婚約破棄? 喜んで! ついでにこれも返却しますね?

ちゅんりー

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「お断りします。一秒たりとも、検討の余地はございませんわ」

アステリア公爵邸のサンルーム。
エーリカは、差し出されたばかりの『ハインリヒ領・直近三年の財務諸表』を、指先一つ触れることなく押し返した。
その動きは、まるで汚物でも避けるかのような、淀みのない洗練された拒絶だった。

対面に座るクラウスは、意外そうに眉を跳ね上げる。

「なぜだ。中身を見ていないだろう。この帳簿は、十人以上の会計士が発狂して放り出した、至高の難解パズルだぞ。一箇所を直せば別の場所で矛盾が生じる、実にやりがいのある……」

「閣下。一般的な男性は、女性にパズルを贈る際、宝石や花を添えるものです。十人の会計士が発狂した呪いの書など、嫌がらせ以外の何物でもありませんわ」

エーリカは優雅に紅茶を啜り、ふぅと息を吐いた。
彼女の瞳は、目の前の絶世の美男子よりも、カップの中で揺れる茶葉の行方に注がれている。

「いいですか、閣下。私は今、人生で最も崇高な任務に就いているのです。それは『何もしない』という任務です」

「何もしない? 貴殿のような才女が、そんな無価値なことに時間を使うというのか」

「無価値ではありません! 朝、鳥の声で目覚め、二度寝をする。昼、日の当たる場所で猫と場所を取り合う。夜、明日の予定が何一つないことに感謝しながら眠る。これ以上の贅沢が、この世にあるとお思い?」

エーリカの熱弁に、クラウスはしばし沈黙した。
そして、彼はゆっくりと、獲物を見定めた騎士のような鋭い笑みを浮かべる。

「なるほど。つまり貴殿は、今の私が提示した『報酬』が足りないと言っているのだな」

「話を聞いていましたか? 報酬の問題ではありません」

「分かっている。自由を愛する貴殿を束縛するには、それ相応の対価が必要だ。よかろう、ハインリヒ領の全騎士の指揮権も与えよう。彼らを自由に配置し、貴殿の昼寝の邪魔をする者を排除させるがいい」

「権力が増えてるじゃないですか! 余計に眠れなくなりますわ!」

エーリカは思わず身を乗り出した。
この男、恐ろしい。
彼女が「休みたい」と言えば言うほど、彼はそれを「高度な駆け引き」だと勘違いし、より重い責任を上乗せしてくるのだ。

「閣下、私は本気でお断りしているのです。これ以上、私を労働の渦に引き込もうとするなら、不敬を承知でこの紅茶を頭からおかけしますわよ?」

「……ふむ。怒った顔もまた、知的で美しいな」

「褒めてません!」

クラウスは立ち上がると、エーリカのすぐ横に立った。
彼の影がエーリカを覆い、サンルームにわずかな緊張が走る。
彼はエーリカの返答を遮るように、その細い指先に触れた。

「エーリカ。私は、貴殿が王宮でどれほど孤独に戦っていたかを知っている。誰も理解できない複雑な数式を一人で解き、報われない功績を積み上げてきた。その指先についたペンダコが、貴殿の努力の証だ」

クラウスの低く、心地よい声がエーリカの耳を打つ。
一瞬、彼女の胸の奥が、小さな音を立てて震えた。
初めて、自分の『労働』そのものを、正しく評価されたような気がしたからだ。

「……見ていらしたのね。誰も気づかなかったのに」

「あぁ。だからこそ、その力を他人のために浪費させたくない。私の領地へ来い。そこでは貴殿は、誰の代行でも、誰の影でもない。エーリカ・フォン・アステリアという一人の支配者として、君臨してほしいのだ」

「……」

「もちろん、気が向くまで昼寝をしていても構わん。貴殿が起きた時、解くべき難題が山積みになっている環境だけは、私が責任を持って維持しよう」

「結局、働かせようとしているじゃないですか!」

エーリカはパッと手を引き、顔を赤らめて叫んだ。
せっかくの感動的な空気が、最後の最後で台無しである。

「お帰りください! 私は、絶対に、働きませんわ!」

「そうか。ならば明日は、さらに難解な『領内物流の混乱図』を持ってこよう。……貴殿が、思わずペンを握りたくなるような絶望的なやつをな」

クラウスは満足げに頷くと、颯爽と去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、エーリカはガックリと肩を落とした。

「……ハンス。あの男、ある意味で王子よりタチが悪いですわ」

「お嬢様。あの方は、お嬢様の『弱点』を突くのが実にお上手ですな」

「弱点? 私にそんなもの、ありませんわ」

「いいえ。お嬢様は、目の前に『グチャグチャな数字』があると、直さずにはいられない体質でしょう? 閣下はそれを見抜いておいでです」

エーリカはハッとした。
確かに、彼が置いていった財務諸表の端っこが、少しだけ計算が合っていなかったのが、先ほどから気になって仕方がなかったのだ。

「……嫌だわ。私、もしかして、もう彼の術中にはまっているのかしら?」

エーリカは震える手で、放置された帳簿をチラリと見た。
「修正したい」という本能と、「寝たい」という理性の、壮絶な戦いが幕を開けた瞬間であった。
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