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「……んん、ここは天国かしら。それとも極楽浄土かしら」
エーリカがゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには見慣れたアステリア公爵邸の天井があった。
窓からは柔らかな朝日が差し込み、小鳥のさえずりが心地よく響いている。
枕元の時計を確認すると、時刻は午前十時を回っていた。
王宮にいた頃なら、すでに三つの会議を終え、五通の親書を書き上げていた時間だ。
「……素晴らしいわ。起きて最初に考えるのが『今日の予算編成』ではなく、『二度寝をするかしないか』だなんて!」
エーリカはベッドの中でゴロゴロと転がった。
その時、鏡に映った自分の顔を見て、彼女は目を見開いた。
「あら。あらあらあら!?」
慌てて飛び起き、鏡の前に駆け寄る。
そこには、昨日までの疲れ切った表情が嘘のように消え去り、内側から発光しているかのような瑞々しい肌の自分がいた。
「お肌が、お肌がツヤツヤですわ! これ、高級な美容液を十本くらい一気に流し込んだレベルじゃないかしら!」
コンコン、と控えめなノックの音が響き、メイドが入ってきた。
「お嬢様、お目覚めですか? まぁ、なんてお美しい……! 昨夜のたっぷりとした睡眠が、最高のアンプルになったようですわね」
「そうなのよ、マリー! 見て、この弾力。指を押し返してくるわ。仕事という名の毒素がいかに恐ろしいか、身をもって知ったわね」
エーリカが自分の頬をツンツンと突ついて喜んでいると、階下から地響きのような足音が近づいてきた。
扉が勢いよく開かれ、父ラインハルトが血相を変えて飛び込んでくる。
「エーリカ! 大変だ! いや、大変ではないかもしれんが、とにかく一大事だ!」
「父様、落ち着いてください。私は今、人生で最高のお肌のコンディションを楽しんでいる最中なんです。これ以上の『一大事』なんて、この世にありませんわ」
「そうも言っていられん! 門前に、隣国の若き辺境伯、クラウス・ハインリヒ殿が来ているのだ!」
エーリカは一瞬、記憶のインデックスを高速で検索した。
「クラウス・ハインリヒ……。あぁ、あの『氷の騎士』とか『戦場の死神』とか呼ばれている、愛想の欠片もない方ですわね。二年前の通商条約の調印式で、一度だけお会いしたことがありますわ」
「その彼が、なぜかフル装備の甲冑姿で『エーリカ殿に、至急お伝えしたい儀がある!』と叫んでいるんだ! しかも、手に持っているのは剣ではなく、なぜか真っ赤なバラの花束だぞ!」
エーリカは首を傾げた。
あの冷徹な騎士がバラの花束。その組み合わせは、算術的に考えても計算式が成立しない。
「きっと、何か私に文句でもあるのでしょう。あの時、私が彼の領地の関税をコンマ数パーセント上乗せしましたから。……ハンス! とりあえず、彼を応接室に通して。私は着替えてから行きますわ」
「お嬢様、よろしいのですか? お肌の休息日なのに」
「ええ。せっかく綺麗になった顔ですもの。文句を言いに来た騎士を、美貌で圧倒してやるのも一興だわ」
エーリカは不敵な笑みを浮かべた。
彼女はまだ気づいていなかった。
自分が「事務作業」という名の戦場で、どれほど多くの男たちの心を射抜いていたのかを。
三十分後。
応接室の扉を開けたエーリカの目に飛び込んできたのは、椅子にも座らず、直立不動で待機している銀髪の美青年だった。
「お待たせいたしました、ハインリヒ閣下。本日はどのような御用で……」
エーリカが挨拶を終えるより先に、クラウスが凄まじい勢いで床に片膝をついた。
「エーリカ・フォン・アステリア殿! 貴殿が婚約破棄され、国外追放を命じられたと聞き、馬を飛ばして参った!」
「ええ、その通りですわ。耳が早いですわね」
「――ならば、話は早い! 我が国へ来い! 貴殿のような至宝をゴミのように扱う愚か者の下になど、一秒たりとも置くわけにはいかない!」
クラウスはバラの花束を差し出し、射抜くような鋭い視線をエーリカに向けた。
「我が領の全権を貴殿に委ねよう! いや、私の人生そのものを管理してほしい! 私は、貴殿が書いたあの美しい予算案を見た時から、貴殿に心を奪われていたのだ!」
「……はい?」
エーリカの頭の中から、一瞬にして「休息」の二文字が吹き飛んだ。
目の前の男は、スカウトに来たのか、それともプロポーズに来たのか。
どちらにせよ、エーリカが求めていた「静かなニート生活」とは、真逆の方向に事態が動き出そうとしていた。
エーリカがゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには見慣れたアステリア公爵邸の天井があった。
窓からは柔らかな朝日が差し込み、小鳥のさえずりが心地よく響いている。
枕元の時計を確認すると、時刻は午前十時を回っていた。
王宮にいた頃なら、すでに三つの会議を終え、五通の親書を書き上げていた時間だ。
「……素晴らしいわ。起きて最初に考えるのが『今日の予算編成』ではなく、『二度寝をするかしないか』だなんて!」
エーリカはベッドの中でゴロゴロと転がった。
その時、鏡に映った自分の顔を見て、彼女は目を見開いた。
「あら。あらあらあら!?」
慌てて飛び起き、鏡の前に駆け寄る。
そこには、昨日までの疲れ切った表情が嘘のように消え去り、内側から発光しているかのような瑞々しい肌の自分がいた。
「お肌が、お肌がツヤツヤですわ! これ、高級な美容液を十本くらい一気に流し込んだレベルじゃないかしら!」
コンコン、と控えめなノックの音が響き、メイドが入ってきた。
「お嬢様、お目覚めですか? まぁ、なんてお美しい……! 昨夜のたっぷりとした睡眠が、最高のアンプルになったようですわね」
「そうなのよ、マリー! 見て、この弾力。指を押し返してくるわ。仕事という名の毒素がいかに恐ろしいか、身をもって知ったわね」
エーリカが自分の頬をツンツンと突ついて喜んでいると、階下から地響きのような足音が近づいてきた。
扉が勢いよく開かれ、父ラインハルトが血相を変えて飛び込んでくる。
「エーリカ! 大変だ! いや、大変ではないかもしれんが、とにかく一大事だ!」
「父様、落ち着いてください。私は今、人生で最高のお肌のコンディションを楽しんでいる最中なんです。これ以上の『一大事』なんて、この世にありませんわ」
「そうも言っていられん! 門前に、隣国の若き辺境伯、クラウス・ハインリヒ殿が来ているのだ!」
エーリカは一瞬、記憶のインデックスを高速で検索した。
「クラウス・ハインリヒ……。あぁ、あの『氷の騎士』とか『戦場の死神』とか呼ばれている、愛想の欠片もない方ですわね。二年前の通商条約の調印式で、一度だけお会いしたことがありますわ」
「その彼が、なぜかフル装備の甲冑姿で『エーリカ殿に、至急お伝えしたい儀がある!』と叫んでいるんだ! しかも、手に持っているのは剣ではなく、なぜか真っ赤なバラの花束だぞ!」
エーリカは首を傾げた。
あの冷徹な騎士がバラの花束。その組み合わせは、算術的に考えても計算式が成立しない。
「きっと、何か私に文句でもあるのでしょう。あの時、私が彼の領地の関税をコンマ数パーセント上乗せしましたから。……ハンス! とりあえず、彼を応接室に通して。私は着替えてから行きますわ」
「お嬢様、よろしいのですか? お肌の休息日なのに」
「ええ。せっかく綺麗になった顔ですもの。文句を言いに来た騎士を、美貌で圧倒してやるのも一興だわ」
エーリカは不敵な笑みを浮かべた。
彼女はまだ気づいていなかった。
自分が「事務作業」という名の戦場で、どれほど多くの男たちの心を射抜いていたのかを。
三十分後。
応接室の扉を開けたエーリカの目に飛び込んできたのは、椅子にも座らず、直立不動で待機している銀髪の美青年だった。
「お待たせいたしました、ハインリヒ閣下。本日はどのような御用で……」
エーリカが挨拶を終えるより先に、クラウスが凄まじい勢いで床に片膝をついた。
「エーリカ・フォン・アステリア殿! 貴殿が婚約破棄され、国外追放を命じられたと聞き、馬を飛ばして参った!」
「ええ、その通りですわ。耳が早いですわね」
「――ならば、話は早い! 我が国へ来い! 貴殿のような至宝をゴミのように扱う愚か者の下になど、一秒たりとも置くわけにはいかない!」
クラウスはバラの花束を差し出し、射抜くような鋭い視線をエーリカに向けた。
「我が領の全権を貴殿に委ねよう! いや、私の人生そのものを管理してほしい! 私は、貴殿が書いたあの美しい予算案を見た時から、貴殿に心を奪われていたのだ!」
「……はい?」
エーリカの頭の中から、一瞬にして「休息」の二文字が吹き飛んだ。
目の前の男は、スカウトに来たのか、それともプロポーズに来たのか。
どちらにせよ、エーリカが求めていた「静かなニート生活」とは、真逆の方向に事態が動き出そうとしていた。
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