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王宮の正門を堂々と通り抜け、私はアールグレイ公爵の用意した豪華な馬車に揺られていた。
普通、婚約破棄されて追放される令嬢といえば、絶望に打ちひしがれて涙に暮れるものだろう。
しかし、私の胸中にあるのは、ほとばしる創作意欲だけだった。
「……マーマレード嬢。先ほどから、君の手が妙な動きをしているが。指の運動か?」
向かい側に座る公爵が、不審そうな顔で私を見つめていた。
私の指先は、無意識のうちに空中で何かを捏ねるような動きを繰り返していたらしい。
「ああ、失礼いたしました。私、感情が高ぶると、どうしても『捏ねたく』なってしまうのですわ」
「捏ねる? 何をだ」
「パン生地です。ストレスが溜まった時、悲しい時、そして今日のように清々しい時。小麦粉と水分が一体化していくあの感触を味わわないと、どうにも落ち着きませんの」
私は馬車の窓から、遠ざかっていく王宮を眺めた。
あそこには、私の愛用していたオーブンも、特注の発酵棚も置いてきてしまった。
「閣下、お願いがあります。どこでも構いません、私に『火』と『粉』を使わせてください。今すぐパンを焼かないと、私の右手が暴走して閣下の頬を捏ね始めてしまうかもしれませんわ」
「……それは困る。私の顔はパン生地ほど弾力はないぞ」
公爵は真面目な顔で答え、御者に指示を飛ばした。
向かった先は、王都の端にある彼の別邸だった。
本邸ほど広くはないが、そこには公爵の個人的な趣味だという、最高級の石窯を備えた厨房があった。
「さあ、着いたぞ。好きなだけ捏ねるがいい」
「まあ! なんて素晴らしい石窯かしら。閣下、あなた、実はとってもいい人ですね!」
「ジャムに釣られただけだ。勘違いするな」
私はドレスの袖を豪快に捲り上げ、公爵家の料理人が差し出したエプロンを身に付けた。
そこからは、まさに私の独壇場だった。
「強力粉よし、塩よし、水よし。そして……隠し味に、先ほどのマーマレードのシロップを少々!」
ボウルの中で粉と水が混ざり合い、一つの塊になっていく。
私はそれを大理石の台に叩きつけ、一心不乱に捏ね始めた。
「ほらっ! レモン殿下の分からず屋! シュガー様の粘着質な嘘つき! まとめて生地の露(つゆ)となれ!」
ドシン、ドシン、という激しい音が厨房に響き渡る。
公爵は少し離れた椅子に座り、お茶を飲みながらその光景を眺めていた。
「……マーマレード嬢。君は、本当に悲しくないのか? 三年間も婚約者だった男に、あんな公衆の面前で捨てられたのだぞ」
「悲しんでいる暇があったら、酵母の機嫌を取るべきですわ。殿下は放っておいても勝手に生きていけますが、この生地は私が手をかけないと、ただの硬い塊になってしまいますもの」
私は額の汗を拭い、ふっくらとまとまった生地をボウルに戻した。
「それに、殿下は私のジャムを一度も『美味しい』と言ってくれませんでしたわ。いつも『甘すぎる』とか『色が派手だ』とか……。そんな感性の持ち主と一緒にいても、私のオレンジたちが可哀想なだけです」
「……そうか。奴は、見る目がなかったということだな」
公爵はカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。
「発酵を待つ間、君に一つ提案がある。明日、君の両親……オレンジ伯爵に、私から書状を送っておこう。君の身柄は私が預かると。文句は言わせない」
「ありがとうございます。でも、父はきっと喜んで私を差し出すと思いますわ。あの方は、私のジャム作りにかかる経費にいつも頭を抱えておいででしたから」
「経費? そんなものは我が公爵家がすべて持つ。金貨の山を積んででも、君の腕を囲い込むつもりだ」
公爵の言葉は力強いが、その動機が「食欲」であることは明白だった。
一時間後。
石窯から、香ばしい、なんとも言えない幸せな香りが漂ってきた。
