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sleeping forest
しおりを挟むある川の端に、石で円を描くように囲まれている場所があった。そこは水たまりのように水が溜まっており、魚たちの休憩所になっているようだ。小さな魚がのんびりとくつろいでいる。
ふと、危険を察知して逃げるように、小魚が素早く泳ぐ。遠くから風が一気に駆け抜け、さーっと森を撫でていった。
木々の葉が擦れ合い、歌を唄う。
木の葉がふわっと宙を舞い、ゆっくりゆっくりと振り子のように落ちていく。
音を立てることなく、木の葉は静かに水に着地した。その瞬間、ザワッと水面が驚き、波紋をたてる。波紋は少しずつ拡がり、すぅっと水と溶けるように消えた。
その水にそっと近づく細い指。
人形のように癖がない黒髪。さらりと肩から落ちる。
白いワンピースの少女は、焦らすように水にそっと触れた。
「ここに、いたの」
少女は涙を堪えるように唇を噛んだ。
「会いたかった……」
水面を見つめ、愛おしそうに語りかける。まるで水の中に恋人がいるかのように。
込み上げてくる感情に、小さな身を震わせる。
「会いたかったよ……」
呼びかけても帰ってくる声はない。
ただ森の声だけが遠くから聞こえる。少女を心配するかのように静かに囁く。君の愛しき彼はここにはいないよ、と。風も腫れ物に触れるようにそっと優しく吹いた。
少女はそれでも構わずに愛おしそうに水に触れるだけ。
だが、彼には触れられない。
どれだけ指を伸ばしても、水を掻きだしてみても届くことはない。
少女にしか見えない彼。
触れられないことに気付いた少女の目には、悔しさと愛おしさの色を帯びている。次第にそれは大きな水となって、ぽろりぽろりと雫は落ちる。
「なんで、なんで……」
所詮は少女が抱く幻想。
彼は存在しない。
少女は理解しているのだ。頭の隅では。
しかし認めたくはない。認めてしまえば、確実に消える。
そんなあやふやで幻である存在。
少女はただ求めた。
決して触れることが叶わない彼を。
愛しているのだ。
彼女の目だけが見える彼を心底から。
気持ちが真っ直ぐで、女性や子供に何気なく優しい、彼の笑顔。
(こんな風に笑うのね)
非道なことを許せずに怒り、立ち向かっていく顔。
(己の信念を曲げない、芯の強い人)
背中が大きくて、この人に守られたいと常に思っていた。でも、決して抱きつくことはできず、守られることもない。声をかけることも、目を合わせることも。
少女は涙で揺れる水面をひたすら見つめた。
二人の住む世界は違う。
二つの世界を繋ぐ架け橋はない。
一度も相見えることはない。
少女は夢の中で彼を触れるしかないのだ。必ず出る確証がない、朧げで儚い、不安定な世界で。しかし、例え不安定な夢の中で会えたとしても、それは彼ではない、幻の中の幻。都合よく動かすことができる、少女が操る人形と同じ。それで心が満たされるわけがない。
それでも彼女は願った。
夢の中でもいい。幻でもいい。一時でも貴方の姿をした人と同じ世界に立てるなら。隣にいられるなら。
少女はギュッと目を閉じた。
(全てを捨ててもいい)
私が持っている全てを捧げて会えるなら。
いつまでも水面を見つめて彼に恋憧れるくらいなら、全てを捨てでも会いに行きたい。この肉体をも脱ぎ捨てて。
この苦しみから、誰か解いて。
願っても願っても願っても会えないこの苦しみを。
ポタポタと落ちる涙。
彼に触れることを諦めた右手を水から離し、血が滲むほど強く握り拳を作る。
諦めろと訴えているかのように風は少女を撫でる。
その時、遠くから気配がする。
歩いてくる足音。
聞いたことがある。踵を地に擦る足音。
少女はそれに気付きながらも振り返ることはしなかった。下唇を噛み締めて、己の無力さを呪う。
暫くして、少女の背後まで足音が近づき、そして止まる。
「帰ろう」
男性の声。
男は少女が動くのを待った。頭をぽりぽりと掻きながら、すぐに立ち上がるだろうと思って。
