20 / 30
第20話 涙の退職届
しおりを挟む
翌朝のオフィスは異様な静けさに包まれていた。
週の始まりだというのに、誰もが息を潜めたように仕事をしている。
昨夜のニュースが原因だった。「持田グループ、不正取引の内部告発相次ぐ」――その見出しがネットを埋め尽くしている。
報道によれば、社内から提出された匿名の文書に怜司の名前が記載されていた。
机に並ぶ社員の表情は、信じたい気持ちと、不安に押し潰されそうな現実との狭間にある。
紗耶は朝早くから会社にいた。
眠れない夜を超えてここに来たのは、怜司のためでも、会社のためでもなく――ただ、逃げないと決めた自分の意地のためだった。
社長室のドアの前に立つと、内側から低い声が聞こえてきた。
「覚悟は決まってる。」
会話の相手は第三者らしい。通信越しの気配。
「すべて俺の責任だ。社員も、彼女も関係ない。」
怜司の声だった。
紗耶はドアをノックする。
「……入れ。」
短い返答。その表情には徹夜の痕があり、髪も整えられていない。
だが、その目の奥にある決意だけは、何一つ濁っていなかった。
「社長……昨夜のこと、全部知っています。」
「佐伯の裏切りもか?」
「はい。彼が会計チームを通じて報道側へ資料を渡したようです。すでに警察も動いているとの噂が。」
「それなら問題ない。時間の問題だ。」
「でも、あなたが責められてしまいます。」
「いいんだ。」
怜司は書類の束を机に置いた。
「俺がすべて背負えば、それ以上誰も傷つかない。」
「そんなやり方、間違ってます!」
初めて紗耶は声を張った。
「あなたが倒れたら、会社も、夢も、誰も残りません!」
「守るために、俺がいなくなる方が早い時もある。」
「違います。あなたがいない会社なんて、もう会社じゃありません!」
怜司が黙り込む。窓の外、灰色の光が差し込む。
少しの沈黙ののち、彼は机の引き出しから一枚の封筒を取り出した。
「何ですか、それ。」
「……お前の退職届だ。」
言葉が凍る。
「俺が用意した。出したくはないが、もう限界だ。」
「どういうことですか?」
「報道側に、お前の個人情報も流され始めている。これ以上ここにいれば、君の人生そのものが壊れる。」
「私は、平気です。」
「平気なはずがあるか!」
怜司の声が爆発する。
「お前が笑われるのを、侮辱されるのを、俺は見たくない!」
拳で机を叩く音が響く。その一瞬の怒りの奥に、どうしようもない切なさが見えた。
怜司は深く息をついて視線を落とした。
「水城。これは命令だ。お前は今日付けで退職だ。」
「……そんな命令、受けません。」
紗耶はまっすぐに言い返した。
「命令でも、心が納得しません。私はあなたの部下です。あなたが示した“夢”がある限り、逃げません。」
怜司の目が揺れる。それでも彼は首を振った。
「俺の夢は、誰かが継いでくれればいい。お前が壊れる姿だけは見たくない。」
その瞬間、紗耶の喉が詰まり、涙が滲んだ。
「そんなこと言うなら、私を置いていかないでください……」
「もう戻れないんだ。」
「嘘です。」
「嘘じゃない。」
怜司はわずかに目を伏せる。
「この会社を守るためなら、自分を壊してでも構わない。それが“経営者”としての答えだ。」
沈黙。
その中で、怜司のスマホが震えた。
画面に表示されたのは「森園専務」。
怜司は数秒だけ見つめ、それをスピーカーモードで取る。
「……私だ。ニュースは見たか?」
「ええ。見事だな。狙い通り、世論を味方につけた。」
「今のうちに手を打て。私たちは“浄化”のために動く。持田グループを解体する手続きに入る。」
「つまり、俺を業界から追放するというわけか。」
「そういうことだ。」
通話が切れる。静まり返った部屋に、雨が遠くで破れる音が響く。
「社長……」
「これでいい。」怜司はゆっくり微笑む。
「俺がいなくなれば、君は自由だ。君のデザインの才能も、夢も、誰にも奪われない。」
