよう、今日から入社の君も、くれぐれも宜しく」

俺は、心の中で、大きく溜息をついた。

本来なら退魔師の本部に報告すべき案件だ。しかし、そうすれば彼女に何が起こるか分からない。非常にレアな有益な例として彼女を調べたがる研究者の手になど渡ったら…………。そこまで考えて、ゾッとする。

ヤツの口車に乗るのは屈辱以外の何物でも無いが、確かに、彼女に注意をはらう必要があるだろう。
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