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命は使い切れないし、簡単に使い切れる
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ワシはおじいちゃん。もう今年で103になる。認知症もかなり進んで、自分が自分だと気付くのにも、多少時間がかかるボケ老人じゃ。
もう生きていて楽しいことも、驚くこともほとんど失くなってしもうた。
ついこの間ひ孫が生まれたと思ったら、もう小学校に上がったという。時間の感覚が違い過ぎて怖い。
最近じゃあ息子が、いつワシが死ぬのかという雰囲気を漂わせている。伊達に100年も生きとらん。そのくらいは分かる。
息子と会うとすぐに怒ってしまうが、気持ちも分からんでもない。ワシも父さんが80歳になって入院したとき、同じことを考えた。
ワシにかかる費用は少なくないし、長生きのワシを邪魔に思うのも分かる。
ばあさんはワシより15年早く他界したし、もうこれといって長生きする理由もなかった。こんなに長生きするなんて思ってなかったわい。
10年前に高い金出して買った墓石も、もう汚れてしまった。息子たちに払わせるのは迷惑だと思って、死ぬ前に買っておいたんじゃがなぁ。
ただ、自ら死ぬ道を選ぶことは絶対にない。死ぬのはワシだって怖いし、何より死は唯一ワシに残された未体験じゃ。もっと先まで取っておきたい。
そんな折、突如ワシに転機が訪れた。
朝のランニングをしている最中、黒い厚手の上着に黒いジーンズという格好をした、大男に出会ったのだ。
とても不気味な男じゃった。言葉の全てが浮いていて、嘘と本当の入り混じった話し方をする。103年生きたワシでも、彼の言葉の本質を掴むことはできなかった。
しかしワシは彼の言葉を信じ、ときめいた。彼の話は今のワシでも心躍らされるもので、未知と未体験にあふれている。それに飛びついた。103年の人生を投げてもいいと思えるほどに。
「さようならじゃ」
一枚の置手紙と、20年前に弁護士に渡した遺書を残し、ワシは40年を共に過ごした我が家を出た。午後になれば娘が帰ってくる。後のことは全てあの子に任せよう。
ばあさん、ワシは少し寄り道してからそちらに向かうとするよ。君にいっぱい、楽しい話を聞かせてあげるから……。
目が覚めた瞬間、自分の身体が大きく変化しているのを感じた。人間では失くなってしまう感覚というのもワシには初体験。とても胸が踊る。
六本の足に四枚の翅。背中の後ろまで良く見える目。たった二つでは絶対に実現できない視界が、目の前に広がっていた。
ワシが90の時から憧れていた生物。毎年田んぼで見かけては、羨望のまなざしで観察し続けていた。ばあさんを亡くしてからというものワシは彼らに憧れ続けた。
ああ、これがワシの新しい肉体か。初体験なんてものではない、新しい人生。ここは未知に溢れた、死ぬ直前に必ず訪れるべき最後の楽園。
自身の変化を噛みしめていると、次の瞬間驚くべきことが起きた。
なんと、自分の身体が浮いたのだ。強い風が吹き、ワシの背についた翅がその風を受けて浮かび上がる。そんなの、人間だったころは絶対にありえない現象だった。
ないはずの脈拍を感じる。人間だったころのどんな経験よりも鼓動が高まっている。
なんだこのワクワクは。なんだこのドキドキは! もしかして、もしかすると、生身で飛べるのか!? 試してみたい。試さずにはいられない!
背中に力を込めてみる。まだ翅がしっとりしているが、確実に動いているのを感じた。
何故、ワシは翅を動かすことが出来るのだろう。例えば人間の体に急に羽が生えたとして、どうして簡単に動かすことができよう。例えるなら、訓練もしていない人間が、内臓を自在に動かしているようなものだ。
今まで使ったことのない筋肉の操作を、感覚というひどく曖昧なものだけで解決できてしまう。たったそれだけのことにも、未知と興奮を感じる。自分の中にある、自分の常識とは異なる感覚。これもまた、未体験なのだ。
少し力を入れると、翅が超高速で振動し始めた。作り出した小さな小さな風は、ワシの数グラム程度の肉体を宙へと押し上げた。
おお、おお! これが空を飛ぶ感覚!
