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「頼む! 手合わせを願いたい!」
「俺の剣を受けてみろ! 『バゲットの剣聖』よ!」
「押忍! 入門させてください!」
『ベーカリー・シナモン』の開店直後。
店内に充満しているのは、芳醇なバターの香りではなく、むさ苦しい男たちの汗と熱気だった。
客層が劇的に変化していた。
かつては貴婦人や主婦層が中心だったのが、今は筋肉隆々の冒険者や、剣術道場の門下生たちがひしめき合っている。
彼らの目当てはパンではない。
レジ打ちをしている銀髪の青年――クラウスだ。
「……邪魔だ」
クラウスは不機嫌そうに呟いた。
彼の眉間には深いシワが刻まれている。
「ここはパン屋だ。武器を持って入店するな。バゲットが湿気る」
「問答無用! その手に持ったトング捌き、ただ者ではないと見た!」
一人の男が木刀を構えて突っ込んできた。
クラウスは溜め息をつき、レジ横にあった『フランスパン(乾燥してカチカチになった前日の売れ残り)』を手に取った。
「……シナモン、この廃棄パンの使用許可を」
「どうぞ! 武器としての強度は保証します!」
私が許可を出すと同時に、クラウスの手が閃いた。
ガッ!!
乾いた音が響き、男の木刀が弾き飛ばされる。
さらに返しの刃(パン)で、男の額をピシャリと叩いた。
「ぐはあっ!」
「次」
クラウスは事務的に処理していく。
まるで流れ作業のように、次々と襲いかかる男たちをパン一本で沈めていくのだ。
「す、すげえ……」
「無駄のない動きだ……」
「あのパン、オリハルコンでできているのか?」
倒された男たちが、床に這いつくばりながら感嘆の声を上げる。
私はカウンターから身を乗り出し、声を張り上げた。
「はい、そこまで! 負けた方は参加料としてパンを三つ購入していただきます! おすすめは筋肉の修復に役立つ『大豆粉と鶏ささみのパワーサンド』です!」
「うう……か、買います……」
「俺も……その強さの秘密がパンにあるなら……」
こうして、店内は奇妙な活気に包まれた。
男たちはパンを大量に買い込み、店の外でムシャムシャと食べながら「うめぇ!」「力が湧いてくる!」と騒いでいる。
どうやら『ベーカリー・シナモン』は、街一番のパン屋から、街一番の『武術道場兼給食所』へと進化してしまったらしい。
***
夕方。
嵐のような営業時間が終わり、私たちはぐったりとしていた。
「……疲れた」
クラウスが椅子に深々と座り込み、天井を仰いだ。
「俺はただ、静かにパンを焼いていたいだけなのに……なぜこうなる」
「人気者の宿命ですね。でも、売上は過去最高ですよ」
私は売上帳を見ながらホクホク顔だ。
筋肉質の男性客は食べる量も多い。
おかげで廃棄ロスはゼロだ。
「シナモン。君は……危機感というものがないのか?」
クラウスがジト目で見てくる。
「あんな荒くれ者たちが店に押し寄せて、怖くないのか?」
「怖いですけど、あなたが守ってくれるでしょう?」
私は何気なく言った。
その瞬間、クラウスの動きが止まった。
「……え?」
「あら、違いました? 最強の警備員(アルバイト)として信頼しているんですけど」
私は小首をかしげた。
クラウスは口元を手で覆い、少し顔を背けた。
耳が赤い。
「……信頼、か。悪くない響きだ」
「でしょう? 時給分は働いてもらわないと」
「……金の話か」
彼はガックリと項垂(うなだ)れたが、すぐに気を取り直したように私に向き直った。
その表情は、いつになく真剣だった。
「シナモン。少し真面目な話をしてもいいか」
「何でしょう? 明日の仕込みの配合についてなら、ライ麦の比率を……」
「パンの話じゃない」
彼が私の言葉を遮った。
アイスブルーの瞳が、揺るぎない光を宿して私を射抜く。
ドキリ、とした。
なんだろう、この空気。
まるで、オーブンの予熱が完了する直前のような、静かな高揚感。
「俺は、君に出会えて本当に良かったと思っている」
「……はあ」
「味のない世界で生きてきた俺にとって、君は光だ。君の焼くパンだけでなく……君という存在そのものが、俺を救ってくれた」
クラウスの手が伸びてきて、私の手をそっと包み込んだ。
大きくて、温かい手。
剣ダコと、最近できたパン作りのマメがある、働き者の手だ。
「俺は、これからも君のそばにいたい。ただのバイトとしてではなく……もっと深い関係になりたい」
「深い関係……?」
私は瞬きをした。
彼の熱っぽい視線。
重ねられた手。
そして「深い関係」という言葉。
私の脳内コンピューターが高速で演算を開始する。
(深い関係……パートナー……共同経営者……運命共同体……)
(ハッ! まさか!)
