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第一話 女渡世人
⑱仁吉親分は落ちぶれ果てていた
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久津川を渡って宿場に入ると懐かしい仁吉親分の家が見えて来た。表通りに面した、古くはあるが、良い木口だった。
土間に足を踏み入れたお倫は訪いを乞おうとして「おやっ」と思った。まるで人気が無い。
賑やかだった子分衆は何処へ行ったのだろうか。お倫は家内を覗く姿勢になった。気配を察したのか一人の痩せた老人が姿を現した。お倫は眼を疑った。胡麻塩頭の枯れ木のような老人だった、が、紛れも無く仁吉親分だった。
「親分さん、一年前にお世話になりました鳥追いの倫でございます。お懐かしゅう存じます」
一瞬、怪訝そうに見やったが、直ぐに思い出したか、「おうおう、あん時のお倫さんか、よく来てくれたなあ、さあさ、上がってくれ」とお倫を家内へ導き入れた。
「客人、すまねぇなあ・・・勘弁してくれ、以前と違って落ち目なんだ、ハハハ」
力なくそう言って供されたのは、焼き鰯と漬物に酒一本、それに白飯の乗った膳だった。
「親分さん、すまねぇなんて言わないで下さいまし。人間一代、浮き沈みは付いて回るもの、今日の日は曇ろうとも明日の朝はからりと晴れる、運は天下の回りものでございます」
一年前、草鞋を脱いだ頃とはうって変わり、老い枯れて無力になり、一言ずつの言葉にも落ち目の侘しさが出て来る仁吉親分に、お倫はそんな慰めの言葉を掛けたのだった。
「そう言ってくれるのは嬉しいが、運を使い切ったこの俺だ、もう花も咲かねぇし、実もならねぇだろう。いや、話が湿っぽくなって申し訳け無ぇ。さあ、ひとつ飲ってくれ」
「はい。それじゃ親分、有難く頂戴させて頂きます」
二口三口で飲み干した盃をお倫は膳の上に伏せた。
「客人、そりゃあいけねぇ、酒は未だ有るんだ」
「いえ、親分さん、倫は女子でございます、酒はそうそう嗜みません」
そうか、そうだったな、という表情で仁吉親分は眼を膝の上に落とした。
「親分さん、通りすがりの道すがら、耳に致したことでございますが、今、この近在で盛りの有るのは角力上がりの竜虎親分とか、一体全体何が有ったんでございますか?」
「いやあ、聞いてくれるか、客人。落ち目の俺に今を盛りの竜虎を悪し様に言える値打ちは無ぇが、俺はあいつに金で負けたんだ」
「えっ、金で負けたですって?」
「渡世人の縄張り争いに、ただの一度の喧嘩も無く、勝負がはっきり着いたのは金がモノを言ったんだ。地獄の沙汰も金次第、金という魔物の力に俺は負けたのさ」
諦めを含んだ言葉の一つ一つが湿って消えた。
「竜虎の奴は、代官手代の熊笹権兵衛と八州下役の近藤利造に袖の下を掴ませて抱き込みやがった。他にも何人かの役人が金で買われたが、主だったのはこの二人だった。俺は毎年夏になると田圃が干乾び、梅雨時分には川の水が溢れる近在の村を見て、今までの恩返し、裏渡世の罪滅ぼしにと、灌漑水路と用水貯めを目論んだんだ。ところが、これが表向きお上のご不興を買い、博徒が百姓と徒党を組んで不届き千万、何か下心が有る筈だと難癖をつけられて、俺は近藤利造に召し捕られた。三月の間、牢屋に繋がれている隙に竜虎が暴れ通して、縄張りを自分のものにしてしまいやがった」
「そうでしたか。ですが親分にも兄弟分や叔父甥の誼の衆も居られましたでしょうに」
「それがやくざの世界だぁな。どいつもこいつも皆、盛りの有る方に靡くもんだ。落ち目の人間にゃ見向きもしねぇ。おまけに金に転んで今じゃ竜虎に尻尾を振って居やがる」
「然し、代貸の鉄五郎さんはどうなさいましたんです?」
「あいつは可哀そうに俺の留守の間に竜虎に嵌められて、斬り刻まれて死んじまいやがった。いかさま賽をしたと濡れ衣を着せられて、な。あいつは初手から博打はしなかったんだ。俺は憂き世の運を使い切ってこのザマだが、あいつの仇をとるまでは死んでも死に切れねぇ」
この時ばかりは老いて萎れた仁吉親分の眼が鋭く光ってお倫の眼を刺した。
朝は味噌汁に炊き立ての白飯、仁吉親分が膳立てをするのをお倫が引取った。
「お倫さん、お前ぇさんは客人だ、手を出すもんじゃねぇよ」
「親分さん、そりゃいけません。膳立ては女子の仕事でございます」
「何を言うんでぇ。親分無しの子分無しだ、れっきとした貸元の家とは違うんだ」
「其方は違っても此方は女子、一向に変わりはございません」
土間の竈で焚いてくれた白飯と汁で、一人親分と鳥追いのお倫と、差し向かいの朝餉が終わった頃、陽の光が窓の障子を赤く染めた。
「それじゃ親分さん、これで・・・」
「草鞋銭はたったの百疋、済まねぇがこれで勘弁してくれ」
「はい、有難く頂戴致します」
「それじゃ客人、達者で居ねぇ」
「はい。親分さんもお気をお確かに」
先程、お倫が膳の上に伏せた茶碗の下へ、金三両を音もさせずに鮮やかに忍ばせた手際には気着かず、門口まで出た仁吉親分が顔を下げてお倫を送った。
