翻る社旗の下で

相良武有

文字の大きさ
上 下
27 / 56
第三章 無念

第30話 沢木は営業のエース的存在だった 

しおりを挟む
 入社後十八年経って四十歳になった沢木は、営業畑を一筋に歩んで来て、関東事業部東京支店営業第一課の課長として業務の中心的役割を担う中枢に居た。そのポジションとこれまでの営業実績から、沢木は将に営業のエース的存在だった。今日も得意先を精力的に廻って何件かの注文を獲得して帰って来たばかりだった。
「支店長が、課長が戻ったら直ぐ支店長室へ来るように、と仰っていました」
アシスタントの藤野道子が、沢木が上着を脱ぐか脱がない内にそう告げた。
「そうか」
椅子の背凭れに掛けかけた上着に再び腕を通して、沢木は支店長室へ向かった。歩く途中の廊下でボタンがきちんと掛かっているかを確認した。
「只今帰りました。遅くなりまして申し訳ありません。何かご用がお有りだとか・・・」
「ああ、ご苦労さん。まあ掛け給え」
支店長はそう言ってデスクの前の応接セットに沢木を誘った。
「話というのは他でもないんだが、㈱正昭工業との新規取引を直ぐに開始する活動を始めて貰いたいんだ。東証一部上場の㈱正昭との取引は当社の積年の課題、否、夢だったのだからな。それに、この話を具体的に前へ進められるのは君以外には居ない、善は急げ、だ。明日と言わず今日からでも早速に動いてくれ給えよ」
「そうですか、解りました。早速に信用調査を開始します」
「そんなものは必要無いよ。相手は一部上場の有名大手企業だ。取引を開始する行動が先決だ。良いな」
「ですが、信用調査だけは併行して・・・」
「くどい!そんなことをしている間に他社に先を越されたらどうするんだ!ウチが目論んでいるのは㈱正昭の新商品発売なんだ。それに、この話は部長と資材部長が原料メーカーを取り込んでお決めになったことだ。後は行動有るのみだ、解ったな」
それでも、公表されている決算書を見てから、と言いかけた沢木を制して支店長が言った。
「大丈夫だ。責任は全て僕が取るから」
「承知しました。では、早速に」
席に戻った沢木はアシスタントの藤野に、公表されている㈱正昭工業の決算書をコピーさせ、それを稟議書に添付して支店次長経由で支店長に提出した。
 支店長が言ったように㈱正昭工業との取引は沢木が按じたほどの問題も無くスムーズに進展した。早速にその月度から取引が開始され、月商は二千万円から三千万円ほどになったし、決済は九十日手形での支払ということで特段問題視することはなかった。
㈱正昭工業との取引が新たに加わったことで営業第一課の売上実績は飛躍的に伸びて、二ヵ月後には東京支店は営業部全体の最優秀支店賞を受賞した。支店長を初め支店全体が盛り上がって活気付いた。
 
 だが、沢木は取引がスムーズに行き過ぎたことに一抹の不安と腑に落ちない思いを胸に抱いていた。沢木は、念の為に、契約調査会社に(株)正昭工業の信用調査を依頼した。嘗て、札幌支店に居た若い頃に、信用調査をかけずに取引を開始した新規顧客が呆気無く倒産して、二千万円余りの引っ掛かりに会った苦い経験が沢木には有った。取引を主導した担当課長は減俸と譴責の処分を受けて函館の営業所に転勤となった。
 沢木は(株)正昭工業との取引には突っ走りはしなかった。値下げ要求には応じなかったし注文の増量は丁重にお断りした。同業他社が突っ込んで行っても慎重に現状維持を目論んだ。
 一見超大手の優良企業に見えた(株)正昭工業の財務体質は脆弱だった。否、寧ろ一つ間違えば倒産の危険性さえ孕んでいるように沢木には思えた。
借入金の健全度が著しく低く、資金繰りが苦しくて負債が自己資本の十倍近くに及び、経営は危険な状態にある。売上高の伸びは、名目経済成長率以下で会社の継続的成長発展は望めない。その上、定期預金、有価証券、土地、建物等の担保力は弱く資金調達力は脆弱である。これらを総合的に勘案して沢木は(株)正昭工業を他人依存型の経営と判定した。それは借入金過大で景気任せの成り行き経営を行い、景気が良ければ利益が出るが景気が悪ければ赤字に陥ってしまう外部要因任せの経営で、自主性に欠け、銀行や商社への依存度が高い赤字会社だった。自己資本を食い潰して債務超過に陥る危険性が十分に有ると診て取れた。
 
 沢木は早速にこれらの見解を支店長に話した。
が、沢木の思いに反して支店長は意外な反応を示した。
「誰がそんな余計なことをしろと命じた?そんなものは単なるデータに過ぎんだろうが・・・それも極く一部のものだろう。そんなもので取引を云々する根拠にはならんよ」
「然し、支店長、このデータは何処から診ても(株)正昭工業が危険な状態であることを示していますよ。ですから・・・」
「もう良い。君が何と言おうと僕はそんなものは信じないからね。そんなことよりももっと売上を増やすことを考え給え。いいね」
 沢木は営業部長に直訴すべきか迷った。
数万人の社員が居る大企業では直訴はご法度である。そんなことを許せば下剋上が起こったり派閥争いが生じたりして統制が乱れ、組織は瓦解して成り立たなくなってしまう。
だが、沢木は黙って見過ごす訳には行かないと思った。相手は国内有数の大企業であり、取引高も軽視出来ない額だった。もしものことが有れば会社全体とまでは言わなくとも事業部としては大きな痛手を被ることになるだろう。
 支店長に内密で部長に直接訴えることに後ろめたさと躊躇いを感じ乍ら、沢木は部長室のドアをノックした。
「入り給え」
独りで部屋に入った沢木の顔を見て部長は訝しげな表情を覗かせた。
「ああ、君か・・・どうした?何かあったのか?」
「はい、少しお話しして置きたいことが・・・」
差し出された資料に眼を通しながら部長は、ふん、ふん、と頷きつつ沢木の話に耳を傾けた。
「よく解った。で、この件は支店長には話したのか?」
「はい、一通りは」
「そうか、よし、この件は僕が預かっておく。良いね」
然し、その後、部長からも支店長からも何の音沙汰も無かった。沢木は、部長は暫く様子を見ようとしているのか、と思った。
沢木は部下に指示して(株)正昭工業との取引を増やさなかった。否、寧ろ減らす方向に導いて行った。怪訝な顔をする部下には丁寧に内容を説明した。
 事態は何事も無く推移するように見えたが、二年後に(株)正昭工業はあっけなく倒産してしまった。沢木は、興信所の信用調査と自分の分析結果を信じなかった上層部の招いた不始末だと悔しがった。東京支店の引っ掛かりは、回収手形の三か月分が不渡りとなって、五千万円ほどの金額になった。
しおりを挟む

処理中です...