婚約破棄? ああ、そうですか。では実家に帰るので構わないでください。

ちゅんりー

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「さむぅぅぅぅい!! 酵母が! 私の酵母ちゃんたちが冬眠しちゃう!」

予選第三ラウンドの舞台、『氷竜の洞窟』。

気温マイナス30度。

吐く息も凍る極寒の世界で、私は悲鳴を上げていた。

壁も床も天井も、すべて分厚い氷で覆われている。

司会者が防寒着に身を包んで震えながら宣言する。

「が、ガチガチ……第三ラウンドのテーマは『ホット&スパイシー』です! この凍てつく地獄で、審査員の冷え切った心を溶かす、灼熱のパンを焼いてください!」

「無茶苦茶よ! ここは天然の冷凍庫なのよ! パン生地なんて一瞬でカチカチの石ころになっちゃうわ!」

私は作業台の上で凍りついた生地(もはや鈍器)を叩いた。

コンコン、といい音がする。

「ふう……素晴らしい環境だな」

隣で、クラウスだけが涼しい顔をしていた。

彼は上着を一枚脱ぎ、シャツの袖をまくっている。

「俺の故郷(ライ麦公爵領の北限)より少し暖かい。過ごしやすい避暑地だ」

「感覚がバグってますよ、氷属性の人! 私と酵母は瀕死です!」

今回の対戦相手は、この洞窟に住む『雪女(ユキオンナ)』のパン職人だった。

彼女は氷のカウンターで、冷たいデザートパンを作っている。

『あらあら、人間にはキツイかしら? 私はここで「アイスクリーム・ブリオッシュ」を作るわ。凍らせる手間が省けて最高よ』

「くっ……地の利がありすぎる……!」

このままでは負ける。

パン作りにおいて、温度管理は命だ。

特に発酵には28度~35度の温かさが必要なのだ。

「どうするシナモン? 俺の魔法で温めるか?」

クラウスが提案するが、私は首を振った。

「ダメよ。ここで炎魔法を使えば、天井の氷が溶けて生き埋めになるわ。あくまで『局所的』に、生地だけを温める必要があるの」

「局所的……」

「クラウスさん。……上着を貸して」

「え?」

「そして、こっちに来て。……密着して」

「!?」

クラウスが動揺した。

「み、密着とは……どの程度だ?」

「ゼロ距離です。あなたの体温と、私の体温で、この生地をサンドイッチするのよ!」

私は凍りかけたボウルを抱え込み、クラウスの懐(ふところ)に飛び込んだ。

そして、彼の上着ごと二人で包まる。

「ひゃっ……! 冷たっ!」

「我慢して! 今、私たちの体熱エネルギーをボウルに集中させるの!」

狭いコートの中。

二人の体がぴったりと重なり合う。

クラウスの体は、氷属性の魔力を持っているせいで、少しひんやりとしている。

でも、その奥にある芯の部分――心臓の鼓動は、力強く、そして温かかった。

ドクン、ドクン。

彼の心音が、私の背中に伝わってくる。

「……シナモン」

クラウスが私の肩を抱き寄せた。

「……暖かいな」

「ええ。……これなら、酵母も目を覚ますはず」

ボウルの中の生地が、少しずつ柔らかさを取り戻していくのが分かる。

でも。

それ以上に、私の体の中で、何かが騒ぎ出していた。

ドクン。ドクン。ドクン。

(……あれ?)

(何かしら、この動悸)

(不整脈? それとも、低酸素症?)

心臓が早鐘を打っている。

顔が熱い。

クラウスの匂い――清涼感のあるミントと、焼きたてのパンの香りが混じった匂い――を嗅ぐたびに、胸がギュッとなる。

「シナモン? 顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」

クラウスが心配そうに覗き込み、私のおでこに自分の額をコツンと当てた。

「!!!」

ボンッ!

私の頭頂部から蒸気が出た(気がした)。

「ち、近いですクラウスさん!」

「熱を測っているんだ。……凄い熱だ。大丈夫か?」

「だ、大丈夫です! これは……そう、発酵熱です! 私の体内のイースト菌が活性化しているんです!」

「人間はイースト菌でできていないはずだが……」

私はパニックになりながら、必死に思考をパン作りに向けた。

(落ち着け私! これは吊り橋効果よ! いいえ、冷蔵発酵効果よ!)