しかし、予想に反し、いつまで待っても立ち上がろうとしない。仕方がなく、その少女の腕を掴んだ。その瞬間、力の限り振り払われ、男性はムッと眉を寄せた。
少女はハッと我に返って振り返り、頭を下げる。
「ごめん、なさい」
男は思わず舌打ちをした。
「家に帰ろう。母さんが心配する」
そう言うが、少女は躊躇する。後ろの水辺が気になるように。離れ難いような表情を浮かべて。
その様子を見て悟った男は乱暴に溜め息を吐いた。
「またそれか。目ぇ覚ませよ! それは妄想だ! 妄想なんだよ!!」
少女の胸を鋭利な刃物で突き刺されたかのような痛みが走った。苦痛に顔を歪ませる。
「妄想なんかじゃあ……」
追い打ちをかけるように男は言葉を被せる。
「じゃあ会ったことでもあるのか? どんな話をした? 内容は?」
少女は頭を上げることができなかった。
「好きなものはなに? 嫌いなものは? どんな女が好み? そもそも名前は何? 年齢は?」
あからさまな攻撃的な言葉。
しかし全てを受け流すしかなかった。
何一つ、答えられないから。
男は少女が質問に答えられないことと、彼に好意を抱いていることを知っているから、わざと彼に関する質問を入れてきた。
彼女にとっては妄想ではない。
でも、妄想と言われてもしょうがない。
反論できずに、ただ言われるがまま耐えていると、胸がぎゅうぎゅうと握り潰されるような苦しみが増していく。
「…………ッ」
言えない。なにも。
なにも言い返せない。
彼が別の世界の人だから、実在する人物だと証明するものがない。
だからと言って、妄想だのと言われて我慢できるものでもない。少女にとっては実在する人物なのだから。
俯いたまま言葉をなかなか出せないでいると、男は少女の腕を掴んだ。
その力は強く、少女は咄嗟に振り払うことができなかった。
「もう夢ばかり見るのはやめろ」
「お兄、夢なんかじゃないよ……」
「病院の先生が言ってたろ。精神的なものだって。幻覚なんだよ」
家族は少女の異常な発言が増えてきたことに酷く心配をし、一週間前ほどに病院へ無理やり連れて行かれた。その診断結果が、戦争による精神的異常だと言われたのだ。
世界大戦がある時代。
空襲が多く、いつ爆弾が頭上に落ちてくるか分からない不安で体調をきたしている者が多かった。その中に精神的な異常が表れる者も珍しくはなかった。
平和に憧れ、戦火で満ちる現実から目を背け、己の都合が良い幻覚を見る。それは精神を壊さない為に自身を護る人間特有の自己防衛だ。決して悪いだけのものではない。故に医者は治療を無理に行おうとしない。治療方法が確立されていないという現実的な問題もあるが。この国は心理学という分野に酷く疎かった。
そして我が国ではこの病気をこのように呼んだ。
《森の旅人症候群》
情緒的に不安定になりやすい若い女性が多く発症する。
初期症状は鏡をぼんやりと眺めているだけだが、症状が進んでいくとぼんやりとする時間が増え、妄想を口にするようになる。更に悪化すると、森の中へ入り水辺で眠っているかのように水面を見つめる。最後には森の水辺から離れられなくなり餓死するか、水に身を沈め死亡する。
何故森の中にある水辺に行くのか、詳しいことは全く分かっていない。
共通して発する言葉は彼であり、ほとんどの発症者は彼に恋をしているような発言を繰り返す。父、兄、弟、又は恋人と想う違いはあるが。
彼女もまた医者にそのように判断され、戦火が比較的届いていない田舎へ疎開してきた。それからというもの、少女はいつもこの森に来ていた。
「お兄」
少女は立ち上がった。
「家に帰ろう」
少女が動いたことに安堵した彼はそう言って、妹の細い腕を引っ張る。だが、少女は動かなかった。
「お兄はいつ海軍兵学校へ行くの?」
彼は少し困ったように笑った。
「十二月」
妹は小さな声で呟いたが、兄の耳には届かなかった。
兄に手を引かれ、少女は歩き出す。
たった一度だけ、彼がいる世界を振り返った。
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