「そんな自由いりません!」
紗耶は封筒を掴み、破り捨てた。
白い紙が宙に舞う。
「私は、あなたの夢の続きが見たいんです!」
涙で視界が霞む。怜司がゆっくり歩み寄る。
「泣くな。」
「泣かせたのはあなたです。」
「……すまない。」
怜司はそっと彼女の肩に手を置いた。あたたかい掌の重み。
しかし、それはすぐに離れた。
「俺はもう戦えない。今日限りで辞任する。」
「そんな――」
「次期社長代理に、佐伯の名が出ている。専務が後ろ盾だ。」
「裏切者なのに?」
「裏切者だから使いやすいんだ。」
怜司の声が掠れる。
「……この会社はもう、俺の手を離れる。」
再び沈黙。
やがて、怜司は小さく笑った。
「皮肉だな。理想を守るつもりが、現実に飲み込まれてる。」
「まだ終わってません。」
「終わったよ。」
彼の目に、諦めの色が浮かぶ。
「君を守るための戦いが、君を傷つける結果になるなら、それはもう罪だ。」
時計の針が静かに刻む。雨がガラスを打つ音が途絶えない。
怜司はジャケットを脱ぎ、机に置いた。
「ありがとう、水城。俺と一緒にいてくれて。」
「やめてください……そんな言い方。」
「さよならは言わない。だがこれが現実だ。」
そのまま怜司は、退職届の控えをそっと引き出した。
それを机の上に残し、部屋を出て行く。
扉が閉まる音が、世界の終わりのように響いた。
紗耶の目から、押し殺した涙が一気にこぼれ落ちる。
握り締めた拳の中で、破り捨てた紙片が濡れて崩れた。
「あんな人……嫌いになんて、なれない……」
呟きが静かな部屋に滲む。外の雨は弱まっていたが、彼女の胸にはまだ止む気配がなかった。
その夜、怜司の姿は社内から完全に消えた。
メールのログインも、連絡も、途絶えたまま。
ただ机の上に残されたメモにはこう書かれていた。
“すべて終わったら、会いに行く。”
(続く)
週の始まりだというのに、誰もが息を潜めたように仕事をしている。
昨夜のニュースが原因だった。「持田グループ、不正取引の内部告発相次ぐ」――その見出しがネットを埋め尽くしている。
報道によれば、社内から提出された匿名の文書に怜司の名前が記載されていた。
机に並ぶ社員の表情は、信じたい気持ちと、不安に押し潰されそうな現実との狭間にある。
紗耶は朝早くから会社にいた。
眠れない夜を超えてここに来たのは、怜司のためでも、会社のためでもなく――ただ、逃げないと決めた自分の意地のためだった。
社長室のドアの前に立つと、内側から低い声が聞こえてきた。
「覚悟は決まってる。」
会話の相手は第三者らしい。通信越しの気配。
「すべて俺の責任だ。社員も、彼女も関係ない。」
怜司の声だった。
紗耶はドアをノックする。
「……入れ。」
短い返答。その表情には徹夜の痕があり、髪も整えられていない。
だが、その目の奥にある決意だけは、何一つ濁っていなかった。
「社長……昨夜のこと、全部知っています。」
「佐伯の裏切りもか?」
「はい。彼が会計チームを通じて報道側へ資料を渡したようです。すでに警察も動いているとの噂が。」
「それなら問題ない。時間の問題だ。」
「でも、あなたが責められてしまいます。」
「いいんだ。」
怜司は書類の束を机に置いた。
「俺がすべて背負えば、それ以上誰も傷つかない。」
「そんなやり方、間違ってます!」
初めて紗耶は声を張った。
「あなたが倒れたら、会社も、夢も、誰も残りません!」
「守るために、俺がいなくなる方が早い時もある。」
「違います。あなたがいない会社なんて、もう会社じゃありません!」
怜司が黙り込む。窓の外、灰色の光が差し込む。
少しの沈黙ののち、彼は机の引き出しから一枚の封筒を取り出した。
「何ですか、それ。」
「……お前の退職届だ。」
言葉が凍る。
「俺が用意した。出したくはないが、もう限界だ。」
「どういうことですか?」