すごい。鳥のように大空を舞うことは出来ないが、地面から離れて宙を移動する能力。
それは、人類が長らく求めていたもの。そして、あらゆる技術の粋を結集させて作り上げたもの。それを今ワシは、ただ個人の力で成し遂げている。こんなに心踊ることがあるだろうか。いや、ない。断言できる。
しかし昆虫が空を舞う感覚というのは、ワシが想像していたのとは大きく違うようだ。
なんというかこう、水の中のような感覚だ。空気そのものに高い抵抗力があって、翅でそれを押して進んでいるような。
ワシの体重が軽いからこのようなことが出来るのだろう。
想像とは違ったが、これが良いのだ。想像通りでは詰まらない。103年の年月をもってしても予想できないことが、今この身体に詰まっている。
浮かび上がったワシの身体は、少し方向性を与えるだけで動き出した。
翅を動かしているうちに湿気も乾き、かなり自由に動かせる。
いざ、空の世界へ!
草をかき分け、宙をかき分け、ワシの身体はまっすぐ突き進む。
ワシは知っていた。蜉蝣の身体は弱い。成虫になった今、この肉体はあと24時間で潰えるのだ。だから、早いうちにこの世界のあらゆる未知を体験したいのだ。
しかしこの身体を望んだのはワシ。全てが未知に包まれた異世界であろうと、もう先の長い人生は充分じゃ。
短い時間でどれだけの経験が出来るのか。それだけを考えて行動するのだ。
移動すればするほど、新しい物が見つかる。素晴らしい。
ワシが生まれた湖に浮かぶ植物。それすら、地球では見ることの出来ないものだった。
形も、臭いも、色すら、ワシは見たことがなかった。一歩踏み出すだけで、未知の広がった世界。
よく見てみると、ワシが浮いていた水面すら、地球とは違っていた。
若干粘り気のある水。色も、まったくの透明ではない。少し緑色だ。
この水はどんな性質があるのか、それをじっくり調べる余裕はない。しかし、その存在を知れただけで、今のワシには充分である。何故ならこれこそが、この世界に溢れる未知の証明だから。
少し高いところまで昇って辺りを見回してみると、植物だけでなく、動物までもが見たことのない存在であることが分かった。
足が六本ある生物がいる。目が二つではない生物がいる。犬のような外見なのに、鳥のような羽が生えた生物がいる。
ああ、なんということか。ワシの想像を遥かに超える未知の数々。それが、こんなにも沢山転がっているなんて。
飛行の休憩がてら空飛ぶ犬を観察していると、不意にワシの周りを大きな影が覆った。
ワシよりも遥かに高い空を飛ぶ生物。鳥だ、トンビだ。大空を舞い、虫を喰らう。ワシら蜉蝣の天敵とも言える生物。
おお、この姿で見ると、なんと勇ましきことか。昆虫などとは比べるべくもないほどの巨体。きっとこのままでは、一瞬ののちにワシは食われてしまうだろう。
死がこれほどまで近い存在になっている。日本ではこれほど身近に死を感じることはなかった。ばあさんが亡くなった時にワシも歳を感じたが、それでもまだ死が自分のすぐ隣にいるとは思わなかった。
だが、そう簡単に死んでやるものか。この身体はどうせ24時間後に潰える。せめてそれまでは、この未知の探求を続けていたいのだ。
ワシは休憩していた木の皮の隙間に隠れた。
蜉蝣はバッタやゴキブリのように翅をたためる構造はしていない。だがここで死ぬのはあってはならないことだ。
軋む翅を無理やり押し込む。
しばらく息を潜めていると、向こうは諦めてくれたらしい。熱心に木をつついていたが、プイと背を向けて帰っていった。
それを確認したワシは、新しい発見を得るべく飛び出した。
ああ、ぬかった。無理に翅をたたんで隠れたために、翅が折れ曲がって飛行能力が低下してしまった。
ワシは無力にも、木から地面に向かって落ちてしまう。
直後、周囲からバサバサと音がした。何かと複眼でそちらを見てみると、驚くことに、先程のトンビが木のてっぺんから降りてきていたのだ。
数秒もない、見事な早業であった。
ワシの身体は砕かれ、嘴に放り込まれ、そしてそのまま……。
夢だ、地球でワシが死ぬ直前に見た、夢だったのだ。そうとしか思えない。そうでなければ、ワシがここに来た意味が、ワシが彼に願った意味がない。
