女王曰く、

野良

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 今までに一度だけ。俺は人が恋に落ちた瞬間を目撃したことがある。
 人が恋に落ちるのは意外と単純なもので。少し優しくされたりすると、コロッと思いを傾けてしまったりする。だから大抵のキッカケなんて、他人に聞かれたら一笑に付されて終わるような、そんなつまらないものだ。
 今でも思い出すたびに後悔する。どうしてあの日、菜々子の申し出を断らなかったのか。今この現状は、少しでも自分の姿を見て欲しいと思った罰が当たったのだろう。

「宏樹くん、あの人…」

 そう問いかける菜々子の目線は、一瞬たりとも外れることなく主将に向けられていた。凛とした袴姿、空を切る矢が的を射抜く音。同じ射手から見ても、その纏うすべてが特別なように思える姿は、彼女にはより鮮明に、魅力的に見えただろう。
 あの時、あの瞬間、菜々子の中には主将しかいなかった。今までずっと欲しくて、それでいて手に入ることがまったく想像できなかった彼女が其処にはいた。

「八木沼辰也先輩。うちの主将だよ」
「八木沼先輩…」

 夢現のような舌足らずさで主将の名前を呼ぶ菜々子に、自分が今どんな様なのか分からないまま向き合った。瞬きすら惜しいと、じっと主将を見つめ続ける菜々子はとても綺麗だった。それこそ、目が離せないほどに。
 母は言った。人を思える幸せを知りなさい、と。それが俺にとって一番大事なことだから、と。母は気づいていた。悠人への劣等感や、同い年でないが故に菜々子と悠人の中に入れない疎外感が一緒くたになって膨れ、胸の内を占めていることに。
 同じ年頃の子よりもずっと早熟だった俺は、自分が言い表せぬモヤモヤとした思いを指摘し、導こうとした母の言葉を素直に受け入れることができなかった。気づいてくれたと安堵するより、気づかれたと恥じる気持ちの方が強かった。それからというもの、傍にいられることが何より嬉しく、幸せなことなのだと自己暗示を繰り返し、醜い嫉妬で苦しくなることから進んで目をそらし続けた。
 しかし、それも悠人の気安い言葉で呆気なく終わった。触れて欲しくない奥底を撫でる。これだから家族は恐ろしい。

「宏樹くん」

 名を呼ばれるだけで満たされた時期は、とうに過ぎた。今やもう、俺の名を呼ぶ声にのる感情を欲しがっている。

「宏樹くん。私、また見に来てもいいかな」

 何を。誰を。そんなことは、とても口にできなかった。差し入れしてくれたらやる気出るかも、なんて軽口をたたきながら二つ返事で頷く。俺は今、きちんと笑えているのだろうか。どうせ、菜々子の目には映っていないのにそればかりが気になった。
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