私は目を見開いた。
「わかったわ、クラウスさん!」
「わ、わかってくれたか?」
クラウスの顔が期待に輝く。
私は彼の手をギュッと握り返した。
「つまり、『のれん分け』ですね!」
「……は?」
「いつか独立して、支店を出したいということでしょう? 『ベーカリー・シナモン2号店』の店長になりたいと!」
「……」
「素晴らしい向上心です! もちろん応援しますよ! 私の弟子として認めますから、まずはフランチャイズ契約の書類を……」
「違う」
クラウスが低い声で否定した。
「なぜそうなる」
「えっ? 違うんですか? じゃあ……新しい酵母の開発パートナー?」
「それも魅力的だが、違う」
彼は頭を抱えた。
「俺が言いたいのは……男と女としてだ」
「男と女……?」
私はさらに混乱した。
「つまり、パン作りにおける男女の筋力差を考慮した、効率的な役割分担の提案ですか?」
「……」
クラウスは天を仰いだ。
長い、長い沈黙の後。
彼は力なく笑った。
「……ああ、そうだ。その通りだ。君には敵わないな」
「やっぱり! そうですよね! 私も常々、ハード系のパンをこねる時は男性の筋力が必要だと思っていましたの!」
私は自分の読解力に満足して頷いた。
クラウスは「今はまだ、生地を寝かせる時間(タイミング)じゃなかったか……」と謎の呟きを残し、キッチンへ戻っていった。
その背中が少し寂しそうに見えたので、私は声をかけた。
「クラウスさん! 元気出してください! 今日の夕食は、あなたの好きなクリームシチューと、バゲットの端っこですよ!」
「……ああ。楽しみにしている」
彼は振り返らずに手を振った。
***
その夜。
私は自室で、明日の新作パンのアイデアを練っていた。
机の上には、書き損じのメモが散乱している。
『筋肉パン』『プロテイン入りベーグル』『鉄アレイ型チョココロネ』……。
「うーん、客層に合わせるべきか、私の作りたいものを作るべきか……」
悩んでいると、窓の外からガサッという音がした。
風?
いや、違う。
誰かが庭に侵入した気配だ。
私はそっと窓辺に近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。
月明かりの下、黒い影が動いている。
一人ではない。
数人……いや、十人くらいいるだろうか。
彼らは無言で、店の裏口――つまり厨房の方へ向かっている。
手には、剣や短剣が握られているのが見えた。
(泥棒? それとも……強盗?)
(まさか、秘伝のレシピを盗みに来た産業スパイ!?)
