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3話
しおりを挟む冷たい海の底に1人取り残され、暗闇の一部になってしまったようだった。いくら目を凝らしても自分の体さえ見えない。
冷えた体を縮こませながら辺りを見渡していると、遥か遠くに朧げな灯りが揺らいでいた。手を伸ばし灯りの元へ向かおうといくら足を動かしても近づけない。その光は意志があるかのように遠のいていく。
寒い、苦しい、早くこの場所から抜け出さなければならない。必死にもがいていると、一気に体に酸素が送り込まれ、温かい空気に包み込まれた。
「あ、起こしちゃった?」
声のする方を向くと人型のシルエットが座っている。シルエットの後方からは一筋の灯りが隙間から漏れていた。
「冬華さん?体冷えてる。」
ふわりと甘く爽やかな香りをさせたシルエットは、ささやくように言うと掛け布団を引っ張り上げながら、私の体をすっぽりと覆った。
「樹くん?」
「ん?」
ぼんやりとしていた意識が戻ってくる。私よりも15cmも大きい彼は私を掛け布団の上から包み込み、私の胸に顔を埋めていた。ばらけた髪が首元に触れて冷たい。
「シャワー入った?」
「うん。」
「私も入りたい。」
「うん。」
くぐもった声が返ってくる。マイナスイオンを放つ大木からじゃれつく大型犬になった彼は、私を覆う力を緩める様子はなかった。
多くを語らず、不用意な質問はしない。夜、隣で眠るだけの関係。それが一夜にして変わってしまった。心地よいソフレ関係はもう消えてしまったのだ。
私たちは今どんな関係になったのだろう。セフレに移行しただけなのだろうか?
20代半ばまでは一夜限りの関係やセフレがいたこともあったが、30歳に近づくにつれて恋愛やセックスを求めることは減っていった。
結婚願望や子どもを持つことを望んだこともなかった。この社会で、働き生活していくことに精一杯だったのだ。私は集団生活だけじゃなく、人間社会で生きる能力が低いらしい。
30歳を過ぎ、社会にいる時間が長くなると、自分に対して見えてくるものがあるのだ。
樹くんと、体の関係をずるずる続けていくことは考えられなかった。これからの関係に不安を感じ始めた時、しがみついていた大型犬が力を緩め、私の方を見上げてきた。
「痛いところない?」
目が慣れたようで溢れた光しかない部屋でも、彼が不安な瞳でこちらを伺ってるのがわかった。何の話をしているのか目覚めきれない頭を回転させていると、彼は待ちきれないというように私の体に顔を埋め、元の位置に戻っていった。
「、、、ごめん。無理させて。」
「大丈夫だよ。というか、すごく良かった。」
彼は私が体を合わせた後に、そのまま眠ってしまったことを気にかけているようだった。そのことに気づくと同時に、自分の体を見られてしまったことが急に恥ずかしくなってきた。20代から体重は変わっていなくても、30歳を過ぎると少しずつ体型は変わってきていた。ただ、彼に私の体は大丈夫だったかなど聞く勇気はない。
彼は何も言わず、私を包む力を強めた。そして、大木のような安心感を取り戻した彼は、軽く唇を合わせてきた。
唇が触れ合い彼の体温や匂いに包み込まれると、気怠げな体も、これから先のことに対する不安も薄れていく。その隙を狙うかのように深海から迫る眠気が私を襲い、温かな海へと引き込まれていった。
***
12月中旬を過ぎると、突然派遣の仕事が半減した。2年半も安定していた作業量が、海外の取引先の事情により減産になったのだ。
フルタイムだったところが、午前中だけの勤務になった。会社に確認しても、作業量が戻る見込みは未定らしい。転職を考えなければならなかった。
派遣会社から紹介された案件や自分で探した求人も含め、気に入った良い仕事がなかった。
今住んでいる地域の中で見つけるという条件がネックになっているようだが、生活するにも便利で自然も多いこの地域から出たくなかった。それに、樹くんとの距離が離れるのも、できれば避けたかった。
この1年、週末に同じベッドで寝るだけの関係が続いていた理由の1つは家の近さもあったのだ。関係が変わり、心の距離も物理的な距離も一気に変化することに抵抗があった。
20代と比べ、刺激より安定を求めるというのは変化を避けるということでもある。30歳を過ぎると、体だけでなく心境も変化していくのだ。
