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第2話 冬の木洩れ陽
⑥「男と女の人生って、色々あるのね」
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裕次はベッドの中からぼんやりと窓に映る陽の光を眺めていた。腹が空いていたが、起き上がって飯の支度をするのも面倒で、ただじっと横たわっていた。
橋の袂で蹲って警察に連れて行かれてから既に一週間である。だが、働く気にはなれなかった。こんなことをしていちゃいけない、と思いはしているが、働いて何になる、という気もしていた。裕次は毎日ベッドの中でゴロゴロしていた。
不意に、入り口のドアがノックされた。放っておこうかと思ったが、ノックはもう一度繰り返されたので、止む無く裕次は立ち上がってドアの覗き穴に眼を宛てた。真知子だった。裕次は慌ててドアを開けた。現れたパジャマ姿の裕次を見て真知子は眉を顰めた。
「あら、未だ寝ているの!」
「いや、今、起きるよ。中に入ってちょっと待って居て下さい」
真知子をリビングのソファーに座らせておいて、裕次は寝室に戻り直ぐに着替えた。
出て来て真知子の隣に腰掛けた裕次が早速に詫びた。
「済みません、こんなところまで来て貰って」
「ううん、良いの。用事があって出て来たのだけど、どうしているのか気になって、寄ってみたのよ」
閉め切ったマンションの小さな部屋で真知子と二人きりで居るのは気詰まりと思った裕次は彼女を外へ誘った。
街は冬の薄い日差しに照らされていた。
「何処へ行って来たんですか?」
「恵比寿神社へお参りに。他に用事があって行ったんだけどね」
「あんな遠い所まで行ったんですか?駄目じゃないですか、無理しちゃ!」
裕次は驚いて、思わず叱る口調で言った。
「大丈夫よ。最近は動いていても疲れなくなったし、医者からも、少しは外に出なさい、って言われているんだから」
「そう言えば、以前より少し元気そうに見えますね」
言いながら、裕次は真知子を眺めた。彼女は頬がふっくらとし、血色も良くなっているようだった。白い首が陽を弾くように光って真知子は艶めかしく見えた。
「病気が良くなったら、日本橋の家に帰る訳ですね」
そう言った時、裕次は胸の中をふっと風が通り過ぎたような気がした。昔、真知子が結婚すると決まった時に感じたあの気分に似ていた。
すると真知子が振り向いて微笑しながら言った。
「それが、帰らないことに決めたの」
「何ですか、それ。どういう意味ですか?」
「上手く行っていなかったの、主人とは」
「へ~え」
「それに、舅や姑ともぎくしゃくしていたし、向うでも帰って来て欲しいなんて思っていないわ。そういう事情があったから、だから病気になったのよ、きっと。その証拠に別れようと決めた途端にめきめき元気になったもの」
「それはちょっと酷い言い方だな」
裕次は笑った。
橋を渡ると左手の川畔に喫茶店が在った。
「お茶でも飲んでいきませんか」
断わられるかな、と思ったが、真知子は黙って裕次に従いて店に入った。
店には暖房が程良く効いていて直ぐに身体が温まった。
「恵比寿神社の直ぐ近くに父が昵懇にしている和装小物店があるの。身体がしっかりして来たら其処で働かせて貰おうと思っているんだけど、その話でさっき行って来たのよ」
「偉いな、それは」
真知子は一つずつ決着をつけて生きている、と裕次は思った。
「別に偉いことも無いけど、今の家にはいずれ弟が帰って来て後を継ぐだろうから、自分のことは自分で始末をつけないとね」
真知子の弟は父親の同業者に預かって貰って、簪創りを修行していた。
真知子は顔を上げて裕次をじっと見た。
「私のことより、あなたの方はどうなの?」
「・・・・・」
「未だ働く気にはなれないの?」
真知子は小声で言った。
「父も、黙っているけど、心配しているわ」
「何だか張り合いが無くなっちゃって」
「そうでしょうね。その気持はよく解るわ」
「いや、もう一寸なんだが・・・」
裕次はこうして真知子と話していると、真実にもう少しで自分を取り戻せそうな気がして来るのだった。
裕次は、早く真知子のようにやり直さなきゃあな、それが生きるということだな、と思った。
不意に真知子が、テーブルの上に置かれた裕次の手に自分の掌を重ねた。
「元気出してね。あまり心配させないで」
裕次は眼の裏が熱くなった。黙って真知子の手の上に自分のもう一方の手を重ねた。そうしていると、別の新しい生き方が少しずつ見えて来るような気がした。真知子がそっと手を引こうとした時、裕次が言った。
「もう少し、此の侭にしていてくれないか」
「・・・・・」
「こうしていると何だか元気が出て来る」
「変な人ね。病人なんか頼りにしてさ」
真知子が小さな笑い声を立てた。
裕次の胸に、初めて真知子と話した夜のことが彷彿と浮かんでいた。
あれは「亀甲堂」に入った最初の日だった。
緊張しまくった一日が終わって、心身ともに疲れ切った裕次が店の勝手口に出て行くと、其処に真知子が待って居た。
「今から、直ぐ近くに在る其処の神社へお参りに行くけど、一緒に従いて来てくれる?」
「あっ、はい、解りました」
連れて行かれたのは「亀甲堂」の氏神神社だった。
「早く立派な一人前の簪師になるのよ」
そう言った真知子は、お賽銭を投げ、柏手を打って、長い間、頭を垂れて裕次のことを祈願した。裕次が頭を上げても未だ真知子は願い続けてくれていた。裕次は慌ててもう一度、頭を垂れたのだった。それが十八歳の裕次と大学二年生の十九歳の真知子の初めての出逢いだった。
今、真知子の優しさが裕次の胸に沁み通るようだった。裕次は俯いて涙を溢した。どじな男が慰められている、と思った。