私の危機管理センサーが作動した。
パンのレシピは命より重い。
私は部屋の隅に置いてある護身用の武器(特注のロング麺棒・樫の木製)を手に取った。
「マリー! 父上! 起きて!」
大声で叫びながら、私は部屋を飛び出した。
しかし、私が駆けつけるよりも早く、厨房の方から悲鳴が上がった。
「ぎゃあああ!」
「な、なんだこの熱気は!?」
「目が! 目がぁ!」
どうやら、侵入者たちはすでに撃退されているらしい。
私が厨房に飛び込むと、そこには驚くべき光景が広がっていた。
石窯の前で仁王立ちするクラウス。
彼は片手で窯の扉を開け放ち、そこから溢れ出る灼熱の熱風(ファイア・ブレス)を、魔法で増幅して侵入者たちに浴びせていたのだ。
「俺の神聖な厨房に土足で踏み入るとは……いい度胸だ」
クラウスの声は、絶対零度のように冷たいのに、やってることは超高温だ。
「よく焼けろ。ウェルダンだ」
「あちちちち!」「焦げる! 眉毛が焦げる!」
黒装束の男たちが転げ回っている。
「クラウスさん! やりすぎです! その人たち、燻製になっちゃいます!」
私が止めに入ると、クラウスはハッとして魔法を解いた。
「……すまない。虫が入ってきたので、つい消毒を」
「虫にしては大きすぎます」
倒れている男たちの一人が、息も絶え絶えに顔を上げた。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
「あれ? あなた……王都で人気のパン屋『ゴールデン・ウィート』の店長さんですよね?」
「……っ!」
男はバツが悪そうに顔を伏せた。
どうやら産業スパイの正体は、商売敵(ライバル)だったらしい。
「まさか、レシピを盗みに?」
「……違う。お前の店が、あまりに美味いパンを出すから……その秘密を知りたくて……」
「秘密?」
私は首をかしげた。
「秘密なんてありませんよ。ただ、毎日小麦と会話して、酵母のご機嫌を取って、愛を込めて焼いているだけです」
「……それができねぇから苦労してんだよ!」
店長は泣き出した。
どうやら彼も、パン職人としての壁にぶつかっていたらしい。
結局、彼らは父上の兵士たちに連行されていったが、私はなんだか複雑な気分だった。
「美味しいパンを作りたいなら、素直に聞けばいいのに」
「プライドが邪魔したんだろう」
クラウスが言った。
「だが、これで分かったことがある」
「何です?」
「君のパンは、国中の職人を狂わせるほど罪深いということだ。……そして、俺のライバルは貴族や王子だけじゃなく、同業者にもいるということだな」
彼はやれやれと肩をすくめた。
「守るものが多すぎて、体がいくつあっても足りん」
「ふふっ。頼りにしてますよ、クラウスさん」
私が笑いかけると、彼は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
この夜の騒動は、単なる序章に過ぎなかった。
私のパンを巡る争奪戦は、王都の権力者たちだけでなく、パン業界全体を巻き込んだ大騒動へと発展していくことになるのだ。
「俺の剣を受けてみろ! 『バゲットの剣聖』よ!」
「押忍! 入門させてください!」
『ベーカリー・シナモン』の開店直後。
店内に充満しているのは、芳醇なバターの香りではなく、むさ苦しい男たちの汗と熱気だった。
客層が劇的に変化していた。
かつては貴婦人や主婦層が中心だったのが、今は筋肉隆々の冒険者や、剣術道場の門下生たちがひしめき合っている。
彼らの目当てはパンではない。
レジ打ちをしている銀髪の青年――クラウスだ。
「……邪魔だ」
クラウスは不機嫌そうに呟いた。
彼の眉間には深いシワが刻まれている。
「ここはパン屋だ。武器を持って入店するな。バゲットが湿気る」
「問答無用! その手に持ったトング捌き、ただ者ではないと見た!」
一人の男が木刀を構えて突っ込んできた。
クラウスは溜め息をつき、レジ横にあった『フランスパン(乾燥してカチカチになった前日の売れ残り)』を手に取った。
「……シナモン、この廃棄パンの使用許可を」
「どうぞ! 武器としての強度は保証します!」
私が許可を出すと同時に、クラウスの手が閃いた。
ガッ!!
