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SAKISAKA37~笑顔~

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 向坂君からの着信は、私が午前中の講義を終えた直ぐのタイミングだった。

「義人が……死んじゃう!!」

 彼女は電話口で、半狂乱になって私に伝えてきた。



 私は闇の恐さを侮ったことなど一度もない。

 もちろん向坂君に憑りついていた闇についても細心の注意で対応したつもりだ。

 しかし……そんな私が今回ばかりは、痛恨のミスを冒した。


 向坂君が抱える「闇」の最後の抵抗。

 それに巻き込まれる可能性があるのは彼女に最も近しい男性……

 考えるまでもない。

 櫻井だ。



 櫻井は……私が今まで指導したどの学生よりも優秀だった。

 私は普段、無理して会話の質を下げている。そうでもしなければ、ほとんどの人間は私と普通のコミュニケーションをとる事はできない。

 ただ櫻井は……私が会話の質を落とさずとも、普通にコミュニケーションをとることが出来る稀有な生徒だった。

 私は彼には直接答えを与えず、自分で考させて……自分で答えにたどり着けるようなやり方をとった。櫻井は戸惑い、苦悩しながらも……私のそんな乱暴なやり方に食らいついて来た。

 ”櫻井なら多くを語る必要はないだろう”

 そう私は判断した。

 向坂君の闇の件に早くから関わっていた櫻井にとって……”自分が最も危ない”なんてことは当然理解していると思っていた。

 だから、あえてそのことを櫻井当人には伝えなかった。

 櫻井には”櫻井以外の”近しい男性の影があるかだけを警戒させた。

   私としたことが ……そこを見誤った……



 向坂君は、なぜか救急車を呼ぶ前に私に連絡をしてきた。

 向坂君は聡明な女性だ。

 ただ動転して前後不覚になってそんな行動をとった訳ではないのだろう。

 彼女はすでに悟っていた。

 ”もう櫻井は助からないかもしれない”ということに。

 だからもう医学的な治療は意味をなさない……それ以外の可能性しか櫻井には残されていないということを、それを決して認めたくないはずの向坂君が……残酷なまでに悟ってしまっていた。