「男と女の人生って、いろいろあるのね」
真知子が囁くようにそう言って、そっと手を引いた。
橋の袂で蹲って警察に連れて行かれてから既に一週間である。だが、働く気にはなれなかった。こんなことをしていちゃいけない、と思いはしているが、働いて何になる、という気もしていた。裕次は毎日ベッドの中でゴロゴロしていた。
不意に、入り口のドアがノックされた。放っておこうかと思ったが、ノックはもう一度繰り返されたので、止む無く裕次は立ち上がってドアの覗き穴に眼を宛てた。真知子だった。裕次は慌ててドアを開けた。現れたパジャマ姿の裕次を見て真知子は眉を顰めた。
「あら、未だ寝ているの!」
「いや、今、起きるよ。中に入ってちょっと待って居て下さい」
真知子をリビングのソファーに座らせておいて、裕次は寝室に戻り直ぐに着替えた。
出て来て真知子の隣に腰掛けた裕次が早速に詫びた。
「済みません、こんなところまで来て貰って」
「ううん、良いの。用事があって出て来たのだけど、どうしているのか気になって、寄ってみたのよ」
閉め切ったマンションの小さな部屋で真知子と二人きりで居るのは気詰まりと思った裕次は彼女を外へ誘った。
街は冬の薄い日差しに照らされていた。
「何処へ行って来たんですか?」
「恵比寿神社へお参りに。他に用事があって行ったんだけどね」
「あんな遠い所まで行ったんですか?駄目じゃないですか、無理しちゃ!」
裕次は驚いて、思わず叱る口調で言った。
「大丈夫よ。最近は動いていても疲れなくなったし、医者からも、少しは外に出なさい、って言われているんだから」
「そう言えば、以前より少し元気そうに見えますね」
言いながら、裕次は真知子を眺めた。彼女は頬がふっくらとし、血色も良くなっているようだった。白い首が陽を弾くように光って真知子は艶めかしく見えた。
「病気が良くなったら、日本橋の家に帰る訳ですね」
そう言った時、裕次は胸の中をふっと風が通り過ぎたような気がした。昔、真知子が結婚すると決まった時に感じたあの気分に似ていた。
すると真知子が振り向いて微笑しながら言った。
「それが、帰らないことに決めたの」
「何ですか、それ。どういう意味ですか?」
「上手く行っていなかったの、主人とは」
「へ~え」
「それに、舅や姑ともぎくしゃくしていたし、向うでも帰って来て欲しいなんて思っていないわ。そういう事情があったから、だから病気になったのよ、きっと。その証拠に別れようと決めた途端にめきめき元気になったもの」
「それはちょっと酷い言い方だな」
裕次は笑った。
橋を渡ると左手の川畔に喫茶店が在った。
「お茶でも飲んでいきませんか」
断わられるかな、と思ったが、真知子は黙って裕次に従いて店に入った。
店には暖房が程良く効いていて直ぐに身体が温まった。
「恵比寿神社の直ぐ近くに父が昵懇にしている和装小物店があるの。身体がしっかりして来たら其処で働かせて貰おうと思っているんだけど、その話でさっき行って来たのよ」
「偉いな、それは」
真知子は一つずつ決着をつけて生きている、と裕次は思った。
「別に偉いことも無いけど、今の家にはいずれ弟が帰って来て後を継ぐだろうから、自分のことは自分で始末をつけないとね」
真知子の弟は父親の同業者に預かって貰って、簪創りを修行していた。
真知子は顔を上げて裕次をじっと見た。
「私のことより、あなたの方はどうなの?」
「・・・・・」
「未だ働く気にはなれないの?」
真知子は小声で言った。
「父も、黙っているけど、心配しているわ」
「何だか張り合いが無くなっちゃって」
「そうでしょうね。その気持はよく解るわ」
「いや、もう一寸なんだが・・・」
裕次はこうして真知子と話していると、真実にもう少しで自分を取り戻せそうな気がして来るのだった。
裕次は、早く真知子のようにやり直さなきゃあな、それが生きるということだな、と思った。
不意に真知子が、テーブルの上に置かれた裕次の手に自分の掌を重ねた。
「元気出してね。あまり心配させないで」
裕次は眼の裏が熱くなった。黙って真知子の手の上に自分のもう一方の手を重ねた。そうしていると、別の新しい生き方が少しずつ見えて来るような気がした。真知子がそっと手を引こうとした時、裕次が言った。
「もう少し、此の侭にしていてくれないか」
「・・・・・」
「こうしていると何だか元気が出て来る」
「変な人ね。病人なんか頼りにしてさ」
真知子が小さな笑い声を立てた。
裕次の胸に、初めて真知子と話した夜のことが彷彿と浮かんでいた。
あれは「亀甲堂」に入った最初の日だった。
緊張しまくった一日が終わって、心身ともに疲れ切った裕次が店の勝手口に出て行くと、其処に真知子が待って居た。
「今から、直ぐ近くに在る其処の神社へお参りに行くけど、一緒に従いて来てくれる?」
「あっ、はい、解りました」
連れて行かれたのは「亀甲堂」の氏神神社だった。
「早く立派な一人前の簪師になるのよ」
そう言った真知子は、お賽銭を投げ、柏手を打って、長い間、頭を垂れて裕次のことを祈願した。裕次が頭を上げても未だ真知子は願い続けてくれていた。裕次は慌ててもう一度、頭を垂れたのだった。それが十八歳の裕次と大学二年生の十九歳の真知子の初めての出逢いだった。
今、真知子の優しさが裕次の胸に沁み通るようだった。裕次は俯いて涙を溢した。どじな男が慰められている、と思った。
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真知子が囁くようにそう言って、そっと手を引いた。
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