「報道側に、お前の個人情報も流され始めている。これ以上ここにいれば、君の人生そのものが壊れる。」
「私は、平気です。」
「平気なはずがあるか!」
怜司の声が爆発する。
「お前が笑われるのを、侮辱されるのを、俺は見たくない!」
拳で机を叩く音が響く。その一瞬の怒りの奥に、どうしようもない切なさが見えた。
怜司は深く息をついて視線を落とした。
「水城。これは命令だ。お前は今日付けで退職だ。」
「……そんな命令、受けません。」
紗耶はまっすぐに言い返した。
「命令でも、心が納得しません。私はあなたの部下です。あなたが示した“夢”がある限り、逃げません。」
怜司の目が揺れる。それでも彼は首を振った。
「俺の夢は、誰かが継いでくれればいい。お前が壊れる姿だけは見たくない。」
その瞬間、紗耶の喉が詰まり、涙が滲んだ。
「そんなこと言うなら、私を置いていかないでください……」
「もう戻れないんだ。」
「嘘です。」
「嘘じゃない。」
怜司はわずかに目を伏せる。
「この会社を守るためなら、自分を壊してでも構わない。それが“経営者”としての答えだ。」
沈黙。
その中で、怜司のスマホが震えた。
画面に表示されたのは「森園専務」。
怜司は数秒だけ見つめ、それをスピーカーモードで取る。
「……私だ。ニュースは見たか?」
「ええ。見事だな。狙い通り、世論を味方につけた。」
「今のうちに手を打て。私たちは“浄化”のために動く。持田グループを解体する手続きに入る。」
「つまり、俺を業界から追放するというわけか。」
「そういうことだ。」
通話が切れる。静まり返った部屋に、雨が遠くで破れる音が響く。
「社長……」
「これでいい。」怜司はゆっくり微笑む。
「俺がいなくなれば、君は自由だ。君のデザインの才能も、夢も、誰にも奪われない。」
「そんな自由いりません!」
紗耶は封筒を掴み、破り捨てた。
白い紙が宙に舞う。
「私は、あなたの夢の続きが見たいんです!」
涙で視界が霞む。怜司がゆっくり歩み寄る。
「泣くな。」
「泣かせたのはあなたです。」
「……すまない。」
怜司はそっと彼女の肩に手を置いた。あたたかい掌の重み。
しかし、それはすぐに離れた。
「俺はもう戦えない。今日限りで辞任する。」
「そんな――」
「次期社長代理に、佐伯の名が出ている。専務が後ろ盾だ。」
「裏切者なのに?」
「裏切者だから使いやすいんだ。」
怜司の声が掠れる。
「……この会社はもう、俺の手を離れる。」
再び沈黙。
やがて、怜司は小さく笑った。
「皮肉だな。理想を守るつもりが、現実に飲み込まれてる。」
「まだ終わってません。」
「終わったよ。」
彼の目に、諦めの色が浮かぶ。
「君を守るための戦いが、君を傷つける結果になるなら、それはもう罪だ。」
時計の針が静かに刻む。雨がガラスを打つ音が途絶えない。
怜司はジャケットを脱ぎ、机に置いた。
「ありがとう、水城。俺と一緒にいてくれて。」
「やめてください……そんな言い方。」
「さよならは言わない。だがこれが現実だ。」
そのまま怜司は、退職届の控えをそっと引き出した。
それを机の上に残し、部屋を出て行く。
扉が閉まる音が、世界の終わりのように響いた。
紗耶の目から、押し殺した涙が一気にこぼれ落ちる。
握り締めた拳の中で、破り捨てた紙片が濡れて崩れた。
「あんな人……嫌いになんて、なれない……」
呟きが静かな部屋に滲む。外の雨は弱まっていたが、彼女の胸にはまだ止む気配がなかった。
その夜、怜司の姿は社内から完全に消えた。
メールのログインも、連絡も、途絶えたまま。
ただ机の上に残されたメモにはこう書かれていた。
“すべて終わったら、会いに行く。”
(続く)
0
あなたにおすすめの小説
没落貴族とバカにしますが、実は私、王族の者でして。
亜綺羅もも
恋愛
ティファ・レーベルリンは没落貴族と学園の友人たちから毎日イジメられていた。
しかし皆は知らないのだ