 だから私に連絡をした。

 私なら何とかできるのではないか?……そう思ったのだろう。


 …… …… ……

 櫻井が搬送されたのは、都内にある大学病院の高度救命センターだ。私が病院へ着くと……向坂君が病院廊下の長椅子に座り……放心していた。

 私は一言、彼女に声をかけたが……私の声が耳に入らないかのように遠くを見つめたまま……ただただ止まることのない涙を流していた。

 彼女の隣には見栄えのいい男性が寄り添っていた。

 そうか……

 櫻井は彼と間違えたのか……

 彼は強い自我が形成された大人の男だ。そう……まだ学生である櫻井とは違う。だからこそ櫻井が闇に狙われたのだ。


 私は彼が運び込まれた集中治療室に向かった。

 櫻井は広いオープンフロアーの角にある……一番目立たないベッドにいた。

 この場所の意味するところ。

 それは他の患者と、その患者を見舞いに来る家族の目に触れない場所……

 つまり……


 私は櫻井の横たわるベッドサイドまで来て悟った。

 彼の見開かれてしまった目には……もう何も映っていない。もう生気はなく……その姿はもう人形のようにも見えた。

 ”死相”……まさに櫻井の顔は、すでに人格ある人間の表情を読み取ることは全くできなかった。

 向坂君はこの姿を見たのだろうか?……だとしたら酷なことだ。愛する人がこのような姿になったら……普通の精神では耐えられるものではない。

 櫻井の口からは人工呼吸に繋がる管が入れられていた。身体にも夥しい数のチューブ類が施されている。そしてこれらは……おそらく櫻井を救うためのものではない。

 彼を延命するために装着されたものだ……そう、彼の家族が到着する間の場つなぎにすぎない。

 医者の見立てでは、既に医学的に彼に施す手は尽きているのだろう。


 …… …… ……

 私はあることを告げるために担当医を訪ねた。

「先生……ちょっといいですか?」

「あなたは?……ご家族の方ですか?」

「ええ……そうです」

 私は咄嗟に彼の家族であると嘘をついた。



 理由があった。



「先生……櫻井君の人工呼吸器をもうはずしてほしいのですが?」

「え?……よろしいのですか?まだ家族が揃っていないようですが?」

「もう彼は……家族が揃うまで保たなのではないですか?」

「まあ……そうなんですが、私の口からそれを言う訳にもいかないので……逆にそう言ってもらえればすぐにでも……」

 やはりそうか……

 もう櫻井は直ぐにでも命が尽きる状態にある。

 無理やり生かされているだけだ。



 私はもう一度櫻井のいるベッドまで行った。

 昏睡状態……つまりもう言語のコミュニケーションが取れない。

 ただ、このような状況でも我々には手段がある。

 言語のコミュニケーションは確かにとれないが……

 私は彼の対話することにした。

 呼吸、僅かな身体の動き、目の動き、口の動き、なんでもいい……全ての情報を漏らさず拾い上げて……彼が最後に何を訴えてるのかだけでも……私が掬い上げてやりたかった。

 私は彼の呼吸と自分の呼吸の”リズム”を合わせた。


 彼の呼吸のリズムを……俺の身体で感じてみる……

 すると……

 ん……?

 私は彼と同じ呼吸を繰り返すうちにあることに気付いた。

 呼吸のリズムが……あるところで途切れる。

 このリズムの乱れはなんだ?

 途切れるのは……四回?

 呼吸が……四回に一回……必ず一瞬だけ止まる。

 なぜだ?

 私は櫻井の唇を注視した……




 そうか……言葉か……

 櫻井は……何か……言葉を紡ごうとしている。

 櫻井は……全く動かなくなった身体でなお……

 何か言葉を発したがっていた。


 私は彼の唇の動きを読んだ……

 ”あ、い、あ、あ……あ、い、あ、あ……”

 櫻井の唇は……確かにそう言ってるように見えた。

 どういう意味だ?

 櫻井……お前は何を言いたがっている?