だからこれでいい。これは夢だと、そう思えばいい。そしてこの夢で見た未知の数々を、天にいるばあさんに、いつまでも語るのだ。
ミシミシ、そんな音を残して、ワシは死んだ。長く望んだそれは、本来ワシが望んだ結末どおりとは、行かなかった……。
もう生きていて楽しいことも、驚くこともほとんど失くなってしもうた。
ついこの間ひ孫が生まれたと思ったら、もう小学校に上がったという。時間の感覚が違い過ぎて怖い。
最近じゃあ息子が、いつワシが死ぬのかという雰囲気を漂わせている。伊達に100年も生きとらん。そのくらいは分かる。
息子と会うとすぐに怒ってしまうが、気持ちも分からんでもない。ワシも父さんが80歳になって入院したとき、同じことを考えた。
ワシにかかる費用は少なくないし、長生きのワシを邪魔に思うのも分かる。
ばあさんはワシより15年早く他界したし、もうこれといって長生きする理由もなかった。こんなに長生きするなんて思ってなかったわい。
10年前に高い金出して買った墓石も、もう汚れてしまった。息子たちに払わせるのは迷惑だと思って、死ぬ前に買っておいたんじゃがなぁ。
ただ、自ら死ぬ道を選ぶことは絶対にない。死ぬのはワシだって怖いし、何より死は唯一ワシに残された未体験じゃ。もっと先まで取っておきたい。
そんな折、突如ワシに転機が訪れた。
朝のランニングをしている最中、黒い厚手の上着に黒いジーンズという格好をした、大男に出会ったのだ。
とても不気味な男じゃった。言葉の全てが浮いていて、嘘と本当の入り混じった話し方をする。103年生きたワシでも、彼の言葉の本質を掴むことはできなかった。
しかしワシは彼の言葉を信じ、ときめいた。彼の話は今のワシでも心躍らされるもので、未知と未体験にあふれている。それに飛びついた。103年の人生を投げてもいいと思えるほどに。
「さようならじゃ」
一枚の置手紙と、20年前に弁護士に渡した遺書を残し、ワシは40年を共に過ごした我が家を出た。午後になれば娘が帰ってくる。後のことは全てあの子に任せよう。
ばあさん、ワシは少し寄り道してからそちらに向かうとするよ。君にいっぱい、楽しい話を聞かせてあげるから……。
目が覚めた瞬間、自分の身体が大きく変化しているのを感じた。人間では失くなってしまう感覚というのもワシには初体験。とても胸が踊る。
六本の足に四枚の翅。背中の後ろまで良く見える目。たった二つでは絶対に実現できない視界が、目の前に広がっていた。
ワシが90の時から憧れていた生物。毎年田んぼで見かけては、羨望のまなざしで観察し続けていた。ばあさんを亡くしてからというものワシは彼らに憧れ続けた。
ああ、これがワシの新しい肉体か。初体験なんてものではない、新しい人生。ここは未知に溢れた、死ぬ直前に必ず訪れるべき最後の楽園。
自身の変化を噛みしめていると、次の瞬間驚くべきことが起きた。
なんと、自分の身体が浮いたのだ。強い風が吹き、ワシの背についた翅がその風を受けて浮かび上がる。そんなの、人間だったころは絶対にありえない現象だった。
ないはずの脈拍を感じる。人間だったころのどんな経験よりも鼓動が高まっている。
なんだこのワクワクは。なんだこのドキドキは! もしかして、もしかすると、生身で飛べるのか!? 試してみたい。試さずにはいられない!
背中に力を込めてみる。まだ翅がしっとりしているが、確実に動いているのを感じた。
何故、ワシは翅を動かすことが出来るのだろう。例えば人間の体に急に羽が生えたとして、どうして簡単に動かすことができよう。例えるなら、訓練もしていない人間が、内臓を自在に動かしているようなものだ。
今まで使ったことのない筋肉の操作を、感覚というひどく曖昧なものだけで解決できてしまう。たったそれだけのことにも、未知と興奮を感じる。自分の中にある、自分の常識とは異なる感覚。これもまた、未体験なのだ。
少し力を入れると、翅が超高速で振動し始めた。作り出した小さな小さな風は、ワシの数グラム程度の肉体を宙へと押し上げた。
おお、おお! これが空を飛ぶ感覚!