「焼き上がりましたわ! マーマレード特製・断罪お祝いのオレンジ・ブリオッシュです!」
黄金色に輝くパンが、皿の上で誇らしげに鎮座している。
生地に練り込まれたオレンジピールが、石窯の熱で宝石のように透き通っていた。
「……食べていいのか?」
公爵が、待ちきれないといった様子で手を伸ばす。
「もちろんです。火傷には気をつけてくださいね」
公爵がパンを千切り、口に運ぶ。
その瞬間、彼の端正な顔立ちが劇的に崩れた。
と言っても、怒っているのではない。あまりの美味さに、魂が抜けたような顔になったのだ。
「…………言葉が出ない。外側はパリッとしているのに、中は驚くほどしっとりしている。そして、このオレンジの風味が、鼻から脳へ突き抜けていく……」
「ふふん、当然ですわ。生地を捏ねる時に、殿下への怒りをすべて『コシ』に変えましたから!」
「怒りのコシ、か。恐ろしいものだな。……だが、これなら毎日でも食べたい」
公爵は、さっきまでの冷徹な雰囲気はどこへやら、子供のように次々とパンを口に放り込んでいく。
「閣下、そんなに急いで食べると喉に詰まりますわよ」
「構わない。これが最後の一食だとしても、私は後悔しないだろう。……よし、決めたぞ」
公爵はパンを飲み込むと、真剣な眼差しで私を見た。
「君を、私の国の……いや、私の領地の果樹園へ連れて行く。そこには、君の望むすべての果実がある。そこで新しい生活を始めるがいい」
「果樹園! 本当ですか?」
「ああ。君はもう、王宮の窮屈な台所に閉じこもる必要はない。広大な大地で、好きなだけ捏ねて、好きなだけ煮るがいい」
私は、思わず公爵の大きな手を握りしめていた。
「ありがとうございます、閣下! 私、一生ついていきますわ! あなたの胃袋がパンクするまで、焼き続けて差し上げます!」
「……ああ。期待している」
こうして、婚約破棄からわずか数時間後。
私は、隣国の甘党公爵という最強のパトロンを得て、新たな新天地へと旅立つことになったのである。
一方、その頃の王宮では、レモン殿下がシュガー様の「手作り(と称する)」お菓子を一口食べ、そのあまりの不味さに顔を青ざめさせていた……というのは、また別のお話。
普通、婚約破棄されて追放される令嬢といえば、絶望に打ちひしがれて涙に暮れるものだろう。
しかし、私の胸中にあるのは、ほとばしる創作意欲だけだった。
「……マーマレード嬢。先ほどから、君の手が妙な動きをしているが。指の運動か?」
向かい側に座る公爵が、不審そうな顔で私を見つめていた。
私の指先は、無意識のうちに空中で何かを捏ねるような動きを繰り返していたらしい。
「ああ、失礼いたしました。私、感情が高ぶると、どうしても『捏ねたく』なってしまうのですわ」
「捏ねる? 何をだ」
「パン生地です。ストレスが溜まった時、悲しい時、そして今日のように清々しい時。小麦粉と水分が一体化していくあの感触を味わわないと、どうにも落ち着きませんの」
私は馬車の窓から、遠ざかっていく王宮を眺めた。
あそこには、私の愛用していたオーブンも、特注の発酵棚も置いてきてしまった。
「閣下、お願いがあります。どこでも構いません、私に『火』と『粉』を使わせてください。今すぐパンを焼かないと、私の右手が暴走して閣下の頬を捏ね始めてしまうかもしれませんわ」
「……それは困る。私の顔はパン生地ほど弾力はないぞ」
公爵は真面目な顔で答え、御者に指示を飛ばした。
向かった先は、王都の端にある彼の別邸だった。
本邸ほど広くはないが、そこには公爵の個人的な趣味だという、最高級の石窯を備えた厨房があった。
「さあ、着いたぞ。好きなだけ捏ねるがいい」
「まあ! なんて素晴らしい石窯かしら。閣下、あなた、実はとってもいい人ですね!」
「ジャムに釣られただけだ。勘違いするな」
私はドレスの袖を豪快に捲り上げ、公爵家の料理人が差し出したエプロンを身に付けた。
そこからは、まさに私の独壇場だった。
「強力粉よし、塩よし、水よし。そして……隠し味に、先ほどのマーマレードのシロップを少々!」