乾いた音が響き、男の木刀が弾き飛ばされる。
さらに返しの刃(パン)で、男の額をピシャリと叩いた。
「ぐはあっ!」
「次」
クラウスは事務的に処理していく。
まるで流れ作業のように、次々と襲いかかる男たちをパン一本で沈めていくのだ。
「す、すげえ……」
「無駄のない動きだ……」
「あのパン、オリハルコンでできているのか?」
倒された男たちが、床に這いつくばりながら感嘆の声を上げる。
私はカウンターから身を乗り出し、声を張り上げた。
「はい、そこまで! 負けた方は参加料としてパンを三つ購入していただきます! おすすめは筋肉の修復に役立つ『大豆粉と鶏ささみのパワーサンド』です!」
「うう……か、買います……」
「俺も……その強さの秘密がパンにあるなら……」
こうして、店内は奇妙な活気に包まれた。
男たちはパンを大量に買い込み、店の外でムシャムシャと食べながら「うめぇ!」「力が湧いてくる!」と騒いでいる。
どうやら『ベーカリー・シナモン』は、街一番のパン屋から、街一番の『武術道場兼給食所』へと進化してしまったらしい。
***
夕方。
嵐のような営業時間が終わり、私たちはぐったりとしていた。
「……疲れた」
クラウスが椅子に深々と座り込み、天井を仰いだ。
「俺はただ、静かにパンを焼いていたいだけなのに……なぜこうなる」
「人気者の宿命ですね。でも、売上は過去最高ですよ」
私は売上帳を見ながらホクホク顔だ。
筋肉質の男性客は食べる量も多い。
おかげで廃棄ロスはゼロだ。
「シナモン。君は……危機感というものがないのか?」
クラウスがジト目で見てくる。
「あんな荒くれ者たちが店に押し寄せて、怖くないのか?」
「怖いですけど、あなたが守ってくれるでしょう?」
私は何気なく言った。
その瞬間、クラウスの動きが止まった。
「……え?」
「あら、違いました? 最強の警備員(アルバイト)として信頼しているんですけど」
私は小首をかしげた。
クラウスは口元を手で覆い、少し顔を背けた。
耳が赤い。
「……信頼、か。悪くない響きだ」
「でしょう? 時給分は働いてもらわないと」
「……金の話か」
彼はガックリと項垂(うなだ)れたが、すぐに気を取り直したように私に向き直った。
その表情は、いつになく真剣だった。
「シナモン。少し真面目な話をしてもいいか」
「何でしょう? 明日の仕込みの配合についてなら、ライ麦の比率を……」
「パンの話じゃない」
彼が私の言葉を遮った。
アイスブルーの瞳が、揺るぎない光を宿して私を射抜く。
ドキリ、とした。
なんだろう、この空気。
まるで、オーブンの予熱が完了する直前のような、静かな高揚感。
「俺は、君に出会えて本当に良かったと思っている」
「……はあ」
「味のない世界で生きてきた俺にとって、君は光だ。君の焼くパンだけでなく……君という存在そのものが、俺を救ってくれた」
クラウスの手が伸びてきて、私の手をそっと包み込んだ。
大きくて、温かい手。
剣ダコと、最近できたパン作りのマメがある、働き者の手だ。
「俺は、これからも君のそばにいたい。ただのバイトとしてではなく……もっと深い関係になりたい」
「深い関係……?」
私は瞬きをした。
彼の熱っぽい視線。
重ねられた手。
そして「深い関係」という言葉。
私の脳内コンピューターが高速で演算を開始する。
(深い関係……パートナー……共同経営者……運命共同体……)
(ハッ! まさか!)
私は目を見開いた。
「わかったわ、クラウスさん!」
「わ、わかってくれたか?」
クラウスの顔が期待に輝く。
私は彼の手をギュッと握り返した。
「つまり、『のれん分け』ですね!」
「……は?」
「いつか独立して、支店を出したいということでしょう? 『ベーカリー・シナモン2号店』の店長になりたいと!」
「……」
「素晴らしい向上心です! もちろん応援しますよ! 私の弟子として認めますから、まずはフランチャイズ契約の書類を……」
「違う」
クラウスが低い声で否定した。
「なぜそうなる」
「えっ? 違うんですか? じゃあ……新しい酵母の開発パートナー?」
「それも魅力的だが、違う」
彼は頭を抱えた。
「俺が言いたいのは……男と女としてだ」
「男と女……?」
私はさらに混乱した。
「つまり、パン作りにおける男女の筋力差を考慮した、効率的な役割分担の提案ですか?」
「……」
クラウスは天を仰いだ。
長い、長い沈黙の後。
彼は力なく笑った。
「……ああ、そうだ。その通りだ。君には敵わないな」
「やっぱり! そうですよね! 私も常々、ハード系のパンをこねる時は男性の筋力が必要だと思っていましたの!」
私は自分の読解力に満足して頷いた。
クラウスは「今はまだ、生地を寝かせる時間(タイミング)じゃなかったか……」と謎の呟きを残し、キッチンへ戻っていった。
その背中が少し寂しそうに見えたので、私は声をかけた。
「クラウスさん! 元気出してください! 今日の夕食は、あなたの好きなクリームシチューと、バゲットの端っこですよ!」
「……ああ。楽しみにしている」
彼は振り返らずに手を振った。
***
その夜。
私は自室で、明日の新作パンのアイデアを練っていた。
机の上には、書き損じのメモが散乱している。
『筋肉パン』『プロテイン入りベーグル』『鉄アレイ型チョココロネ』……。
「うーん、客層に合わせるべきか、私の作りたいものを作るべきか……」
悩んでいると、窓の外からガサッという音がした。
風?
