夢幻空花

積 緋露雪

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十一、私を摑まへることは不可能である。何故なら私を摑まへやうとするとハイゼンベルクの不確定性原理が立ち塞がるからである。

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――私が私を摑まへることは不可能である。何故なら私が私の内部を分け入って私を摑まへやうとしても私に対してもハイゼンベルクの不確定性原理が立ち塞がり、私を摑まへたと思っても、それは曖昧模糊とした私に過ぎず、私を確定できぬのである。もし、私なるものが確定して捉へられてゐると思ってゐても、それは私なるものの虚像であって私とは似ても似つかぬもので、私らしきものがゐるのみである。何故ハイゼンベルクの不確定性原理が立ち塞がるかといふと、私なるものを摑まへやうとするとき、私なるものは一度たりとも静止したことがなく、それを無理矢理静止させて私なるものをして私だと名指したところで、それは量子と同じく位置が確定できぬやうに私もまた確定できぬ類ひのもので、もしも私が確定できたといふのであれば、それは絶えず蠢き隠遁の術を使って頭蓋内の闇――私はそれを五蘊場と名付け私が現はれる場として規定してゐる――のいづこかに姿を晦ましてゐる筈で、頭蓋内の闇、即ち五蘊場に神出鬼没に出現する私は、捉へどころがないのが実態である。私を捉へる陥穽など五蘊場の彼方此方に罠を仕掛けたところで、五蘊場の私はいづれの罠もするりと擦り抜け、五蘊場の私に哄笑させるのが関の山である。それでも私を摑まへてゐると言ひ張るのであれば、それは私なるものの死体をして私といってゐるだけのことで、それは全く話にならぬ。私を摑まへやうと或る閾値を超えると私は忽然と茫漠として捉へどころがなく曖昧模糊としたものとなり、私を捉へることは不可能なのである。五蘊場における私は素粒子的な存在と看做せなくもなく、私は決して連続的ではなく、ひょいと身を躱してはあらぬ吾に姿を変へること屡屡で、その不連続な吾の在り方はいつかは吾は吾ならざる吾へと変容するべきその予行練習ともこれまた看做せるのだ。吾もまた、私であることに我慢がならず、絶えず憤怒の中にあるのを常としてゐて、憤怒の炎で吾の陽炎が揺らめき立ち、大概はその揺らめき立つ陽炎をして私と名指してゐるに過ぎぬ。仮に本来の吾といふものがあるとして語れば、憤怒の炎で燃え盛った吾は、ゆらゆらと揺れる人魂の如きものとして反物質の存在形態と同じく「反闇」としてその輝きは、周りを照らすことはなく、憤怒の炎で燃え盛る吾のみに収束する不可思議な光であり、Black holeがシュヴァルツシルトの事象の地平面では闇と見えるが、その内実は想像するに光が充溢した強烈な光が内向すると看做せると仮定すれば、反闇の光はBlack hole内部同様に内向する光で包まれてゐるのだ。その内向する光を纏った反闇の本来の吾は、光に包まれながら全く見えぬのである。さう看做せば、そもそも吾の捕獲を目論むこと自体無駄足なのである。

 闇尾超も吾を捉へることはハイゼンベルクの不確定性原理によるものと看做してゐて、これまた偶然にしては出来過ぎであるが、頭蓋内の闇を五蘊場と名付けてゐたとは、なんといふ巡り合はせだ。闇尾超は弛まず吾の捕獲を目論んでゐたのだらう。然し乍ら、それは悉く失敗に終はり、ハイゼンベルクの不確定性原理を持ち出し、反闇なる考へに思ひ至ったに違ひない。確かに私が吾を摑まへやうとすると、此方の目論見を見透かしてゐるかのやうに悉く失敗に帰す。これは闇尾超のいふ通りなのだ。五蘊場に存在するであらう吾なるものは、私は異形のものとして看做してゐる。闇尾超同様に私は敢へてそれを闇尾超とこれまた同じく異形の吾と名指してこの私とは似ても似つかぬGrotesqueなものとして或る意味異形の吾を見下すかのやうに看做してはゐるが、それは裏を返せば、異形の吾に畏怖を抱いてゐることに外ならず、尤も、私も異形の吾を見たことはないのだ。見たことがないものに異形の吾と名付けて悦に入ってゐるところもなくはないが、しかし、この全く見えぬ異形の吾は、磁石のS極N極ではないが、悉く私とは反発し、私と乖離してゐるのは間違ひない。闇尾超がいふ乖離性自己同一障害といふことはよく解るのだ。ハイゼンベルクの不確定性原理か。成程、異形の吾を追へば追ふほど、或る段階、闇尾超はそれを閾値と呼んでゐるが、それを超えるともう雲を掴むやうに茫漠として異形の吾の尻尾すら見つかる気すらせず、茫然自失するのである。吾を見失って茫然自失するとは変なものいひだが、五蘊場の何処かに風穴でも空いてゐるのか、渺渺たる時空間へと通ずるそれはひゅうひゅうと幽かな風音を立ててゐて、五蘊場にはその幽かな風音だけが響いてゐるのであった。そんなことばかりなのである。毎度、異形の吾を摑まへ損ねては茫漠たる、或ひは渺渺たる五蘊場の闇の中で、私はぽつねんと独り孤独に苛まれつつも、にやりと嗤ってはその孤独を噛み締めながら、私から逃げ果せた異形の吾のその狡猾さに舌を巻くのであった。それが、私と異形の吾との関係の全てである。
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