ボウルの中で粉と水が混ざり合い、一つの塊になっていく。
私はそれを大理石の台に叩きつけ、一心不乱に捏ね始めた。
「ほらっ! レモン殿下の分からず屋! シュガー様の粘着質な嘘つき! まとめて生地の露(つゆ)となれ!」
ドシン、ドシン、という激しい音が厨房に響き渡る。
公爵は少し離れた椅子に座り、お茶を飲みながらその光景を眺めていた。
「……マーマレード嬢。君は、本当に悲しくないのか? 三年間も婚約者だった男に、あんな公衆の面前で捨てられたのだぞ」
「悲しんでいる暇があったら、酵母の機嫌を取るべきですわ。殿下は放っておいても勝手に生きていけますが、この生地は私が手をかけないと、ただの硬い塊になってしまいますもの」
私は額の汗を拭い、ふっくらとまとまった生地をボウルに戻した。
「それに、殿下は私のジャムを一度も『美味しい』と言ってくれませんでしたわ。いつも『甘すぎる』とか『色が派手だ』とか……。そんな感性の持ち主と一緒にいても、私のオレンジたちが可哀想なだけです」
「……そうか。奴は、見る目がなかったということだな」
公爵はカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。
「発酵を待つ間、君に一つ提案がある。明日、君の両親……オレンジ伯爵に、私から書状を送っておこう。君の身柄は私が預かると。文句は言わせない」
「ありがとうございます。でも、父はきっと喜んで私を差し出すと思いますわ。あの方は、私のジャム作りにかかる経費にいつも頭を抱えておいででしたから」
「経費? そんなものは我が公爵家がすべて持つ。金貨の山を積んででも、君の腕を囲い込むつもりだ」
公爵の言葉は力強いが、その動機が「食欲」であることは明白だった。
一時間後。
石窯から、香ばしい、なんとも言えない幸せな香りが漂ってきた。
「焼き上がりましたわ! マーマレード特製・断罪お祝いのオレンジ・ブリオッシュです!」
黄金色に輝くパンが、皿の上で誇らしげに鎮座している。
生地に練り込まれたオレンジピールが、石窯の熱で宝石のように透き通っていた。
「……食べていいのか?」
公爵が、待ちきれないといった様子で手を伸ばす。
「もちろんです。火傷には気をつけてくださいね」
公爵がパンを千切り、口に運ぶ。
その瞬間、彼の端正な顔立ちが劇的に崩れた。
と言っても、怒っているのではない。あまりの美味さに、魂が抜けたような顔になったのだ。
「…………言葉が出ない。外側はパリッとしているのに、中は驚くほどしっとりしている。そして、このオレンジの風味が、鼻から脳へ突き抜けていく……」
「ふふん、当然ですわ。生地を捏ねる時に、殿下への怒りをすべて『コシ』に変えましたから!」
「怒りのコシ、か。恐ろしいものだな。……だが、これなら毎日でも食べたい」
公爵は、さっきまでの冷徹な雰囲気はどこへやら、子供のように次々とパンを口に放り込んでいく。
「閣下、そんなに急いで食べると喉に詰まりますわよ」
「構わない。これが最後の一食だとしても、私は後悔しないだろう。……よし、決めたぞ」
公爵はパンを飲み込むと、真剣な眼差しで私を見た。
「君を、私の国の……いや、私の領地の果樹園へ連れて行く。そこには、君の望むすべての果実がある。そこで新しい生活を始めるがいい」
「果樹園! 本当ですか?」
「ああ。君はもう、王宮の窮屈な台所に閉じこもる必要はない。広大な大地で、好きなだけ捏ねて、好きなだけ煮るがいい」
私は、思わず公爵の大きな手を握りしめていた。
「ありがとうございます、閣下! 私、一生ついていきますわ! あなたの胃袋がパンクするまで、焼き続けて差し上げます!」
「……ああ。期待している」
こうして、婚約破棄からわずか数時間後。
私は、隣国の甘党公爵という最強のパトロンを得て、新たな新天地へと旅立つことになったのである。
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