(でも……この腕の中にいると、すごく安心する……)

(一生、こうして温め合っていたいかも……)

――ハッ!

私は目を見開いた。

「わかったわ!」

「何がだ?」

「このドキドキの正体……これが『恋』なのね!?」

「えっ」

クラウスが固まった。

「本当か!? シナモン、ついに俺の想いが……!」

「ええ! 間違いありません!」

私はボウルの中の生地を指差した。

「見てください! 生地がこんなに膨らんでいる! 私の『恋心』という名の熱エネルギーが伝わって、過発酵スレスレまで膨張しているわ!」

「……生地の話か」

クラウスはガックリと項垂れたが、すぐに気を取り直した。

「まあいい。……君のハートが熱いなら、それをパンにぶつけよう」

「はい! 愛の力で焼きますよ!」

私たちはコートから飛び出した。

「成形!」

十分に発酵した生地を、ハート型……ではなく、燃え盛る炎の形に整える。

中には、唐辛子とチーズ、そして体を温めるジンジャー(生姜)をたっぷりと。

「焼成はどうする? 火は使えないぞ」

「使います。ただし、魔法の炎ではなく……『化学反応』の熱で!」

私はポケットから、生石灰(せいせっかい)と水の入った袋を取り出した。

「お弁当を温めるアレですね!」

「そうです! この密閉容器の中で化学反応を起こし、その蒸気熱で蒸し焼きにするの!」

名付けて『愛のあつあつスチーム・ジンジャーブレッド』!

シューーーッ!!

容器から猛烈な蒸気が噴き出す。

氷の洞窟に、白い霧が立ち込める。

数分後。

「焼き上がりよ!」

蓋を開けると、ほかほかの湯気と共に、スパイシーな香りが爆発した。

冷え切った洞窟に、命の香りが広がる。

***

「実食!」

震えていた審査員たちが、涙目でパンに食らいついた。

「あつっ! はふっ! ……う、うまい!」

「生姜と唐辛子の刺激が、凍えた血管を一気に拡張させる!」

「そしてこのモチモチの生地……。まるで恋人の抱擁のような温かさだ……!」

「生き返る……! 私が求めていたのはこれだぁぁぁ!」

審査員たちは上着を脱ぎ捨て、半袖になってパンを貪(むさぼ)った。

対する雪女さんのアイスパンは、「美味しいけど、今は寒すぎて無理」という理由で敗北した。

タイミング(と気温)が勝負を分けたのだ。

「勝者、シナモン&クラウスチーム!」

歓声の中、私は燃え尽きたようにクラウスの胸にもたれかかった。

「……勝ちましたね」

「ああ。……君の『愛の熱』のおかげだ」

クラウスが優しく頭を撫でてくれる。

その手つきに、また心臓がトクンと跳ねた。

「……ねえ、クラウスさん」

「ん?」

「私、さっき気づいたんですけど」

私は上目遣いで彼を見た。

「このドキドキ、本当に『恋』かもしれません」

「……!」

「だって、パンがこんなに美味しく焼けたんですもの。パンの神様が『この男を逃すな』って言ってる気がします」

「……理由はともかく、嬉しいよ」

クラウスは愛おしそうに私を抱きしめた。

「俺も愛している。……世界中のパンよりも」

「それは言い過ぎです。パンと同じくらいにしてください」

「……厳しいな」

こうして、氷点下の世界で、私たちの距離は急速に縮まった(物理的にも心理的にも)。

予選第三ラウンド突破。

残るは決勝のみ。

しかし、決勝の地に向かう私たちに、衝撃のニュースが飛び込んできた。

「決勝戦の相手が決まりました! その名は……『暗黒パン皇帝』!」

「暗黒パン皇帝?」

「なんでも、食べた人を下僕に変える『洗脳パン』を作り、世界征服を企む魔人だそうです!」

「……ベタな設定ね」

だが、映像に映し出されたその姿を見て、私たちは絶句した。

黒いマントに、黒いマスク。

そして、その手には見覚えのある『漆黒の麺棒』が握られていた。

「あれは……まさか、父上!?」

クラウスが叫んだ。

「死んだはずの先代公爵……俺の親父か!?」

ラスボスの正体は、まさかの実父(ゾンビ?)。

そして、父上もまた、重度のパン狂いだった過去が明らかになる。
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