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Name5:一日限りの花嫁
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浮雲の淵が金色を帯び始めた頃、市立病院の屋上にあるベンチに二人で腰かけていた。体の芯から冷えるような風が吹き始めるこの時間には、この場所に人はいない。外出禁止の患者のために用意されたこの屋上のスペースは、案外広くて快適だった。
「今日はありがとう。まさか、本当に夢が叶っちゃうなんて」
碓氷さんが夕暮れを見つめながらそう口を開いた。
「喜んでもらえたなら良かったよ。ドレスの着心地はどうだった?」
「とても良かったよ。サイズも丁度よかった。ところで、あれってどこで手に入れたの?」
「梓さんが作ってくれたんだよ」
「え、梓さんが!?」
碓氷さんは声をあげて目を丸くした。まだ信じられていない様子の彼女にそうだよと一言言えば、「今度お礼しなくちゃ」と気恥ずかしそうに笑った。僕も、今度梓さんに改めてお礼を言いにいくとしよう。
「――あのね、名無しくん」
少し間を置いて、碓氷さんが少しだけ迷った素振りを見せながら僕を呼んだ。どこか沈んだような声音に、僕は彼女に向き直る。
「なに?」
「私ね、一つ嘘を吐いていたの」
何の脈略もなく、彼女はそう切り出した。
「いきなりどうしたの?」
「ここまでの事をしてくれたのに、嘘を吐いたままなのは嫌だなって思ったから」
随分と真剣な物言いだった。黙って聞いていれば、彼女は降り始めの雨のようにポツポツと語りだした。
「私さ、最初にカフェで話した時、お母さんは私を産んですぐ死んじゃったし、私を育ててくれたお父さんも昨年亡くなったって言ったよね?」
「そういえば……」
思い出したかのように呟けば、碓氷さんは言い淀むように唇を噛む。無理に話さなくてもいいよ、なんて声をかけようとすれば、彼女は色のない声で答えた。
「……本当はね、お母さんもお父さんも私を捨てたんだ」
心臓が鷲掴みされたかのようだった。胸の奥で小さな波が揺らめき、頭の中をビリビリと痺れさせる。顔も名前も知らない両親が、脳裏で僕を嘲笑したような気がした。
「病弱な娘は面倒だったんだと思う。お母さんは私が1歳の頃、どこかへ行っちゃったんだって。お父さんも途中までは頑張ってくれたみたいだけど、疲れちゃったみたい」
無理に押し出したような笑みだった。心の奥に眠る本音を覆い隠すようなそれが、少しだけ癪に障った。
彼女は、家族に愛されて恵まれた人だと思っていた。でも、実際は僕と同じように親の愛をあまり知らない悲惨な人生を歩んだ人だった。
だから、なんとなくわかった気がする。僕が彼女に無意識に惹かれる理由を。
――彼女は、僕とよく似ている。
「……だから、君といるのが心地いいのか」
「え?」
「僕も君と同じだからだよ。両親に捨てられ、親戚の家をたらい回しにされ、挙句の果てには施設送りさ。……誰かに愛されたいって嘆く欠けた心まで、君とそっくりだ」
碓氷さんの顔は、途端に血の気が引いていく。何かと心の奥底に秘めてきた嫉妬の感情が、コントロールを失って内側からズキズキとつついてくる。
あぁ、ダメだよ。
彼女に当たったところで、何も生まれやしないしお門違いだ。
それなのに、言葉を紡ぐ口は止まらない。
「でも、君は愛を知っているし持っている。羨ましい限りだよ。恵まれてるね」
嫌味な言い方だと自分でも思った。零した言葉は、ナイフのように尖って彼女に突き刺さる。目に見えて傷ついた様子の碓氷さんの顔に憂愁の影が差した。
「……そうだね。私は恵まれているよ。半年も余命があるんだし、家族もお兄ちゃんがいるからね。半年あれば、もう十分だよね」
感傷的に笑いながら、碓氷さんは捲し立てるように言った。半ば諦めたような乾いた微笑は、僕に追い打ちをかける。
「――君のそういうところが、僕は嫌いだ」
夕映えの向こうまで、冷えた言葉は届いたような気がした。
碓氷さんは、今まで出会った人の中で一番話しやすくて、人として尊敬している部分もあった。優しさと、誰かを愛する素敵な心を持つ彼女が人として好きだった。
でも、そうやって無理やり強がったり、すぐに諦めたりするところが嫌いだった。
……きっとそれは、僕に似ているからなのだろう。
「溜め込んだところで、何もいいことなんかない。嘘……というか、隠している感情なんて君にはいくらでもあるでしょ?」
心をなんとか落ち着けながらゆっくりと立ち上がり、俯いた彼女の前に立つ。
似ているから嫌い。
いわば同族嫌悪と言ったところか。でも彼女には、僕と同じ道を歩んでほしくない。
