人生の時の瞬

相良武有

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第6話 忍ぶ恋

④清水の出獄を優子が出迎えた

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 九月の中旬を過ぎても日射しは一向に衰えず、残暑は厳しかった。
今日は清水が出獄する日であった。父や母、それに兄妹達には、来るな、と言ってあった。 
清水は中年の職員に見送られて刑務所の裏門を潜り出た。半年振りの塀の外は暑かった。
扉を閉めて中へ消えて行く職員の背中に向かって軽くお辞儀をした清水は、塀沿いの道をゆっくりと歩き始めた。身の回り品を入れたバッグがひどく重く感じられた。
 ふと視線を上げた清水の眼に、塀際にある大木の下に立って日射しを避け、此方を見ている女性の姿が見て取れた。西日が容赦なく木の下まで射し込んで、女性は手にしたハンカチで何度も額を拭っていた。瀬戸優子だった。
ベージュのブラウスに黒のタイトスカート、ミニの裾からすらりと伸びた白い足は照りつける太陽よりも眩しかった。
良く動く黒い瞳にツンと先の尖った鼻、小さな口元、相変わらず優しく美しかったが、ふっくらとした頬が少しやつれたようだった。
 近づいた清水を優子は真直ぐに凝視した。
「お帰りなさい。長い間・・・」
そこまで言って後は言葉にならなかった。大きな黒い瞳に見る間に涙が溢れ出し、優子は清水にしがみ付いて来た。
清水は吃驚した。戸惑ってどぎまぎした。が、ゆっくり優子の背に手を廻して優しく擦った。

 清水が刑務所に入って居る間、優子はほぼ半月に一度ほど面会に訪れて、書物や衣類等を差し入れた。大学卒業以来、何年振りかで読書の機会をじっくり持てて、清水は心から感謝したし、又、独身の若い女が男物の肌着や下着類を衣料品店で買う気恥ずかしさを思いやって優子の優しさが心に沁みた。清水の所へ面会に来ることが会社の同僚に知れ渡って噂話や中傷の対象にされ非難の眼に曝されているであろうに、毎月欠かさず訪ねて来る優子の健気さが清水には堪らなく愛しかった。
「清水さん、頑張って下さいね。あなたが世間から後ろ指を指される悪いことをした訳じゃありませんからね。不可抗力みたいなものだったのですからね」
優子は何時もそう言って清水を励ました。
 二人は仕事のパートナーとして支え合い助け合って、偶には食事を共にするフランクで親密な間柄であったし、刑務所に入ってからは優子の優しさと思いやりに随分と救われもした、が然し、自分の立場を考えれば優子にこれ以上甘えていることは許されない、と清水は思った。
「なあ瀬戸。もう来なくて良いよ。此処は君の来る所じゃない。前科者の俺と何時までも繋がっていると、世間から白い目で見られるぞ。来てくれるのは嬉しいが、でも、もう来なくて良いから」
だが、優子は半月に一度の面会を欠かさなかった。
「わたし、清水さんを信じていますから。わたし、あなたを待っていますから。あなたの出て来るのを待っていますから」
そう言って優子はやさしく微笑って帰って行った。

 一泣きして涙を拭った優子は清水をゆっくり見上げた。
「立ち話も何ですから、何処かその辺のお店で、冷たい物でも飲みながら話しましょうか」
そう言って優子は持っていた日傘を清水に差しかけた。
 入ったティー・カフェは冷房が効いて涼しかった。
運ばれて来たクリームパフェとアイスコーヒーを口にして、二人はホッと一息ついた。
清水は改めて優子に言った。
「もう俺には関わるな。君が何と言おうと俺は前科者だ。こんな俺と関わっていると世間から後ろ指を指されることになる。な、だからもう俺のことは構ってくれるな」
優子は暫く清水の顔をまじまじと見ていたが、きっと眦を挙げて、言った。
「私のこと、そんな風な女にしか見ていなかったのですか?私の思いはその程度の軽さでしか清水さんには見えていなかったのですか?」
「・・・・・」
「それなら物凄く悔しいです」
優子は大粒の涙を拭いもせず尚、清水の顔を凝視した。
 清水は心の中で思っていた。
俺はこの先どうなるか解からない。安全地帯の此方側で平穏な家庭を持つことは不可能かもしれない。もう優子とは別の世界の人間だ。優子の優しさや思いやりや愛情を当てにして生きて行くような、柔な生き方をしてはいけないのだ・・・
「・・・・・」
 やがて優子は、悲嘆に沈んだ表情を浮かべハンカチで口元を押さえ乍ら、店を出て行った。
視線を上げて優子の後姿を見送った清水の胸を、優子の不在が鋭く締め付けた。営業部のアシスタント時代から刑務所に入っている間もずうっと自分を励まし支えてくれた健気な優子への愛しさが今更ながらに心の底から募って来た。
優子の去った窓の向こうの道には、やや赤みを帯びた日射しが未だ照り付けていた。
 それにしても・・・考えてみれば俺も馬鹿だよな、と清水は思った。
もう随分長い間、振るうことなど微塵も考えなかったあのパンチを、幾ら仕事でむしゃくしゃしていたとは言え、事もあろうに酔っぱらい相手に振るうなんて・・・神聖なリングを降りた俺が、酒場で酔客相手にパンチを繰り出すなんて、真実に、馬鹿だよな・・・
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