普通男子と天才少女の物語

鈴懸 嶺

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青い二つの瞳

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『ウィリス未惟奈、空手引退!!』

 今年の春、スポーツ界に走った衝撃ニュース。

 いや”衝撃”というのはいささか大げさか。

 むしろ空手界にいる人間にとっては、こうなることは誰もが既に想像していた。

 ウィリス未惟奈が神童「有栖天牙」を失神KOしたのが去年の夏。

 その一ヶ月後、ウィリス未惟奈は「全日本女子空手」の頂点に立つ。

 それはそうだろう。すでに有栖天牙をKOさせる実力がある未惟奈にとって女子全日本の頂点に立つことなんて造作もない。

 大会にしたって、未惟奈と対戦する相手は、有栖の失神シーンを知っている訳だからはなから及び腰で逃げ回るだけ。とても試合とは言えない寒々しい茶番でしかなかった。

 そして、たった二ヶ月後には未惟奈とまともに戦える選手はいなくなっていた。

 いや最初からいなかった可能性もあるな。悲しいけど。

「もうこんな遊びに付き合っている暇はない」

 その結論に未惟奈が辿りつくのは当然の帰結と言えた。

 ”だったら最初からやるなよ”

 これが空手界にいる人間のおおよその意見だった。

 はっきり言って負け犬の遠吠えでしかないが、無理もない。

 ウィリス未惟奈に失墜させられた空手界のダメージはそれ程、深刻だった。


 俺はこのウィリス未惟奈との対戦を二つ返事でOKした。

 まあ”対戦”と呼べるものかどうかは微妙だが、半年前の有栖とのエキシビジョンマッチのようなガチ勝負になる可能性も充分ある。

 吉野竜馬先輩と空手部メンバーがこの対戦を全力で回避したのは言うまでもない。有栖を秒殺するウィリス未惟奈に同じ目にあわされるという肉体的恐怖が一つ。

 それと彼らにすれば想いの違いはあれ、みな空手が好きで自分が空手を学んでいることにプライドを持っている。人によっては空手自体が自分のアイデンティティーとまで思いこんでいるヤツだっている。

 そのプライド、アイデンティティーまでウィリス未惟奈に完膚なきまで潰されるという心理的ダメージをこそ彼らがもっとも怖れたことだと思う。

 ではなんで俺は引き受けたのか?

 俺にとって空手は人生の全てと言っていい。

 物心ついてからずっと空手というのものが俺の生活からない日はなかった。

 そう言った意味では俺以上に空手がアイデンティティーのど真ん中にある人間はそうそういないという自負はある。

 だったら他の空手メンバー同様にそれが壊される恐怖は感じないのか?

 俺は不思議とそれは感じなかった。

「それ位で壊される程、空手とやわな関わり方をしていない」

 ということだ。

 たとえウィリス未惟奈に失神させられようと、俺から空手を奪いとることはもはや不可能と言うこと。

 平手く言えば空手イコール命みないなものなので、死ななきゃ、そんな精神的ダメージなんてかすり傷に過ぎないということだ。


 こんな相手と対戦できるなんて俺の空手人生を通じてもそうそうあるものではないだろうから。だから俺にとっては貴重な経験をつめる”いち場面”に過ぎないのだ。



 だからこそ……

 体育館の壇上に上がった時の、あまりの”お遊び企画感”にはゲンナリしてしまった。

 相手は制服姿で登場。プロテクターすら用意していない。

「空手の試合をする」という場面にすらなっていない。

 俺になりに「貴重な体験」と思っていたが、それすらならないなら俺はただの道化ではないか。

 俺の苛立ちの理由はこれだ。

 やっぱり安易に引き受けるべきではなかったと少しだけ後悔した。

 しかし、少しだけ希望はある。

 俺以上にウンザリ感を出しているウィリス未惟奈の放つ威圧感だ。

 これはおそらく天才アスリートのDNAを本能的に、俺が感じとっているからこその反応だと想像した。

 彼女の僅かな所作から俺の肉体は”こいつはヤバイ”ということを感じとった。

 こんな経験は今までにしたことはない。

 残念ながらやはりここまでのDNAを持った人材は空手界には存在しない。

 だったら、やる価値はある。



「さあ!みなさん!お待ちかね!ご存じ天才アスリートの血を引く天才少女”ウィリス未惟奈”と、我が高校空手部のエース”神沼翔”との対戦を始めたいと思います!」

 マイクを持った空手部主将の吉野竜馬が声高らかに宣言した。

 おいおい!誰が空手部のエースだって?

 おれ、新入生!

 しかも空手部じゃないから!!

 まったく、あんなに泣きそうな顔で頼んでおいて、自分がこの役を逃れたらこれだよ、全く。

 体育館の全生徒から割れんばかりの歓声が上がった。


 さて、いよいよだ。

 相変わらず、未惟奈は不貞腐れた表情を崩さずやる気なく立っている。

 俺に目を合わすことすらしない。

 まあ、そうだろうな。

 ”こんな茶番さっさと終わらせたい”

 きっとそう思っているのだろう。


「お互いに!礼!」

 吉野先輩の声が響いた。

 初めて未惟奈が俺の顔を見て軽く頭を下げた。

 俺は形式的でもきちんと深く頭を下げた。


「構えて!!」

 未惟奈は軽く半身に身体を回したがことさら構えることはなかった。

 俺はいつもそうするよう、スタンスを広めにしてやや低めに構えた。



「始め!」


 吉野先輩の声がしてから、後から思い出しても俺が記憶している場面は一つしかない。

 ”始め”の声がまだ耳に残っているタイミングで、二つの綺麗な青い瞳がすでに目の前に迫っていた。

 俺は未惟奈が瞬間移動したかと真面目に思ってしまった。

 しかも俺とその綺麗な瞳との距離は蹴りの距離でもパンチの距離でもなかった。

 ただただ近かった。

 俺の空手人生でもここまで近い距離で攻防した経験はない。だから一瞬では何が起きているか理解できなかった。

 ただ……辛うじてその青い瞳のすぐ隣から、猛烈なスピードで”つま先”が伸びてくるのが目に入った。


 俺が記憶している映像はここまでだ。

 その直後。


 一つの肉体が体育館の壇上から転がり落ちた。
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