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誰かのぬくもりを知ってしまった私
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綾音の朝は、変わらず静かだった。
けれど、以前と違うのは――その静けさの中に、あたたかい気配が宿っていること。
将軍・朧月は毎朝変わらず現れ、茶を一服交わしながら数分だけの静かな時間を過ごす。多くを語ることはないけれど、その沈黙すら、綾音にとっては心地よいものになっていた。
(こうして、誰かと同じ時間を重ねるって……こんなに穏やかなんだ……)
以前は、誰にも気づかれないように息を潜めて過ごしていたはずなのに。
今は、誰かに見られていることが、怖くない。
むしろ、それが嬉しくさえある。
「……今日の茶は、少し香りが軽いな」
「昨日よりも空気が乾いていたので、少しだけ火を弱めてみました。……やっぱり、少し足りなかったですね」
「いや、これもいい。お前はよく観察している」
ふいに褒められて、綾音は思わず目を丸くした。
「……あ、ありがとうございます」
朧月の口調は相変わらず淡々としているが、その声の温度は確かにあたたかい。
「……“褒められる”って、こんなに嬉しいものなんですね」
ぽつりと、独り言のようにこぼした言葉に、朧月が少しだけ首を傾げた。
「今まで、褒められたことがなかったのか?」
「……あまり。子どもの頃は、失敗しないことだけが褒められる理由で。城に上がってからは、空気のように扱われて……それが一番だと思ってました」
「それは、間違っている」
即座に返ってきたその言葉に、綾音は驚く。
けれど、朧月の目は真っ直ぐだった。揺らぎも迷いもない。
「誰にも見つからずに過ごすのは、確かに楽だ。だが……誰にも知られずに咲く花は、やがて枯れる。……お前は、誰かに見つけられていい」
その“誰か”が自分であることを、朧月は口にはしない。けれど――綾音には、それがはっきりと伝わった。
(……私、こんなふうに想ってもらえるなんて……)
心の奥が、静かに、でも確かに震える。
それは“ぬくもり”だった。生まれて初めて、自分に注がれた光のようなもの。
ただ黙って淹れるだけだったお茶が、誰かの心に届いている。
それだけで、綾音の世界は確実に変わっていった。
* * *
その日、午後のことだった。
綾音はいつものように書簡を届けるため、南の廊下を歩いていた。すると――
「やっぱりいた。綾音さん!」
元気な声とともに、ふわりと風が吹くように現れたのは、記憶喪失の青年・湊だった。
「湊さん……! こんなところまで来ては、いけませんよ」
「ごめんごめん。でも、君に会いたくて」
にこにこと笑いながらも、どこか真剣な光が瞳に宿っている。
「昨日、夢を見たんだ。……前にも言ったと思うけど、君とお茶を飲んでる夢。でも、昨日の夢は少し違ってて……」
「違う……?」
「うん。君が泣いてた。すごく静かに。でも、涙が止まらなくて……僕は、君の手を握ってて。なのに、君は僕の名前を呼ばなかった」
その話を聞いて、綾音の背筋にふっと寒気が走る。
それは……夢なのか、それとも――
「……それは、本当に夢だったんでしょうか……?」
そう尋ねると、湊は静かに微笑んだ。
「さあ。でも、君と過ごした記憶は、嘘じゃない気がする。心のどこかが、君を知ってるって言ってる」
まっすぐな言葉が、綾音の胸に届く。
でも、その優しさに、綾音は戸惑っていた。
(どうして……こんなふうに想われるんだろう……)
優しくされるたびに、心が揺れる。
けれど、それが誰に対する想いなのか、自分の中でもはっきりしない。
「……湊さん。思い出さない方が、幸せってことも、あるかもしれません」
「それでも、思い出したい。僕は君のことを、ちゃんと知りたいんだ」
まっすぐな想いに、返す言葉が見つからない。
その時だった。
「……何をしている」
低く、落ち着いた声が廊下に響いた。
振り返れば、そこには朧月が立っていた。
何気ない立ち姿なのに、その場の空気がぴり、と張り詰める。
「将軍様……!」
慌てて綾音が頭を下げると、朧月の視線が湊へと向かう。
「この者が、詰所の者に何かしたのか」
「ち、違います! 湊さんは……」
「俺が聞いている」
朧月の瞳が、鋭く湊を捉える。
けれど、湊もまた、目を逸らさずに言った。