すごい。鳥のように大空を舞うことは出来ないが、地面から離れて宙を移動する能力。
それは、人類が長らく求めていたもの。そして、あらゆる技術の粋を結集させて作り上げたもの。それを今ワシは、ただ個人の力で成し遂げている。こんなに心踊ることがあるだろうか。いや、ない。断言できる。
しかし昆虫が空を舞う感覚というのは、ワシが想像していたのとは大きく違うようだ。
なんというかこう、水の中のような感覚だ。空気そのものに高い抵抗力があって、翅でそれを押して進んでいるような。
ワシの体重が軽いからこのようなことが出来るのだろう。
想像とは違ったが、これが良いのだ。想像通りでは詰まらない。103年の年月をもってしても予想できないことが、今この身体に詰まっている。
浮かび上がったワシの身体は、少し方向性を与えるだけで動き出した。
翅を動かしているうちに湿気も乾き、かなり自由に動かせる。
いざ、空の世界へ!
草をかき分け、宙をかき分け、ワシの身体はまっすぐ突き進む。
ワシは知っていた。蜉蝣の身体は弱い。成虫になった今、この肉体はあと24時間で潰えるのだ。だから、早いうちにこの世界のあらゆる未知を体験したいのだ。
しかしこの身体を望んだのはワシ。全てが未知に包まれた異世界であろうと、もう先の長い人生は充分じゃ。
短い時間でどれだけの経験が出来るのか。それだけを考えて行動するのだ。
移動すればするほど、新しい物が見つかる。素晴らしい。
ワシが生まれた湖に浮かぶ植物。それすら、地球では見ることの出来ないものだった。
形も、臭いも、色すら、ワシは見たことがなかった。一歩踏み出すだけで、未知の広がった世界。
よく見てみると、ワシが浮いていた水面すら、地球とは違っていた。
若干粘り気のある水。色も、まったくの透明ではない。少し緑色だ。
この水はどんな性質があるのか、それをじっくり調べる余裕はない。しかし、その存在を知れただけで、今のワシには充分である。何故ならこれこそが、この世界に溢れる未知の証明だから。
少し高いところまで昇って辺りを見回してみると、植物だけでなく、動物までもが見たことのない存在であることが分かった。
足が六本ある生物がいる。目が二つではない生物がいる。犬のような外見なのに、鳥のような羽が生えた生物がいる。
ああ、なんということか。ワシの想像を遥かに超える未知の数々。それが、こんなにも沢山転がっているなんて。
飛行の休憩がてら空飛ぶ犬を観察していると、不意にワシの周りを大きな影が覆った。
ワシよりも遥かに高い空を飛ぶ生物。鳥だ、トンビだ。大空を舞い、虫を喰らう。ワシら蜉蝣の天敵とも言える生物。
おお、この姿で見ると、なんと勇ましきことか。昆虫などとは比べるべくもないほどの巨体。きっとこのままでは、一瞬ののちにワシは食われてしまうだろう。
死がこれほどまで近い存在になっている。日本ではこれほど身近に死を感じることはなかった。ばあさんが亡くなった時にワシも歳を感じたが、それでもまだ死が自分のすぐ隣にいるとは思わなかった。
だが、そう簡単に死んでやるものか。この身体はどうせ24時間後に潰える。せめてそれまでは、この未知の探求を続けていたいのだ。
ワシは休憩していた木の皮の隙間に隠れた。
蜉蝣はバッタやゴキブリのように翅をたためる構造はしていない。だがここで死ぬのはあってはならないことだ。
軋む翅を無理やり押し込む。
しばらく息を潜めていると、向こうは諦めてくれたらしい。熱心に木をつついていたが、プイと背を向けて帰っていった。
それを確認したワシは、新しい発見を得るべく飛び出した。
ああ、ぬかった。無理に翅をたたんで隠れたために、翅が折れ曲がって飛行能力が低下してしまった。
ワシは無力にも、木から地面に向かって落ちてしまう。
直後、周囲からバサバサと音がした。何かと複眼でそちらを見てみると、驚くことに、先程のトンビが木のてっぺんから降りてきていたのだ。
数秒もない、見事な早業であった。
ワシの身体は砕かれ、嘴に放り込まれ、そしてそのまま……。
夢だ、地球でワシが死ぬ直前に見た、夢だったのだ。そうとしか思えない。そうでなければ、ワシがここに来た意味が、ワシが彼に願った意味がない。
だからこれでいい。これは夢だと、そう思えばいい。そしてこの夢で見た未知の数々を、天にいるばあさんに、いつまでも語るのだ。
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