だから、正直に真っすぐ生きていけるように、僕が少しだけ手助けをしてあげよう。彼女と似ている僕ならば、きっと少しは力になれる。
「全部ぶちまけちゃえばいいのに」
僕はそっと手を広げた。下を向いていた碓氷さんは、悲しげな表情のまま僕を見つめる。
「今なら、依頼料無しで好きなだけ話聞いてあげるけど」
くしゃり、と碓氷さんの顔が歪んだ。大きな瞳に濡れた輝きが増した瞬間、彼女はタックルでもするような勢いで僕の胸に飛び込んできた。
「……まだ、まだっ、死にたくないよ!」
必死に紡がれたのは、ひどく震えたか弱い声だった。
「どうして私じゃなきゃいけなかったの?何で私は置いていかれたの?私は頑張ってたのに!いくら頑張っても、笑顔でいても、学校の皆には認めてもらえなかった……!」
今まで聞いたこともない声量で、棘のある声だった。しがみつくように回された彼女の腕が、強く僕の服を掴む。
僕は黙って、彼女の思いを受け止めていた。
「もちろん我儘だって分かってる!でも、私は普通の子に生まれたかった!皆と同じように健康な体で、楽しい生活を送りたかった!……せっかく名無しくんに会えたのに、もう残りの時間がないなんて嫌だ……ッ!」
碓氷さんは何度もしゃくりあげながら叫ぶ。そして最後に、嗚咽混じりだが鮮明な声をあげた。
「――もっと……っ、生きていたいよッ!」
僕の服を握りしめたまま、彼女は慟哭した。
初めて見えた碓氷さんの心の奥底。いくら優しくて我慢強い彼女にも、触れれば壊れてしまいそうな弱い部分はあった。
あまりにも苦しくて悲痛な叫びだったから、僕は静かに彼女を抱きしめ返した。
「……馬鹿だなぁ。苦しいなら苦しいって素直に言えばよかったのに」
震える彼女の髪を撫でながら、僕は複雑な微笑を零した。
……馬鹿はどっちだ。僕だって強がっているのは彼女と同じなのに。
誰かに名前を貰うチャンスなんていくらでもあったはず。でも、喉から手が出そうなくらい欲しかったそれを一度も欲しいと明確に口にしなかった。それじゃ、愛が籠っていない空っぽなモノだと思ったからだ。
……いや、本当はただ怖かっただけなのかもしれない。
冷ややかな温度を帯び始めた夕暮れの風を受けながら、僕らはしばらくそのまま抱き合った。碓氷さんが泣き止むまで、僕は遠くの夕陽を見つめていた。
僕と似ている彼女を、どうにかできる限り楽しませたいと初めて本気で思った。同情からくるこの気持ちは、彼女を本気で幸せにしたいという気持ちとは別に、一部で自分のエゴに変わりつつもある。
でも、碓氷さんの願いを叶えることが今の僕が一番したいことだと思う。
それで、僕自身も救われるような気がしたからだ。
「今日はありがとう。まさか、本当に夢が叶っちゃうなんて」
碓氷さんが夕暮れを見つめながらそう口を開いた。
「喜んでもらえたなら良かったよ。ドレスの着心地はどうだった?」
「とても良かったよ。サイズも丁度よかった。ところで、あれってどこで手に入れたの?」
「梓さんが作ってくれたんだよ」
「え、梓さんが!?」
碓氷さんは声をあげて目を丸くした。まだ信じられていない様子の彼女にそうだよと一言言えば、「今度お礼しなくちゃ」と気恥ずかしそうに笑った。僕も、今度梓さんに改めてお礼を言いにいくとしよう。
「――あのね、名無しくん」
少し間を置いて、碓氷さんが少しだけ迷った素振りを見せながら僕を呼んだ。どこか沈んだような声音に、僕は彼女に向き直る。
「なに?」
「私ね、一つ嘘を吐いていたの」
何の脈略もなく、彼女はそう切り出した。
「いきなりどうしたの?」
「ここまでの事をしてくれたのに、嘘を吐いたままなのは嫌だなって思ったから」
随分と真剣な物言いだった。黙って聞いていれば、彼女は降り始めの雨のようにポツポツと語りだした。
「私さ、最初にカフェで話した時、お母さんは私を産んですぐ死んじゃったし、私を育ててくれたお父さんも昨年亡くなったって言ったよね?」
「そういえば……」
思い出したかのように呟けば、碓氷さんは言い淀むように唇を噛む。無理に話さなくてもいいよ、なんて声をかけようとすれば、彼女は色のない声で答えた。
「……本当はね、お母さんもお父さんも私を捨てたんだ」
心臓が鷲掴みされたかのようだった。胸の奥で小さな波が揺らめき、頭の中をビリビリと痺れさせる。顔も名前も知らない両親が、脳裏で僕を嘲笑したような気がした。
「病弱な娘は面倒だったんだと思う。お母さんは私が1歳の頃、どこかへ行っちゃったんだって。お父さんも途中までは頑張ってくれたみたいだけど、疲れちゃったみたい」
無理に押し出したような笑みだった。心の奥に眠る本音を覆い隠すようなそれが、少しだけ癪に障った。
彼女は、家族に愛されて恵まれた人だと思っていた。でも、実際は僕と同じように親の愛をあまり知らない悲惨な人生を歩んだ人だった。
