僕に名前をください

鈴原りんと

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Name1:恋人(仮)

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彼女の大きな瞳が揺らいだ。少しだけ濡れた瞳に、微かに僕の胸が痛んだような気がした。でもきっと、気のせいに違いない。他人に同情するほど、僕は情け深い人間じゃないからだ。

「……もう残り時間が少ないから、今は無理言って外に出してもらってるんだよ」

 碓氷さんはへらりと力なく笑った。

「その病気ってのはさ、治ったりはしないの?」
「うん。現代の医療はだいぶ発展してるっていうのに無理みたい。私の体が、もう手術に耐えられないみたいでね……結局は、私が弱いのがいけないんだよ」
「……そっか」

 かける言葉もなかった。口に含んだコーヒーが、突然苦さを増した。

 予想以上に壮絶な人生と境遇だった。僕と同い年だというのに、彼女は何一つ自由で楽しい生活をしてこなかったのだろう。普通の高校生が当たり前のように通う学校にも行けず、青春という青春を過ごせなかったはずだ。

 でも、僕がかける言葉が見つけられなかったのは、碓氷さんの辛さを全て汲み取ったからじゃない。ましてや、可哀想だ、何とかしてあげたいなどとも思っているわけでもない。所詮は彼女も、今までと同じ『依頼人』という形でしか見ることができないからなのだろう。

 ……僕は薄情な人間だ。

「あ、暗い話になっちゃってごめんね……!」と碓氷さんが慌てて手を振りながら誤魔化すように笑った。
「ううん、僕から振った話だからさ。こっちこそ、無理に聞き出しちゃってごめんね」
「あまりこういう話できないから、むしろ聞いてくれて助かったよ」

 碓氷さんは、やんわりと微笑んだ。そして、少しだけ辿々しい口ぶりで告げる。

「……お母さんは私を生んですぐ死んじゃったし、男手一つで私を育ててくれたお父さんも昨年亡くなって……今は歳の離れたお兄ちゃんしかいないから、あまり人と話す機会がなくてね」
「じゃあ、家族以外の人と久々に話したってこと?」
「うん。話すのはお兄ちゃんと看護師さんくらいだから。……あとは幼馴染もいるんだけど、高校生になってからは疎遠になっちゃってね」

 ココアが入ったカップに触れながら、碓氷さんは寂し気な表情を零した。

 碓氷さんはこの年にしてだいぶ苦労している。涙もろい人間だったら、きっと彼女の話を聞いて今頃泣いているに違いない。でも僕は、人よりもそういった感情が欠けているだろうから、話を聞いてもひどく胸を痛めたりはしない。壮絶な人生を送ってきたのだな、と今はそう思うことしかできない。

「それじゃあ、今日を含めて三日間でたくさん話そうか」
「三日間……?」

 碓氷さんが目を丸くして聞き返してきた。そういえば、と僕は思い出したかのように答える。

「そっか、碓氷さんにはまだ話してなかったね。依頼の最長期間は三日間なんだ。ごめんね、短くて」
「ううん、三日もあれば十分だよ。むしろ、最長期間まで引き受けてもらってもいいの?」
「うん。恋人関係になるって依頼、一日じゃ満足にこなせないでしょ?」

 少しだけ不安そうに目を泳がせた彼女に、安心させるように笑った。

 別に適当に理由をつけて一日で終わらせてもよかった。だけど、肝心な時に限って自分の奥底にある面倒なお節介気質が顔を出した。面倒だから、さっさと依頼をこなしてしまえばよかったものの、本能がそうはさせてはくれない。

 でもきっとこれは善意なんかじゃないんだ。僕はただ、誰かに感謝されることに酔っているだけ。
 依頼を受けて、誰かに感謝される。誰かの感謝――『愛情』に似た感情が僕に向けられるのが、たまらなく魅力的に感じるのだ。
 僕はただ、それが欲しいだけ。

「……ところで碓氷さん。その制服って、泉谷いずみや第一高校のだよね?」

 白いラインの入った黒いブレザーに赤いリボン。チェック柄のグレーのスカート。似た制服は全国を探せば無数にあるだろうが、この辺りでこの制服を着用しているのは泉谷第一高校の生徒だけだろう。記憶違いでなければの話だが。

「え?知ってるの?」と碓氷さんが目をぱちくりさせた。
「僕も同じ学校だからね。この辺りの学校に通う男子はだいたい学ランだから気づかなかったでしょ」

 僕は自身が着ている学ランを指さした。今着ているこの制服を見せつけたところで、同じ学校という証明にはならないかもしれない。だから、彼女は少し困惑したように眉をハの字にした。

「全然気が付かなかった……だって校章もホームルーム章もつけてないから」
「そうだね。今はほぼ通ってないから外してるんだ」
「通ってないの?」
「面倒だからね。勉強も運動もそれなりにこなせるし、通わなくても別に問題はないかなぁって」
「名無しくんは天才肌なのか……」
「そうでもないさ」

 碓氷さんの顔に苦い微笑が咲いた。

 天才という言葉はあまり好きではないから、思わず素っ気ない返事になってしまう。天才という存在は、全てを兼ね備えた恵まれた人間に与えられる言葉だ。僕は、人にあるべきものの多くを与えられずに生きているのだから、天才という存在が妬ましく思う。僕が天才だったのなら、名前だって愛だって、過不足なく与えられていたはずだろう。

「碓氷さんこそ、今日は平日なのに学校行ってないの?もしかして、学校に行くのは禁止されてたり?」
「私は火曜日と金曜日だけ通ってるの」
「へぇ。じゃあ今日は出歩いててもおかしくないってわけか」
「そういうこと。本来なら学校行ってるはずなんだけどね……最近は行く勇気すらなくて」

 碓氷さんは頬を掻きながら眉を下げた。

「学校、通いたいの?」
「もちろん。まともに学校通ったことないからね」

 学校生活という、普通の人生を歩んでいれば当たり前の行事に寄せられた憧れ。それが彼女の瞳から、声音から、ひしひしと伝わってくる。それはもう、あまり人に関心のない僕の心に触れるくらいには。

 だから、「ふーん。じゃあ、久々に僕も行ってみようかな」なんて気まぐれがほぼ無意識的に口から飛び出した。

「ほんと?」と嬉しさが滲み出る声が返ってくる。

「うん。まぁ僕の気まぐれだと思って付き合ってよ」

 パッと眩しい光が碓氷さんの瞳に宿った。

「今日は水曜日だから明後日なら行けるかな?」
「うん!ありがとう名無しくん!」

 立ち上がりそうな勢いで碓氷さんが身を乗り出して満面の笑顔を浮かべた。

 それを見た僕の胸は高鳴った。
 別に彼女の笑顔に惚れただとかそんなことはない。本来引き受けないような面倒な依頼を自ら進んで受けたのは、ただ彼女からの『感謝』を得たいからにすぎない。この感謝の瞬間が欲しいだけだ。だから、その感謝の言葉に僕は些細な幸福感に包まれた。

 ……僕に感謝を、そして必要性を与えてくれるそのためならば、何だってできる気がする。

「学校行く約束はしたわけだけど、根本の依頼内容である恋愛をしたいって具体的にどんなことしたいの?」

 コーヒーを飲みながら改めて問う。すると彼女は目を泳がせた。

「え、えっと……」
「もしかして特に考えてなかった?」
「……うん」

 カップを両手で抱え、彼女は口元をそれで隠した。白い頬に微かに赤が浮かぶ。
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