悪役令嬢、婚約破棄に「御意!」と即答!

ちゅんりー

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「リズナ・フォン・アークライト! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」


王宮の大広間に、よく通るテノールが響き渡りました。

シャンデリアの煌めきも、優雅なオーケストラも、着飾った貴族たちの談笑も、その一言ですべてが凍りつきます。

声の主は、この国の第一王子、ギルバート殿下。

金髪碧眼、絵に描いたような王子様である彼は、私の視線の先で芝居がかったポーズを決めていました。その隣には、小動物のように震える男爵令嬢、ミア様の姿があります。

まるで舞台のワンシーンのような光景。

周囲の貴族たちは息を呑み、扇子で口元を隠しながら、哀れな公爵令嬢――つまり私、リズナの反応を待ち構えています。

泣き崩れるのか。それとも、怒りに震えて罵倒するのか。

場の緊張が最高潮に達した、その時でした。


「御意(ぎょい)!」


私は即座に、かつ明瞭に答えました。

0.1秒の迷いもありません。

あまりにも食い気味な返答に、ギルバート殿下の口が半開きになります。


「……は?」

「聞こえませんでしたか、殿下。御意、と申し上げたのです。謹んでそのお言葉、お受けいたします」


私は無表情のまま、ドレスの隠しポケットから一枚の羊皮紙を取り出しました。

そして懐から携帯用のインク壺と羽根ペンを取り出し、流れるような動作でサラサラと署名を始めます。


「な、なんだそれは……」

「婚約解消の合意書です。いつかこの日が来るかと想定し、事前に作成しておりました。日付も空欄にしておきましたので、今夜の日付を記入すれば法的効力が発生します」


私は書き終えた書類を、うやうやしく殿下に差し出しました。


「さあ殿下、こちらにサインを。拇印でも構いませんよ」

「ま、待て! 待て待て待て!」


ギルバート殿下が慌てて後ずさりしました。

隣にいたミア様も、涙目でキョトンとしています。どうやらシナリオ通りに進んでいないことに戸惑っているようです。


「リズナ、貴様……悲しくはないのか!?」

「悲しい?」


私は首を傾げました。

なぜ、ここで感情論が出てくるのでしょう。


「契約の解除は、双方の合意があれば成立します。殿下は破棄を望み、私はそれを受諾した。利害が一致しているのですから、ここに悲しむ要素など1ミクロンもございません」

「そ、そういう問題ではない! もっとこう、あるだろう! 『どうしてですか殿下!』とか、『お慕いしておりましたのに!』とか!」

「非効率的です」


私はバッサリと切り捨てました。


「殿下の御心が変わった。それは変えようのない事実です。ならば、私がすべきは泣いて縋ることではなく、速やかに事務処理を行い、互いの人生の再スタートを切ること。違いますか?」

「ぐぬ……っ」

「それに、この会場のレンタル時間はあと二時間です。このまま無駄な問答を続けては、他の方々の貴重なダンスタイムを奪うことになります。さあ、サインを」


私は書類をさらにグイと押し付けました。

殿下の顔が引きつります。

私のこの性格――『合理的すぎて可愛げがない』というのは、かねてより指摘されていた欠点でした。しかし、この局面においては最大の武器です。


「だ、黙れ! この冷血女め!」


殿下は顔を真っ赤にして叫びました。


「貴様がそうやって、いつも私を見下しているのが気に入らなかったのだ! さらに、愛しいミアに対して数々の嫌がらせを行ってきたことも知っているぞ!」


出ました。

婚約破棄イベントにおける必須項目、冤罪(えんざい)の羅列です。

私は心の中で「やれやれ」と溜息をつきつつ、表情筋は死守しました。


「嫌がらせ、ですか」

「とぼけるな! ミアの教科書を破いたり、ドレスにワインをかけたり、階段から突き落とそうとしたりしただろう!」


ミア様が殿下の腕にしがみつき、「怖かった……」と嘘泣きを始めます。

周囲の貴族たちが、「まあ、なんて恐ろしい」「やはり噂は本当だったのね」とヒソヒソ囁き始めました。

完全にアウェイな空気。

普通ならここで孤立無援となり、絶望するところでしょう。

ですが、私は冷静に懐中時計を確認しました。


「……今の発言の根拠は?」

「は?」

「証拠はあるのですか、と聞いています。教科書、ドレス、階段。目撃者は? 物的証拠は? まさかミア様の証言のみで私を断罪するおつもりではないでしょうね?」


私が淡々と問い詰めると、殿下はたじろぎました。


「そ、それは……ミアが泣いて訴えてきたのだから、真実に決まっている!」

「感情と事実は別物です、殿下」


私は眼鏡をクイと上げ(伊達眼鏡です)、論理の展開を開始しました。


「まず、教科書を破く件。私は公爵令嬢として、一日の大半を公務の補助と勉学に費やしております。学園でミア様の教科書を探し出し、一枚一枚破くような非生産的な作業に割く時間はございません。時給換算で大赤字です」