ティファが、ロードサファルの王女だとは。
そんなティファはキラ・ファンタムに惹かれていき、そして自分の正体をキラに明かすのであったが……
【完結】二度目の子育て~我が子を可愛がったら溺愛されました
三園 七詩
恋愛
私は一人娘の優里亜の母親だった。
優里亜は幼い頃から体が弱く病院でほとんどの時間を過ごしていた。
優里亜は本が好きでよく私にも本の話をしてくれた。
そんな優里亜の病状が悪化して幼くして亡くなってしまう。
絶望に打ちひしがれている時事件に巻き込まれ私も命を落とした。
そして気がつくと娘の優里亜が大好きだった本の世界に入り込んでいた。
婚約破棄された夜、最強魔導師に「番」だと告げられました
有賀冬馬
恋愛
学院の祝宴で告げられた、無慈悲な婚約破棄。
魔力が弱い私には、価値がないという現実。
泣きながら逃げた先で、私は古代の遺跡に迷い込む。
そこで目覚めた彼は、私を見て言った。
「やっと見つけた。私の番よ」
彼の前でだけ、私の魔力は輝く。
奪われた尊厳、歪められた運命。
すべてを取り戻した先にあるのは……
【完結】番としか子供が産まれない世界で
さくらもち
恋愛
番との間にしか子供が産まれない世界に産まれたニーナ。
何故か親から要らない子扱いされる不遇な子供時代に番と言う概念すら知らないまま育った。
そんなニーナが番に出会うまで
4話完結
出会えたところで話は終わってます。
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
十年間虐げられたお針子令嬢、冷徹侯爵に狂おしいほど愛される。
er
恋愛
十年前に両親を亡くしたセレスティーナは、後見人の叔父に財産を奪われ、物置部屋で使用人同然の扱いを受けていた。義妹ミレイユのために毎日ドレスを縫わされる日々——でも彼女には『星霜の記憶』という、物の過去と未来を視る特別な力があった。隠されていた舞踏会の招待状を見つけて決死の潜入を果たすと、冷徹で美しいヴィルフォール侯爵と運命の再会! 義妹のドレスが破れて大恥、叔父も悪事を暴かれて追放されるはめに。失われた伝説の刺繍技術を復活させたセレスティーナは宮廷筆頭職人に抜擢され、「ずっと君を探していた」と侯爵に溺愛される——
何年も相手にしてくれなかったのに…今更迫られても困ります
Karamimi
恋愛
侯爵令嬢のアンジュは、子供の頃から大好きだった幼馴染のデイビッドに5度目の婚約を申し込むものの、断られてしまう。さすがに5度目という事もあり、父親からも諦める様言われてしまった。
自分でも分かっている、もう潮時なのだと。そんな中父親から、留学の話を持ち掛けられた。環境を変えれば、気持ちも落ち着くのではないかと。
彼のいない場所に行けば、彼を忘れられるかもしれない。でも、王都から出た事のない自分が、誰も知らない異国でうまくやっていけるのか…そんな不安から、返事をする事が出来なかった。
そんな中、侯爵令嬢のラミネスから、自分とデイビッドは愛し合っている。彼が騎士団長になる事が決まった暁には、自分と婚約をする事が決まっていると聞かされたのだ。
大きなショックを受けたアンジュは、ついに留学をする事を決意。専属メイドのカリアを連れ、1人留学の先のミラージュ王国に向かったのだが…
妹の身代わりだった私に「本命は君だ」――王宮前で王子に抱き潰され、溺愛がバレました。~私が虐げられるきっかけになった少年が、私と王子を結び付
唯崎りいち
恋愛
妹の身代わりとして王子とデートすることになった私。でも王子の本命は最初から私で――。長年虐げられ、地味でみすぼらしい私が、王子の愛と溺愛に包まれ、ついに幸せを掴む甘々ラブファンタジー。妹や家族との誤解、影武者の存在も絡み、ハラハラと胸キュンが止まらない物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる