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「……閣下、少々お伺いしてもよろしいでしょうか」
エーリカは、目の前で跪く銀髪の騎士――隣国の辺境伯クラウス・ハインリヒを見下ろし、引き攣りそうな頬を必死に押さえた。
彼が差し出しているのは、燃えるように赤いバラの花束。
そしてその瞳に宿っているのは、戦場での鋭い殺気ではなく、もっと質(たち)の悪い、狂信的なまでの「熱」だった。
「何なりと。貴殿の問いに答えることこそ、今の私の至上の喜びだ」
「……先ほど、私の『人生を管理してほしい』と仰いましたわね? それから『予算案に心を奪われた』とも」
「いかにも! 二年前、我が領との通商条約の際、貴殿が作成した修正案……。あの完璧なまでの論理構成、一切の無駄を削ぎ落とした数字の羅列、そして隅々にまで行き届いた美しいフォント! 私は、あれを読んだ夜、興奮で一睡もできなかった!」
クラウスは立ち上がると、一歩、エーリカに詰め寄った。
彼から漂うのは、清涼な森の香りと、隠しきれない強者の威圧感だ。
だが、口から出ている言葉は極めて残念なものである。
「あの書類こそ、私の理想とする女性像そのものだった。あれを書いた人物がいかなる淑女か、私はずっと想いを馳せていたのだ。それが、あのような馬鹿王子に蔑ろにされていると聞き、居ても立ってもいられず……!」
「閣下、落ち着いてください。あれは単なる『事務作業』の結果に過ぎませんわ。それよりも、私は昨日、国外追放を言い渡された身。今はただ、静かに眠りたいのです。誰の人生も、ましてや辺境の領地経営なんて、管理するつもりは毛頭ございません」
エーリカはきっぱりと、かつ優雅に断りの言葉を告げた。
今の彼女の目標は、あくまで「ニート生活」の完遂である。
有能な騎士とのロマンスなど、残業の元でしかない。
「管理したくない……? そうか、なるほど。貴殿は、今の私では『管理する価値がない』と仰るのだな」
「いえ、そういう意味では――」
「安心しろ。我が領地の財務状況は今、最悪だ! 先代からの放漫経営により、帳簿は火の車、騎士団の装備はボロボロ、領民の不満は爆発寸前! これ以上にないほど、貴殿が腕を振るいがいのある、真っ黒なブラック環境だぞ!」
クラウスが、なぜか誇らしげに胸を張った。
エーリカは思わず、持っていた扇子を床に落としそうになった。
この男、誘い文句のベクトルが完全に狂っている。
「……閣下。普通、女性を誘う時は『私の領地は豊かで、君は何不自由なく暮らせる』と言うものではなくて?」
「貴殿にそのような退屈な言葉は失礼だ。私は知っている。貴殿は、解決困難な難題を冷徹に処理していく瞬間にこそ、その美貌を最も輝かせる女性だということを!」
「買い被りすぎですわ! 私はただ、早く仕事を終わらせて寝たかっただけです!」
二人の会話を、応接室の陰で見守っていた父ラインハルトが、こっそりとハンスに耳打ちした。
「……ハンスよ。あのハインリヒ閣下、うちの娘の『取扱説明書』を、私以上に熟知しているのではないか?」
「左様でございますな、旦那様。お嬢様の有能さに惚れ込むとは、なかなかの慧眼。ですが、残念ながら今のお嬢様には逆効果のようで」
エーリカは、ぐいぐいと距離を詰めてくるクラウスに対し、一歩後ろに下がって宣言した。
「ハインリヒ閣下、お引き取りください。私は今、お肌のコンディションを整えるという、人生で最も重要なプロジェクトの最中なのです。隣国の内政に関わっている余裕はありませんわ」
「お肌……? あぁ、なるほど。つまり、この国にいては休まらないということか。ならば話は早い。私の馬車に乗れ。国境を越えれば、そこはもう私の領地だ。追手も、あの無能な王子も、指一本触れさせん」
クラウスはエーリカの手を、半ば強引に、それでいて壊れ物を扱うような優しさで包み込んだ。
「エーリカ殿。私は本気だ。貴殿を、我が領地の……いや、私の『女神』として迎え入れたい。返事は今すぐでなくていい。だが、このバラが枯れる前には、もう一度会いに来る」
そう言い残すと、クラウスは颯爽と踵を返し、風のように去っていった。
残されたのは、真っ赤なバラの花束と、人生で初めて「仕事以外の理由」で攻略対象にされたエーリカだけだった。
「……なんなのよ、あの男。領地がブラックだから来いだなんて、正気かしら?」
エーリカは毒づきながらも、ふと鏡を見た。
そこには、困惑しながらも、どこか楽しそうに頬を上気させた自分の姿があった。
仕事中毒の彼女にとって、ある意味でクラウスの「熱」は、最も強力な毒か、あるいは特効薬だったのかもしれない。
エーリカは、目の前で跪く銀髪の騎士――隣国の辺境伯クラウス・ハインリヒを見下ろし、引き攣りそうな頬を必死に押さえた。
彼が差し出しているのは、燃えるように赤いバラの花束。
そしてその瞳に宿っているのは、戦場での鋭い殺気ではなく、もっと質(たち)の悪い、狂信的なまでの「熱」だった。
「何なりと。貴殿の問いに答えることこそ、今の私の至上の喜びだ」
「……先ほど、私の『人生を管理してほしい』と仰いましたわね? それから『予算案に心を奪われた』とも」
「いかにも! 二年前、我が領との通商条約の際、貴殿が作成した修正案……。あの完璧なまでの論理構成、一切の無駄を削ぎ落とした数字の羅列、そして隅々にまで行き届いた美しいフォント! 私は、あれを読んだ夜、興奮で一睡もできなかった!」
クラウスは立ち上がると、一歩、エーリカに詰め寄った。
彼から漂うのは、清涼な森の香りと、隠しきれない強者の威圧感だ。
だが、口から出ている言葉は極めて残念なものである。
「あの書類こそ、私の理想とする女性像そのものだった。あれを書いた人物がいかなる淑女か、私はずっと想いを馳せていたのだ。それが、あのような馬鹿王子に蔑ろにされていると聞き、居ても立ってもいられず……!」
「閣下、落ち着いてください。あれは単なる『事務作業』の結果に過ぎませんわ。それよりも、私は昨日、国外追放を言い渡された身。今はただ、静かに眠りたいのです。誰の人生も、ましてや辺境の領地経営なんて、管理するつもりは毛頭ございません」
エーリカはきっぱりと、かつ優雅に断りの言葉を告げた。
今の彼女の目標は、あくまで「ニート生活」の完遂である。
有能な騎士とのロマンスなど、残業の元でしかない。
「管理したくない……? そうか、なるほど。貴殿は、今の私では『管理する価値がない』と仰るのだな」
「いえ、そういう意味では――」
「安心しろ。我が領地の財務状況は今、最悪だ! 先代からの放漫経営により、帳簿は火の車、騎士団の装備はボロボロ、領民の不満は爆発寸前! これ以上にないほど、貴殿が腕を振るいがいのある、真っ黒なブラック環境だぞ!」
クラウスが、なぜか誇らしげに胸を張った。
エーリカは思わず、持っていた扇子を床に落としそうになった。
この男、誘い文句のベクトルが完全に狂っている。
「……閣下。普通、女性を誘う時は『私の領地は豊かで、君は何不自由なく暮らせる』と言うものではなくて?」
「貴殿にそのような退屈な言葉は失礼だ。私は知っている。貴殿は、解決困難な難題を冷徹に処理していく瞬間にこそ、その美貌を最も輝かせる女性だということを!」
「買い被りすぎですわ! 私はただ、早く仕事を終わらせて寝たかっただけです!」
二人の会話を、応接室の陰で見守っていた父ラインハルトが、こっそりとハンスに耳打ちした。
「……ハンスよ。あのハインリヒ閣下、うちの娘の『取扱説明書』を、私以上に熟知しているのではないか?」
「左様でございますな、旦那様。お嬢様の有能さに惚れ込むとは、なかなかの慧眼。ですが、残念ながら今のお嬢様には逆効果のようで」
エーリカは、ぐいぐいと距離を詰めてくるクラウスに対し、一歩後ろに下がって宣言した。
「ハインリヒ閣下、お引き取りください。私は今、お肌のコンディションを整えるという、人生で最も重要なプロジェクトの最中なのです。隣国の内政に関わっている余裕はありませんわ」
「お肌……? あぁ、なるほど。つまり、この国にいては休まらないということか。ならば話は早い。私の馬車に乗れ。国境を越えれば、そこはもう私の領地だ。追手も、あの無能な王子も、指一本触れさせん」
クラウスはエーリカの手を、半ば強引に、それでいて壊れ物を扱うような優しさで包み込んだ。
「エーリカ殿。私は本気だ。貴殿を、我が領地の……いや、私の『女神』として迎え入れたい。返事は今すぐでなくていい。だが、このバラが枯れる前には、もう一度会いに来る」
そう言い残すと、クラウスは颯爽と踵を返し、風のように去っていった。
残されたのは、真っ赤なバラの花束と、人生で初めて「仕事以外の理由」で攻略対象にされたエーリカだけだった。
「……なんなのよ、あの男。領地がブラックだから来いだなんて、正気かしら?」
エーリカは毒づきながらも、ふと鏡を見た。
そこには、困惑しながらも、どこか楽しそうに頬を上気させた自分の姿があった。
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