 ……



 そうか……


 そうだったのか……


 すでに生命の灯を失ってしまっているはずの身体。

 しかし……その身体は……

 櫻井は……


 その言葉を手放すことができないでいた。

 その言葉が……彼をこの世に踏みとどませていた。



 あ、い、あ、あ……

 あ、い、あ、あ……

 あ、い、あ、あ……

 違う……

 これは母音だ……


 お前をこの世につなぎとめてるその言葉は……




 A,I,A,A……

 A,I,A,A……

 A,I,A,A……




 SA・KI・SA・KA……

 SA・KI・SA・KA……

 SA・KI・SA・KA……





 そうか……お前はずっとその言葉を……

 意識を失ってからも……ずっと……



 …… …… ……

 昏睡状態。

 我々はこれを「コーマ」と言う。

 私の師匠筋にあたるミンデルの心理療法には、本来不可能とされる昏睡状態になった患者とコミュニケーションをとる手段を持っている。

 ……コーマワークだ。



 私は一旦集中治療室を出て向坂君のところに向かった。


「向坂君……」

「……」

 相変わらず彼女は、放心して私の言葉には全く反応ない……

「向坂君……これから櫻井に」

「……」

「コーマワークを仕掛ける」

 ミンデルを知る彼女には、これだけで十分通じるはずだ。


 この言葉で……

 向坂君の目は……少しだけ光を取り戻した。

「た、田尻先生がコーマワークを……?」

「ああ……ただ、おそらく私だけでは彼を救えない……君の協力がいる」

「よ、義人を救えるんですか?」

「向坂君……そんな奇跡は期待しないでほしい……せめて今の櫻井の言葉を掬いあげたい」

 向坂君は絶句した……

 唇をかみしめながら、また下を向いてしまった。

 致し方ない……過度な期待ほどその後のショックは計り知れない。

 だから今はそう伝えるしかない。


「向坂君……君は少女時代にカウンセリングを受けているな?」

「は、はい……」

「その時のカウンセラーを今呼べるか?」

「え?……今ですか?」

「そのカウンセラーが……君の為に必要になる」

「私の為?」

「コーマワークは”君に”やってもらう。だから君の心を一番よく知るカウンセラーのサポートが必要だ」

「え?わ、私が?!……でも……」

 彼女は困惑気味に言い澱んだ。当然だ、コーマワークを知る向坂君だからこそ、それが如何に困難なことか分っている。それを自分がやるということを理解できないのだろう……

 しかし、もう悠長なやり取りをしている暇はない。

「向坂君……もう時間がない」

 私は有無を言わさぬ物言いで、向坂君の判断を促した。

「……わ、分りました……直ぐに連絡してみます」




 …… …… ……

 今が夜中ではないのが幸いだった。

 向坂君のカウンセラーは、仕事中だったそうだが異常事態を察してすぐに駆けつけてくれた。

 ほどなくして向坂君が読んだカウンセラーの女性が、救急入口から向坂の元へ小走りで近づいて来た。


 その姿には見覚えがった。


「え?……た、田尻先生なの?」

「……坂田君……そうか、君だったのか」

「え?坂田さんと田尻先生と……お知り合い?」

「ああ……何度か研究会で会ったことがある」

 そうか……向坂君のカウンセラーをしていたのは、坂田君だったのか。

 彼女の名前は児童カウンセリングの分野で知らない者はいない。どの施設でも匙を投げた児童を……彼女はその卓越した能力で何人も闇から救っている。向坂君にとりついた闇は……その坂田君ですら取り逃がした闇だったのだ。

「田尻先生がついていて……なんでこんなことになってるのよ?!」

 坂田君は怒気を孕んでそう私に訴えた。聞けば、坂田君も一度櫻井に会っているという。

 だとすれば……

 坂田君なら……二人の気持ちには当然気づいていたことだろう……。

「私が……私が……あの闇を取り逃がしたばっかりに……こんなことに……」

 彼女は悔しさで顔を歪めた。

「坂田君……今はそんなことを考えている暇なない……事は急を要する」

「そ、そうね……今は出来る事に専念しましょう。田尻先生……私は何をしたらいいのかしら?」

 来てくれたのが坂田君というのはなんとも心強い。彼女が協力してくれるのは大きい……

「これから向坂君にコーマワークをしてもらう……だから坂田君には向坂君をサポートしてほしい」

「な……何を言ってるんですか?そんな危険なこと学生の雪菜ちゃんにさせるというの?」

 これはには、さすがの坂田君も驚きの表情を見せた。

 そしてその表情は……決して前向きの答えを期待できないものだった。

「……それしか手はない」

「ダ、ダメですよ!!……そんなこと私は絶対反対です!」

「危険は承知の上だ」

「だからと言って……」

 坂田君は……その危険性を理解しているからこそ、彼女は私の提案を拒絶した。

 しかし……私は櫻井の想いを

 ……まだ見捨てる訳にはいかない。




「櫻井は……櫻井の命は……もう僅かな細い糸でしかこの世と繋がっていない。しかし……櫻井は、その死の淵で……その細い糸を、まだあきらめずに必死に掴んでる。その細い糸を必死に掴みながら……ずっと向坂君の名前を呼び続けている。私は……櫻井に呪いを掛けてしまった……向坂君に一生君の視線を送り続けろと。そうしなければ向坂君はまた闇に取り込まれると……だから彼は必死に……死の淵でなお櫻井は……向坂君を探して……向坂君を救うんだと……彼女を探して……だから必死に踏ん張ってる……この世に踏みとどまっている。それなのに……大人の私達があきらめるわけにはいかない。坂田君……プロの我々があきらめてはいけないんだよ。今の櫻井に届く声は……向坂君の声だけなんだよ」




「さ、坂田さん!!……やらせてくだい!やらせてください!……義人と話をさせてください!!」

 泣きならがら叫ぶ向坂君の訴えはもう絶叫に近いものだった。

「坂田君……覚悟を決めてくれ……」

「わ、分ったわ……」

「坂田君……恩に着る」



 …… …… ……



 我々三人は……集中治療室の櫻井のベッドサイドに集まった。

 一つでも間違えば……それで終わりだ。決してミスが許されない戦いになる。



    私は……担当医に人工呼吸器を外してもらうように頼んだ。

    これで櫻井の呼吸は止まる……死へのカウントダウンが始まる。

    掛けられる時間はごく僅かだ……

    家族でもない私が人工呼吸をはずす指示をだすなど言語道断だ。こんなことをするのは本来絶対に許されない。殺人として刑事事件に発展しかねない。しかし……現実問題……櫻井は家族の到着を待つことなくこの世を去る可能性が極めて高い。