ままならない日々だったが、貯金もあり、転職を急ぐ必要はなかったので、ひとまず午前勤務だけのゆったりした日を満喫することにした。
職場や最寄り駅と反対方面に向かうと、住宅や林が入り混じりその間に道路が通っていた。歩きやすさもありながら、自然の中を散歩するのは気持ちが良かった。道中、気になる飲食店があればそこで少し遅めの昼食をとったりした。
樹くんとは関係が変わった日以来、彼の仕事が忙しく会えていなかった。
午前の仕事を終え寮に着く頃、雨が降りだした。昼食を調達するために、傘をさしてコンビニに向かった。
寮から近いコンビニはどこも店舗が小さく、駅も近いため、混雑し買い物がしづらいので、歩いて7,8分のところにある大型店舗に向かった。
道幅の広い道路に面し、そこだけ住宅街から解放されたような空間にそのコンビニはあった。コンビニを通り過ぎて道なりにまっすぐ歩けば10分ほどで樹くんの住むマンションがある。
会うことはできなかったが、彼はこまめに連絡をくれていた。送られてくる内容から、どうやら樹くんは在宅でフリーランスのような働き方をしているようだった。
コンビニで買い物を済ませ、お店を出ると、向かいの歩道で男女が何やら揉めているような姿が目に入ってきた。男性の方には見覚えがあり、よく見ると樹くんだった。
樹くんの隣には、180cmの彼とバランスの取れた長身の女性がいた。ロングヘアを軽く巻き、キャップを被っていた。ホワイトのショート丈のダウンコートに黒のスキニーパンツを着ていた。キャップの隙間から見える横顔は白く、ふっくらと血色の良い唇が動いていた。遠目で雨で視界が悪くても、整った容姿をしているのがわかった。
彼の袖を引っ張りながら何かを訴えている女性は、彼氏に甘える彼女にしか見えなかった。2人はパラパラと降る雨なんて気にならないようで、傘を持っていなかった。
その恋人同士のような男女を見ていると、男性の方がふとこちらに顔を向けた。
私はここに居てはいけないような気がして、逃げるようにその場を去った。一瞬、樹くんと目が合ったような気がした。遠目からでも彼の放つ柔らかく温かい触れ、いつも心の隅にある不安定な揺らぎが落ち着くようだった。
足早にコンビニから距離を取る。樹くんと綺麗な女の子の関係に持ってかれそうになる思考を振り切るように、寮の方へ向かった。
「冬華さん!」
後ろから呼ばれる声も近づく足音も聞こえないふりをした。すると腕を掴まれ、それ以上進めなくなってしまった。突然のことに、肩が跳ね上がる。
「待って」
少し息を切らした樹くんが、少し怒りを含んだ声で言った。私から傘をとり、雨から守るようにさした。
私は振り返ることができなかった。あの女の子と私はあまりにも違い過ぎた。仕事帰りでメイクもせず、毛玉のついたフーディーに色褪せたワイドパンツ、追い打ちをかけるように髪は無造作に一つにまとめていた。
「こっち向いて」
「無理」
「何で逃げたの?」
「逃げてない」
「顔見せて」
「無理」
その場から少しでも早く立ち去りたかった。掴まれた腕を振り切ろうとすると、逆に彼に引っ張られ、気づけば、樹くんの胸に抱きしめられていた。
「僕の方が無理だから」
今度は少し悲しげに彼は言った。
「あの人は、高校の同級生でただの友達。たまに仕事を回してもらってることもあって、それで少し会ってただけだよ。」
そんな説明を聞いたって、顔を上げられるわけがなかった。こんな自分を樹くんに見られたくなかった。自分で自覚している以上に、彼との関係を大事に思っているのかもしれない。
「違うの。」
私が声を発した途端、2人の間を割くように、低い唸り声が聞こえてきた。樹くんのスマホに電話がかかってきているようだった。
彼の胸から出ようとして下がると、樹くんはしぶしぶスマホを取り出し、画面をタップし着信を切ったようだった。だがすぐにまた樹くんのスマホが震え出した。
「行って。」
「ごめん、仕事に戻らないと。また連絡する。」
彼は名残惜しそうにそう言うと、持っていた傘を私に返して来た道を小走りで戻って行った。
樹くんの後ろ姿が見えなくなると、傘に当たる雨粒の音が次第に強くなってきた。さっき見たドラマのワンシーンのような男女の光景も、樹くんの胸の中の温かさも、捨て去るように帰路を急いだ。
~ つづく ~
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