「じ、時給……?」

「次にドレスのワイン。私はボルドー産の赤ワインしか好みません。ミア様のドレスにかかっていたのは、成分分析せずとも安物のハウスワインだと色と香りで分かります。私の美意識が、そのような安酒を手に取ることを許しません」


周囲から「あ、ある意味説得力が……」という声が漏れました。


「そして、階段突き落とし未遂」


私は一歩、ミア様に近づきました。

ミア様が「ひっ」と声を上げて殿下の背後に隠れます。


「物理的に不可能です」

「な、なぜだ!」

「私のこの細腕をご覧ください。そして、ミア様の意外としっかりとした体幹。私が突き飛ばそうとしても、作用・反作用の法則により、私の方が弾き飛ばされるのがオチです。仮に私が突き落とすなら、確実に仕留めるために背後から魔道具のスタンガンを使います。未遂で終わらせるような中途半端な仕事はいたしません」

「ひいいいいッ!」


ミア様が本気の悲鳴を上げました。

殿下も青ざめています。


「つまり、殿下の主張はすべて状況証拠のみ、あるいは憶測の域を出ないものです。そのような不確定な情報を根拠に、公衆の面前で婚約者を断罪する……。王族としてのリスクマネジメント能力を疑わざるを得ませんね」


会場が静まり返りました。

誰も反論できません。あまりにも正論すぎて、そして私が『やりかねない』という恐怖よりも、『やるなら徹底的にやる』という信頼(?)が勝ってしまったからです。


「……とはいえ」


私はふっと力を抜きました。


「殿下が私との婚約を解消したいという意志は、十分に伝わりました。理由が冤罪だろうとなんだろうと、心が離れたパートナーと生涯を共にするのは、私にとっても不利益です」


私は再び、合意書を突きつけました。


「認めましょう、婚約破棄を。冤罪についても、これ以上追求しません。面倒ですので」

「め、面倒……だと……?」

「はい。その代わり、手切れ金……いえ、正当な『解決金』を頂戴いたします。私のキャリアに傷をつけたこと、そして時間を浪費させたことへの対価として」


私はニッコリと微笑みました。

ただし、目は笑っていません。


「金額については、こちらの別紙をご参照ください。内訳も記載してあります」


合意書の下から、分厚い請求書の束が現れました。

ギルバート殿下が震える手でそれを受け取ります。


「な、なんだこの桁は……!?」

「公爵家次期当主の時間を拘束したのです。当然の金額かと」

「き、貴様……金が目当てか!」

「愛がないなら金で解決。これぞ大人の流儀、最も平和的かつ合理的な解決策です。さあ殿下、サインを。今すぐに。ペンはインクが乾く前に走らせるのがマナーですよ」


殿下はパクパクと口を開閉させ、助けを求めるように周囲を見回しました。

しかし、誰も目を合わせようとしません。

私の背後に、長年の付き合いである執事のセオドアが音もなく控えていることに気づいた者たちは、すでに「関わったら負けだ」と悟って後退りしていました。


「くっ……くそっ! わかった、書けばいいのだろう、書けば!」


殿下は半ばヤケクソで、私のペンをひったくりました。

そして、乱暴に署名を行います。

『ギルバート・フォン・ローゼリア』

その文字が記された瞬間、私の胸中でファンファーレが鳴り響きました。


(やった……! 自由だ! これで王妃教育という名の苦行から解放される! 毎朝のコルセットとも、面白くもないお茶会ともおさらばよ!)


内心でガッツポーズを決めつつ、私は素早く書類を回収しました。

インクが乾くのを確認し、厳重に懐へしまいます。


「契約成立ですね。ありがとうございます、殿下。これで私たちは赤の他人です」

「……あ、ああ」

「では、私はこれにて失礼いたします。荷造りがありますので」


私は優雅にカーテシー(膝を曲げる挨拶)をしました。

それは、婚約者としてではなく、一介の貴族としての、極めて他人行儀な礼でした。


「あ、おい! 待てリズナ!」


殿下が何か言いかけましたが、私は踵(きびす)を返しました。

背中越しに視線を感じますが、振り返りません。

振り返れば、ニヤついてしまいそうな口元を見られてしまうからです。


「セオドア、馬車の用意は?」

「抜かりありません、お嬢様。すでに裏口に待機させております。お荷物の搬出リストも作成済みです」

「さすがね。仕事が早くて助かるわ」

「お褒めにあずかり光栄です。……して、お嬢様。これからどちらへ?」


大広間を出て、廊下を早歩きで進みながら、セオドアが小声で尋ねてきました。

私は窓の外、広大な夜空を見上げました。


「決まっているでしょう。実家には戻らないわよ。お父様に捕まったら、また別の縁談を持ってこられるもの」

「では?」

「南の離宮……いえ、隣国のリゾート地へ高飛びよ。慰謝料の前借りで、悠々自適な隠居生活を始めるの」


私の足取りは、羽根のように軽やかでした。

まさかこの後、私が去った後の王城で前代未聞のトラブルが多発し、殿下が泣きついてくることになろうとは、この時の私は知る由もありません。

今はただ、手に入れた自由と、懐の解決金(予定)の重みに、心を踊らせていたのでした。
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