 ならば……わずかでも可能性のある選択を私はする。

 これが私のミスが招いた事態の私のけじめのつけ方だ。

「向坂君……櫻井の全ての動きを絶対に見逃すな」

「はい」

 向坂君のことだからコーマワークの概要は理解しているはずだ。

 ……彼女の表情に迷いはない。

「向坂君……分っていると思うが、ここでポイントになるのは櫻井の”身体反応”を見逃さないことだ」

「ええ……分ってます。私が義人の動きをコピーするんですよね?」

「そうだ。僅かな動きも見逃してはいけない。櫻井の動きを……君の身体で100%再現するんだ……櫻井の身体のリズムを君の身体で感じ取ってくれ」

 向坂君は、神妙にうなずいてから……視線を櫻井の身体に向けた。

 呼吸器を外された櫻井は……苦しそうに一瞬顔を歪めた。

 向坂君も同じように櫻井の表情をなぞり……苦しそうな顔をした。

 向坂君は、櫻井の辛さを、彼女の身体で感じとっていた……


 血中の酸素飽和度を表す数値が……どんどん下がっていく。

 けたたましいアラーム音が集中治療室に鳴り響いた。

 すでに臨終の準備で控えているドクターとナースは……機械的にただそのアラーム音を消して……何の処置もしようとせず……櫻井の心臓が止まるのを待っていた。

 櫻井の唇は……やはり微かに動きながら……彼女の名前を呼んでいた。


 sakisaka……


 sakisaka……


 sakisaka……



 向坂君が……その唇に指をあて……自分の名前を呼ぶその声を……聴こうとしていた。



 櫻井の心拍数が……30を切った。

 ……間に合わないか……

 徐々に……リズムが遅くなる心拍数を表す音だけが……無常にもベッドサイドに響いている。

 その時……

 向坂君に異変が起きた……


「義人!!!……見なさいよ!……私を……見なさいよ!!もっと……もっと……私のことを!!」

 向坂君が……突如、何かに取り憑かれたようにように半狂乱で叫びだしてしまった。

 まずい……

 闇だ……闇が暴走している……このままではワークどころではなくなってしまう。

 しかしこれに間髪を入れず反応したのが……坂田君だった。

「ほ~ら……雪菜ちゃん?見てごらん?……櫻井君はちゃんと雪菜ちゃんのこと見てるよ?……彼の目をしっかり見てごらん……」

 向坂も彼女の声に反応してすぐに動きを止めた。

 流石だ……坂田君の機転は……長年向坂君の闇と付き合っていた彼女にしかできない。

 やはり彼女を呼んだのは正解だった。

 ドクターとナースは……以外にも冷静に冷めた表情でこれらの風景を見つめていた。きっと臨終の間際には……こういった場面は日常茶飯事なのだろう。


 坂田君の問いかけに向坂君が反応した。

 ……向坂君は、櫻井の視線を求めて……櫻井の顔を覗きこんだ。

 すると櫻井の目が……向坂君の目と合った。

 もう何も映っていないはずの櫻井の目が……人形のようになっていたはずの櫻井の目が確かに彼女の目を……見ている。

 見ている……

 今……櫻井には……確かに向坂君の顔が見えている。

 戻ってきている……櫻井が。

 ……細い糸を便って……最後の力を振り縛って……這いあがってきている……



 向坂君の声を求めて……。




 今しかない……



 最後のチャンスだ……

 しかしここで私の出来ることは何もない。


 あとは……


 向坂君の言葉にかかっている……



 彼女が今紡ぎだす言葉に……


 向坂君が……今、まさに櫻井と対話した向坂君だからこそ分かる……櫻井ににっての最上の言葉……

 それだけが櫻井に届く……



 私は向坂君の言葉を待った……



 しかし……


 彼女は一言も言葉を発しなかった。




 ただ……


 ただ……彼女は……笑顔を見せた。




 向坂君は……

 なぜ何も言わずに笑っているのだ?


 向坂君の視線は……櫻井のある場所に向けられていた。

 櫻井の……口元……唇だ。

 向坂君は櫻井の唇を注視している。



 何故だ?



 櫻井の唇……

 ……そ、そうか……

 ……櫻井の発している言葉が……

 いつのまにか……変わっている……





 waraeyo sakisaka……



 waraeyo sakisaka……



 waraeyo sakisaka……






 ”笑えよ……向坂……笑えよ……向坂……笑えよ……向坂……”


 彼女の……櫻井を思う気持ちが……その僅かな櫻井の唇の変化を見逃さなかった。


 向坂君は……


 櫻井が大好きだった向坂君の満面の笑みを……


 ただただ櫻井に送り続けた。



 櫻井は……その笑顔を……ずっと見つめていた。


 表情のなくなったはずのその顔は……




 少し笑っているようにも見えた……
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