Dear〜親愛なる貴女へ〜

芋けんぴ

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第一章

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 雨が降っていた。
 土砂降りの雨だった。
 私はいつもの通り満員電車を降りた。

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 第一章
  蝉
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 ……いつもの電車を降りたはずだった。

 疲れ切った高校生や会社員でごった返しているはずのこの駅。たった今、私もその一人として下車したはずなのに。周りを見渡せば、他所行きの格好をした女性や、これから遊園地にでも行くのだろうか、麦わら帽子をかぶって飛び跳ねる幼い少年。帰宅ラッシュとは思えぬ人の種類に、私は誤って休日に家を出てきてしまったのかと錯覚した。しかし、確実に7時間授業をこなしてきたのだし、部活でみっちり3時間フルートを弾いた疲れが、私が今日をいつも通り懸命に過ごしたことを表していた。
 足元に重い衝撃を受ける。

 先程飛び跳ねていた少年が私にぶつかってきたらしい。その少年の母親らしき女性がベビーカーを前後に揺らしながら「すみませーん。」と遠くからゆったりした口調で謝ってきた。どうやらベビーカーの中の赤ん坊をあやしているらしい。謝る態度としてどうなのかと思ったが、子を育てる母親に高校生の身分の私が文句を言う筋合いもなく、私はただにこりと微笑んで返した。少年がぶつかった為に落とした帽子を拾い、砂を払って被せてやる。少年は帽子のゴムを首にかけ、丁度良い位置に頭を収めた後、感謝の言葉ひとつくれずに母親の元へ走って行った。蛙の子は蛙なんていう諺がふと頭に浮かんたが、それは直ぐに掻き消された。無愛想な少年への怒りが膨れる前に、ある異変に気が付いてしまったからだ。

 このホームには地元では有名な小さな時計台がある。常に8分先を指していて、ここを使い慣れない観光客が電車に乗り遅れたのかと焦るのをよく見かける。今、短い針は10を、長い針は大体4を指している。

 私は焦った。とうとう目がおかしくなったのかとゴシゴシ目を擦る。何度見ても変わらない。しかし私は今日、18時45分着の電車に乗ったはずだ。スマホのアプリで確認して乗ったから間違いない。だから、8分足して、時計は6時53分を指していなければならない。しかし今は10時20分を指している。私はホームで寝落ちでもしたのだろうか。

 空を見上げる。あんなに激しく降っていた雨は嘘のように消えて、青空が広がっていた。今年初めて聞く蝉の声がこだまする。先週買って貰った桜色のコートを着る私を、駅員が冷たい目で見る。悪寒がして、改札に向かう階段を駆け降りた。

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