朝の陽が往来を光と影に染め分けているその中を、お倫は穿き慣れた旅草鞋の足元を湿らせて歩いた。
今日も昨日と同じく良く晴れて、一所不在のお倫には打って付けの日和でありながら、お倫は足だけでなく心も渋って重苦しかった。
土間に足を踏み入れたお倫は訪いを乞おうとして「おやっ」と思った。まるで人気が無い。
賑やかだった子分衆は何処へ行ったのだろうか。お倫は家内を覗く姿勢になった。気配を察したのか一人の痩せた老人が姿を現した。お倫は眼を疑った。胡麻塩頭の枯れ木のような老人だった、が、紛れも無く仁吉親分だった。
「親分さん、一年前にお世話になりました鳥追いの倫でございます。お懐かしゅう存じます」
一瞬、怪訝そうに見やったが、直ぐに思い出したか、「おうおう、あん時のお倫さんか、よく来てくれたなあ、さあさ、上がってくれ」とお倫を家内へ導き入れた。
「客人、すまねぇなあ・・・勘弁してくれ、以前と違って落ち目なんだ、ハハハ」
力なくそう言って供されたのは、焼き鰯と漬物に酒一本、それに白飯の乗った膳だった。
「親分さん、すまねぇなんて言わないで下さいまし。人間一代、浮き沈みは付いて回るもの、今日の日は曇ろうとも明日の朝はからりと晴れる、運は天下の回りものでございます」
一年前、草鞋を脱いだ頃とはうって変わり、老い枯れて無力になり、一言ずつの言葉にも落ち目の侘しさが出て来る仁吉親分に、お倫はそんな慰めの言葉を掛けたのだった。
「そう言ってくれるのは嬉しいが、運を使い切ったこの俺だ、もう花も咲かねぇし、実もならねぇだろう。いや、話が湿っぽくなって申し訳け無ぇ。さあ、ひとつ飲ってくれ」
「はい。それじゃ親分、有難く頂戴させて頂きます」
二口三口で飲み干した盃をお倫は膳の上に伏せた。
「客人、そりゃあいけねぇ、酒は未だ有るんだ」
「いえ、親分さん、倫は女子でございます、酒はそうそう嗜みません」
そうか、そうだったな、という表情で仁吉親分は眼を膝の上に落とした。
「親分さん、通りすがりの道すがら、耳に致したことでございますが、今、この近在で盛りの有るのは角力上がりの竜虎親分とか、一体全体何が有ったんでございますか?」
「いやあ、聞いてくれるか、客人。落ち目の俺に今を盛りの竜虎を悪し様に言える値打ちは無ぇが、俺はあいつに金で負けたんだ」
「えっ、金で負けたですって?」
「渡世人の縄張り争いに、ただの一度の喧嘩も無く、勝負がはっきり着いたのは金がモノを言ったんだ。地獄の沙汰も金次第、金という魔物の力に俺は負けたのさ」
諦めを含んだ言葉の一つ一つが湿って消えた。
「竜虎の奴は、代官手代の熊笹権兵衛と八州下役の近藤利造に袖の下を掴ませて抱き込みやがった。他にも何人かの役人が金で買われたが、主だったのはこの二人だった。俺は毎年夏になると田圃が干乾び、梅雨時分には川の水が溢れる近在の村を見て、今までの恩返し、裏渡世の罪滅ぼしにと、灌漑水路と用水貯めを目論んだんだ。ところが、これが表向きお上のご不興を買い、博徒が百姓と徒党を組んで不届き千万、何か下心が有る筈だと難癖をつけられて、俺は近藤利造に召し捕られた。三月の間、牢屋に繋がれている隙に竜虎が暴れ通して、縄張りを自分のものにしてしまいやがった」
「そうでしたか。ですが親分にも兄弟分や叔父甥の誼の衆も居られましたでしょうに」
「それがやくざの世界だぁな。どいつもこいつも皆、盛りの有る方に靡くもんだ。落ち目の人間にゃ見向きもしねぇ。おまけに金に転んで今じゃ竜虎に尻尾を振って居やがる」
「然し、代貸の鉄五郎さんはどうなさいましたんです?」
「あいつは可哀そうに俺の留守の間に竜虎に嵌められて、斬り刻まれて死んじまいやがった。いかさま賽をしたと濡れ衣を着せられて、な。あいつは初手から博打はしなかったんだ。俺は憂き世の運を使い切ってこのザマだが、あいつの仇をとるまでは死んでも死に切れねぇ」
この時ばかりは老いて萎れた仁吉親分の眼が鋭く光ってお倫の眼を刺した。
朝は味噌汁に炊き立ての白飯、仁吉親分が膳立てをするのをお倫が引取った。
「お倫さん、お前ぇさんは客人だ、手を出すもんじゃねぇよ」
「親分さん、そりゃいけません。膳立ては女子の仕事でございます」
「何を言うんでぇ。親分無しの子分無しだ、れっきとした貸元の家とは違うんだ」
「其方は違っても此方は女子、一向に変わりはございません」
土間の竈で焚いてくれた白飯と汁で、一人親分と鳥追いのお倫と、差し向かいの朝餉が終わった頃、陽の光が窓の障子を赤く染めた。
「それじゃ親分さん、これで・・・」
「草鞋銭はたったの百疋、済まねぇがこれで勘弁してくれ」
「はい、有難く頂戴致します」
「それじゃ客人、達者で居ねぇ」
「はい。親分さんもお気をお確かに」
先程、お倫が膳の上に伏せた茶碗の下へ、金三両を音もさせずに鮮やかに忍ばせた手際には気着かず、門口まで出た仁吉親分が顔を下げてお倫を送った。
朝の陽が往来を光と影に染め分けているその中を、お倫は穿き慣れた旅草鞋の足元を湿らせて歩いた。
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