婚約破棄? 喜んで! ついでにこれも返却しますね?

ちゅんりー

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「……もう限界ですわ、父様」

アステリア公爵邸の居間にて、エーリカは深々とソファに沈み込んでいた。
その手には、昨日クラウスが「独り言」として置いていった、ハインリヒ領の物流ルートの改善案が握られている。

「どうした、エーリカ。あんなにツヤツヤだったお肌が、また少し曇っているぞ。あの隣国の黒騎士め、また何か難題を押し付けていったのか?」

「いいえ、押し付けられてはいませんわ。ただ、この改善案……。あまりにも詰めが甘くて、見ているだけで右手が震えるのです。ここをこうして、この関税をこう動かせば、三割は効率が上がるのに! あぁ、書き直したい! でも書き直したら私の負けですわ!」

エーリカは頭を抱えて悶絶した。
仕事中毒者にとって、「目の前の不効率を放置する」というのは、どんな拷問よりも過酷な仕打ちである。

ラインハルトは娘の様子を見て、重々しく頷いた。

「重症だな。……よし、エーリカ。旅に出なさい」

「旅、ですか?」

「そうだ。王都の騒がしさからも、あのしつこい黒騎士からも離れるのだ。幸い、我が公爵家の保養地が国境近くにある。そこには大陸一とも言われる名湯、バート・マリス温泉があるぞ」

温泉。その響きに、エーリカの耳がピクリと動いた。

「温泉……。誰にも邪魔されず、朝から晩までお湯に浸かり、美味しいものを食べて、ただ寝るだけの場所ですの?」

「そうだ。そこには帳簿もなければ、無能な王子もいない。ついでに言うなら、ハインリヒ閣下もそこまでは追ってこれまい。あそこは中立地帯に近いからな」

エーリカの脳内に、湯煙に包まれた極楽の光景が広がった。
そうだ。今の自分に必要なのは、ペンを握るための指先を休めることではなく、全身をふやけるまで甘やかすことなのだ。

「行きますわ、父様! 今すぐ準備をいたします!」

「お嬢様、すでに荷造りは済ませております」

いつの間にか背後に立っていたハンスが、旅行カバンを掲げて言った。

「さすがハンス、仕事が早いわね! あ、でも、そのカバンの中に……。まさか、あの改善案を入れていたりはしないでしょうね?」

「万が一、お嬢様が禁断症状を起こされた時のために、一番底に忍ばせておきましたが」

「捨てなさい! 今すぐ暖炉に放り込んでちょうだい! 私は、真っ白な頭で温泉に行くのですわ!」

エーリカは決意を新たにし、意気揚々と公爵邸を後にした。
今回の旅の目的はただ一つ。「徹底的な無能」になることである。

馬車に揺られること二日。
エーリカが到着したのは、美しい渓谷に囲まれた風光明媚な温泉街だった。

「まぁ……。なんて素敵な空気かしら。インクの匂いもしないし、紙の擦れる音も聞こえないわ!」

案内された老舗旅館の最上階の部屋。
窓からはエメラルドグリーンの川が見え、心地よい風が通り抜ける。

エーリカは、到着するなり着慣れない浴衣のような寛ぎ着に着替えた。

「ハンス、見てちょうだい。今の私は、ただの『お湯を愛する一人の女』よ。公爵令嬢でもなければ、元事務方トップでもないわ」

「左様でございますな。お顔の緊張もだいぶ解けて、少々ぼんやりしたお顔になっておいでです」

「失礼ね。これを『リラックス』と言うのよ。さあ、さっそくお湯をいただきに行ってきますわ!」

エーリカはタオルを手に、意気揚々と大浴場へと向かった。
広い露天風呂には誰もいない。
彼女は周囲を警戒しながら(誰もいないのに)、ゆっくりとその身を湯船に沈めた。

「……はぁぁぁ。溶ける。私が、液体になって流れていきそうですわ」

四十二度前後の絶妙な湯加減。
肌を滑る滑らかなお湯が、三年間蓄積された「ブラック労働の呪い」を、じわじわと洗い流していく。

目をつぶれば、聞こえてくるのは川のせせらぎと、遠くで鳴く鹿の声だけ。

「そうよ……。私は、こういう生活がしたかったの。誰にも急かされず、誰の責任も取らず。あぁ、なんて贅沢なのかしら」

エーリカは湯船の縁に頭を預け、完全に脱力した。
あまりの気持ちよさに、意識が遠のいていく。

だが、そんな極楽浄土のような静寂を破る音が、突如として響いた。

「――おぉ、これはいい湯だ。長旅の疲れが、芯まで解けていくようだな」

隣の男湯から聞こえてきた、低くて聞き覚えのある、凛とした声。
エーリカは、目を見開いて硬直した。

(この声……。嘘でしょう? まさか、こんなところまで!?)

「ハハハ。閣下、やはりここまで追いかけてきて正解でしたな。エーリカ様も、さぞかし驚かれることでしょう」

続いて聞こえてきたのは、クラウスの側近の声だった。

エーリカは、お湯の中で泡を吹かんばかりに震えた。
中立地帯。名湯。
……そういえば、ここは隣国の貴族たちも頻繁に訪れる場所だったことを、彼女は完全に失念していたのである。
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