だから、なんとなくわかった気がする。僕が彼女に無意識に惹かれる理由を。
――彼女は、僕とよく似ている。
「……だから、君といるのが心地いいのか」
「え?」
「僕も君と同じだからだよ。両親に捨てられ、親戚の家をたらい回しにされ、挙句の果てには施設送りさ。……誰かに愛されたいって嘆く欠けた心まで、君とそっくりだ」
碓氷さんの顔は、途端に血の気が引いていく。何かと心の奥底に秘めてきた嫉妬の感情が、コントロールを失って内側からズキズキとつついてくる。
あぁ、ダメだよ。
彼女に当たったところで、何も生まれやしないしお門違いだ。
それなのに、言葉を紡ぐ口は止まらない。
「でも、君は愛を知っているし持っている。羨ましい限りだよ。恵まれてるね」
嫌味な言い方だと自分でも思った。零した言葉は、ナイフのように尖って彼女に突き刺さる。目に見えて傷ついた様子の碓氷さんの顔に憂愁の影が差した。
「……そうだね。私は恵まれているよ。半年も余命があるんだし、家族もお兄ちゃんがいるからね。半年あれば、もう十分だよね」
感傷的に笑いながら、碓氷さんは捲し立てるように言った。半ば諦めたような乾いた微笑は、僕に追い打ちをかける。
「――君のそういうところが、僕は嫌いだ」
夕映えの向こうまで、冷えた言葉は届いたような気がした。
碓氷さんは、今まで出会った人の中で一番話しやすくて、人として尊敬している部分もあった。優しさと、誰かを愛する素敵な心を持つ彼女が人として好きだった。
でも、そうやって無理やり強がったり、すぐに諦めたりするところが嫌いだった。
……きっとそれは、僕に似ているからなのだろう。
「溜め込んだところで、何もいいことなんかない。嘘……というか、隠している感情なんて君にはいくらでもあるでしょ?」
心をなんとか落ち着けながらゆっくりと立ち上がり、俯いた彼女の前に立つ。
似ているから嫌い。
いわば同族嫌悪と言ったところか。でも彼女には、僕と同じ道を歩んでほしくない。
だから、正直に真っすぐ生きていけるように、僕が少しだけ手助けをしてあげよう。彼女と似ている僕ならば、きっと少しは力になれる。
「全部ぶちまけちゃえばいいのに」
僕はそっと手を広げた。下を向いていた碓氷さんは、悲しげな表情のまま僕を見つめる。
「今なら、依頼料無しで好きなだけ話聞いてあげるけど」
くしゃり、と碓氷さんの顔が歪んだ。大きな瞳に濡れた輝きが増した瞬間、彼女はタックルでもするような勢いで僕の胸に飛び込んできた。
「……まだ、まだっ、死にたくないよ!」
必死に紡がれたのは、ひどく震えたか弱い声だった。
「どうして私じゃなきゃいけなかったの?何で私は置いていかれたの?私は頑張ってたのに!いくら頑張っても、笑顔でいても、学校の皆には認めてもらえなかった……!」
今まで聞いたこともない声量で、棘のある声だった。しがみつくように回された彼女の腕が、強く僕の服を掴む。
僕は黙って、彼女の思いを受け止めていた。
「もちろん我儘だって分かってる!でも、私は普通の子に生まれたかった!皆と同じように健康な体で、楽しい生活を送りたかった!……せっかく名無しくんに会えたのに、もう残りの時間がないなんて嫌だ……ッ!」
碓氷さんは何度もしゃくりあげながら叫ぶ。そして最後に、嗚咽混じりだが鮮明な声をあげた。
「――もっと……っ、生きていたいよッ!」
僕の服を握りしめたまま、彼女は慟哭した。
初めて見えた碓氷さんの心の奥底。いくら優しくて我慢強い彼女にも、触れれば壊れてしまいそうな弱い部分はあった。
あまりにも苦しくて悲痛な叫びだったから、僕は静かに彼女を抱きしめ返した。
「……馬鹿だなぁ。苦しいなら苦しいって素直に言えばよかったのに」
震える彼女の髪を撫でながら、僕は複雑な微笑を零した。
……馬鹿はどっちだ。僕だって強がっているのは彼女と同じなのに。
誰かに名前を貰うチャンスなんていくらでもあったはず。でも、喉から手が出そうなくらい欲しかったそれを一度も欲しいと明確に口にしなかった。それじゃ、愛が籠っていない空っぽなモノだと思ったからだ。
……いや、本当はただ怖かっただけなのかもしれない。
冷ややかな温度を帯び始めた夕暮れの風を受けながら、僕らはしばらくそのまま抱き合った。碓氷さんが泣き止むまで、僕は遠くの夕陽を見つめていた。
僕と似ている彼女を、どうにかできる限り楽しませたいと初めて本気で思った。同情からくるこの気持ちは、彼女を本気で幸せにしたいという気持ちとは別に、一部で自分のエゴに変わりつつもある。
でも、碓氷さんの願いを叶えることが今の僕が一番したいことだと思う。
それで、僕自身も救われるような気がしたからだ。
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