婚約破棄? ああ、そうですか。では実家に帰るので構わないでください。

ちゅんりー

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「オギャァァァァァッ!!」

元気な産声が響いた直後。

バンッ! と寝室の扉が開かれた。

「シナモン!!」

飛び込んできたのは、汗だくで、粉まみれのクラウスだった。

その手には、湯気を立てる黄金色のパンが握られている。

「焼けたぞ! 『特製・安産祈願パン(母子ともに健康ブレッド)』だ!」

「……タイミング、ばっちりです」

私はベッドの上で、生まれたばかりの我が子を抱きながら微笑んだ。

「見てください、クラウスさん。元気な男の子ですよ」

「男の子……」

クラウスはパンをサイドテーブルに置き(そこは冷静に耐熱マットの上に置いた)、震える手で私たちに近づいた。

「俺の……子か?」

「ええ。あなたの目元にそっくりな、可愛い赤ちゃんです」

クラウスは恐る恐る指を差し出した。

すると、赤ちゃんはその小さな手で、クラウスの指をギュッと握り返した。

「……ッ!!」

クラウスの目から、滝のような涙が溢れ出した。

「ううっ……うわぁぁぁん! 小さい……! 温かい……! パン生地より柔らかい……!」

「パンと比較しないでください」

「ありがとう、シナモン。……ありがとう、生まれてきてくれて」

彼は私の額に、そして赤ちゃんのおでこに、優しくキスをした。

その時。

「どけクラウス! 孫の顔が見えないだろう!」

「私の孫よ! 一番抱っこは私がするわ!」

ドカドカと親族一同が雪崩れ込んできた。

ロダン元皇帝(父)、アデラ大公妃(母)、アルフレッド国王、そしてフェリクス(弟)。

「おおお! なんと凛々しい顔立ちだ! 将来は筋肉ムキムキのパン職人になるぞ!」(国王)

「いいえ、この聡明な瞳……間違いなく、世界を統べる暗黒の帝王になる」(ロダン)

「赤なら似合うかしら? 唐辛子の産湯(うぶゆ)に浸からせましょう」(アデラ)

「やめてください母上! 皮膚がただれます!」(フェリクス)

騒がしい。

本当に騒がしいけれど、愛に溢れた家族たち。

赤ちゃんは彼らの大声に驚くどころか、キャッキャと笑い声を上げた。

「大物になりますね」

私はクスクスと笑った。

「さて、名前を決めなくてはなりませんね」

全員が静まり返り、ゴクリと唾を飲んだ。

以前の会議では『バゲット』だの『悪魔』だの、ろくな案が出なかった。

「クラウスさん。……決めてありますよね?」

「ああ」

クラウスは頷き、赤ちゃんを抱き上げた。

「この子の名前は……『リュカ』だ」

「リュカ……?」

全員がキョトンとした。

「食材の名前じゃないのか?」(ロダン)

「強そうじゃないわね」(アデラ)

クラウスは優しく子供を見つめて言った。

「古代語で『光』という意味だ。……シナモンが俺に光をくれたように、この子も誰かの光になってほしい。そして……」

彼は少し照れくさそうに付け加えた。

「実は、この名前のアナグラム(文字の並べ替え)で……ある言葉が隠されているんだ」

「ある言葉?」

私は首をかしげた。

リュカ……Lyca……Clay……?

「……まあ、それは俺とシナモンだけの秘密だ」

「えーっ! 教えてくださいよ!」

「ダメだ。一生の謎解きにしておけ」

クラウスは悪戯っぽく笑った。

(もしかして……私の好きなパンの頭文字とか?)

真相は分からないけれど、その響きはとても優しくて、温かかった。

「リュカ……。素敵な名前です」

私は赤ちゃんに語りかけた。

「よろしくね、リュカ。パパとママの宝物」

リュカは答えるように、「あーうー」と声を上げ、そして……テーブルの上のパンに向かって手を伸ばした。

「おっ! 早速パンに興味を示したぞ!」

「さすが我が息子だ!」

爆笑に包まれる寝室。

窓の外からは、春の優しい風と、小麦畑の香りが漂ってきていた。

***

それから、五年後。

『ベーカリー・シナモン』は、今日も大繁盛していた。

「いらっしゃいませー! 焼きたてのクロワッサンはいかがですかー!」

店先で元気な声を上げているのは、五歳になった息子、リュカだ。

小さなエプロンをつけて、トングを器用に操っている。

「あらリュカ君、偉いわねえ」

「おじちゃん、これ買うよ」

常連客たちに愛され、看板息子として立派に働いている。

厨房では、私とクラウスが並んで生地をこねていた。

「シナモン、窯の温度よし。バゲットを入れるぞ」

「はい! クープ入れ完了です!」

阿吽(あうん)の呼吸。

言葉を交わさなくても、お互いの動きが手に取るように分かる。

あれから、色々なことがあった。

ロダン父上は店の裏で「隠居パン屋」として、黒くない普通のパンを焼く楽しみに目覚めた。

アデラお義母様は、定期的に激辛パンを食べに来ては、「まだまだね」と言いつつ完食して帰っていく。

エドワード王子(今は国王)とリリィ様は、毎年結婚記念日に「お米パン」を買いに来てくれる。

そしてフェリクスは、なぜかウチの店の経理担当として、公務の合間に帳簿をつけに来ている(報酬はクリームパン)。

「……幸せだな」

ふと、クラウスが呟いた。

「え?」

「こうして、君と並んでパンを焼いて……子供の成長を見守って。……俺の人生、捨てたもんじゃない」

彼は粉のついた手で、私の頬をツンとつついた。

「公爵様に戻りたいとは思いませんか?」

私が意地悪く聞くと、彼は首を横に振った。

「まさか。俺の天職はここにある。……世界一のパン職人の、専属温度管理係だ」

「ふふっ。頼りにしてますよ、パートナー」

私たちは顔を見合わせて笑った。

カランカラン!

ドアベルが鳴り、リュカが厨房に駆け込んできた。

「パパ! ママ! 大変だよ!」

「どうした?」

「お店の前に、すごい行列ができてる! 『伝説のパン屋はここですか?』って!」

どうやら、世界中からまた新しいお客様(パン好き)が押し寄せてきたらしい。

私はエプロンの紐を締め直した。

「さあ、クラウスさん! 休憩終わりです! 追加で100個焼きますよ!」

「やれやれ……。嬉しい悲鳴だな」

クラウスも苦笑しながら、帽子を被り直した。

私たちは、いつものように、そしてこれからもずっと。

小麦と、酵母と、たくさんの愛に囲まれて生きていく。

「よし、行くぞ!」

「はい!」

「いらっしゃいませーーッ!!」

私たちの声が重なり、店内に、そして青空に響き渡った。

『ベーカリー・シナモン』。
そこは、世界で一番香ばしくて、世界で一番幸せな場所。

パンの香りに誘われて、今日もまた、新しい物語が焼き上がる――。
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