いや、違う。
誰かが庭に侵入した気配だ。
私はそっと窓辺に近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。
月明かりの下、黒い影が動いている。
一人ではない。
数人……いや、十人くらいいるだろうか。
彼らは無言で、店の裏口――つまり厨房の方へ向かっている。
手には、剣や短剣が握られているのが見えた。
(泥棒? それとも……強盗?)
(まさか、秘伝のレシピを盗みに来た産業スパイ!?)
私の危機管理センサーが作動した。
パンのレシピは命より重い。
私は部屋の隅に置いてある護身用の武器(特注のロング麺棒・樫の木製)を手に取った。
「マリー! 父上! 起きて!」
大声で叫びながら、私は部屋を飛び出した。
しかし、私が駆けつけるよりも早く、厨房の方から悲鳴が上がった。
「ぎゃあああ!」
「な、なんだこの熱気は!?」
「目が! 目がぁ!」
どうやら、侵入者たちはすでに撃退されているらしい。
私が厨房に飛び込むと、そこには驚くべき光景が広がっていた。
石窯の前で仁王立ちするクラウス。
彼は片手で窯の扉を開け放ち、そこから溢れ出る灼熱の熱風(ファイア・ブレス)を、魔法で増幅して侵入者たちに浴びせていたのだ。
「俺の神聖な厨房に土足で踏み入るとは……いい度胸だ」
クラウスの声は、絶対零度のように冷たいのに、やってることは超高温だ。
「よく焼けろ。ウェルダンだ」
「あちちちち!」「焦げる! 眉毛が焦げる!」
黒装束の男たちが転げ回っている。
「クラウスさん! やりすぎです! その人たち、燻製になっちゃいます!」
私が止めに入ると、クラウスはハッとして魔法を解いた。
「……すまない。虫が入ってきたので、つい消毒を」
「虫にしては大きすぎます」
倒れている男たちの一人が、息も絶え絶えに顔を上げた。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
「あれ? あなた……王都で人気のパン屋『ゴールデン・ウィート』の店長さんですよね?」
「……っ!」
男はバツが悪そうに顔を伏せた。
どうやら産業スパイの正体は、商売敵(ライバル)だったらしい。
「まさか、レシピを盗みに?」
「……違う。お前の店が、あまりに美味いパンを出すから……その秘密を知りたくて……」
「秘密?」
私は首をかしげた。
「秘密なんてありませんよ。ただ、毎日小麦と会話して、酵母のご機嫌を取って、愛を込めて焼いているだけです」
「……それができねぇから苦労してんだよ!」
店長は泣き出した。
どうやら彼も、パン職人としての壁にぶつかっていたらしい。
結局、彼らは父上の兵士たちに連行されていったが、私はなんだか複雑な気分だった。
「美味しいパンを作りたいなら、素直に聞けばいいのに」
「プライドが邪魔したんだろう」
クラウスが言った。
「だが、これで分かったことがある」
「何です?」
「君のパンは、国中の職人を狂わせるほど罪深いということだ。……そして、俺のライバルは貴族や王子だけじゃなく、同業者にもいるということだな」
彼はやれやれと肩をすくめた。
「守るものが多すぎて、体がいくつあっても足りん」
「ふふっ。頼りにしてますよ、クラウスさん」
私が笑いかけると、彼は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
この夜の騒動は、単なる序章に過ぎなかった。
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