「何もしていません。ただ……綾音さんと話していただけです」
「詰所の者は、勤務中だ」
「はい。すぐに戻ります……」
湊が静かに頭を下げると、朧月はしばらくその場に佇んだ後、綾音にだけ向き直る。
「……あとで、話がある。東屋に来い」
そう言い残して、朧月は去っていった。
その背を見送る湊の表情は、どこか複雑だった。
「……やっぱり、君には、もう誰かがいるんだね」
「え……?」
「ううん、なんでもない。ごめん、邪魔しちゃったね。またね」
そう言って笑った湊の顔が、妙に寂しげに見えた。
* * *
夕方、東屋。
綾音が赴くと、朧月はすでにそこにいた。
薄紅の夕陽が射し込む中、静かに茶を淹れていた。
その姿を見て、綾音の心はじんわりと温まる。
この人は、いつだって自分のために、茶を整えてくれる。
ただ、それだけのことなのに――それが、どれほど嬉しいことか。
「……失礼しました。さきほどは……」
「気にするな。……お前が無事なら、それでいい」
そう言いながら、茶を差し出してくる朧月の手は、以前よりも少しだけ近くに感じた。
「……将軍様」
「うん」
「どうして……私に、ここまでしてくださるんですか?」
その問いに、朧月は一瞬、動きを止める。
そして、ほんのわずかに表情を崩した。
「……わからない。ただ……気づけば、お前の茶を飲むことが、俺にとって日課になっていた。そうでなければ、一日が始まらないと感じるようになっていた」
「……日課、ですか……?」
「お前の気配が、香りが、静かさが――俺には必要だった。……その理由を、言葉にするのは難しい」
そのまっすぐな言葉に、綾音の胸がまた熱くなる。
(この人は……本当に、真剣に、私を見てくれてる)
誰にも気づかれなかった自分に、まっすぐな視線を向けてくれる人。
そのぬくもりを知ってしまったら、もう、戻れない。
ただ一緒に茶を飲むだけ。それだけの時間が、こんなにも愛おしい。
「……私も、将軍様とこうしてお話する時間が、とても大切です」
小さく告げると、朧月の表情がやわらぎ、口元がほんのわずかに緩んだ。
「……それは、嬉しいな」
その一言が、綾音の心をふわりと包み込んだ。
東屋でのひとときを終えても、綾音の胸の奥は温もりで満たされていた。
(将軍様の言葉……あの、まっすぐな眼差し……)
あれは夢ではない。空気のように扱われてきた自分に、確かな存在として触れてくれた人。
その存在の重みを、綾音はじわじわと感じていた。
だが同時に、心の奥では、どこか申し訳なさも滲む。
(私なんかが……将軍様に、そんなふうに想われていいのかな……)
謙遜ではなく、本気でそう思ってしまうのが綾音という人間だった。
そんな夜、寝所の灯を落とし、横になる綾音の脳裏に浮かぶのは――朧月の手元。
湯を注ぎ、湯呑みに茶を満たすときの、静かで整った動作。
あの手から伝わる所作の美しさと、優しさと、確かさ。
それを思い出すたびに、心の奥に、柔らかく熱いものが広がる。
(……もし、私があの人の隣に立つことが許されるのなら……)
そう思ってしまうことが、怖い。
だって自分は、誰にも気にされない地味な女官で、特別な何かがあるわけでもないのだから。
それでも――彼の茶を受け取るこの時間だけは、誰よりもあたたかい。
綾音にとって、それは何よりもかけがえのないものだった。
* * *
数日後。
「綾音、ちょっといい?」
突然、詰所に現れたのは護衛の寅丸だった。
いつも元気で軽快な彼の姿に、周囲の女官たちが一斉にざわめく。
「な、なに? あの寅丸様が、綾音に?」
「え、将軍様じゃなくて?」
「また何か、とんでもないことに巻き込まれてるんじゃ……」
そんなひそひそ話の中、綾音はおずおずと立ち上がる。
「ど、どうしましたか……?」
「ちょっとこっち来て。将軍様が呼んでるんだけど……その前に、少しだけ話したくて」
寅丸はいつもの笑顔で、綾音を人気のない廊下に連れて行った。
「……将軍様、最近ちょっと調子狂ってるんだよね」
「調子……ですか?」
「うん。いや、悪い意味じゃない。むしろ、すごく“人間らしく”なってるというか」
寅丸は腕を組んで、うーんと唸る。
「……あの人さ、“誰にも心を開かない”ことで有名だったの。部下にも、王族にも、誰にも心を許さないって」
「……そうなんですか」
「でも、綾音と茶を飲みはじめてから、目つきが柔らかくなったし、妙に考え込むことも増えた。……俺、あの人が誰かに心を向けるの、初めて見たかも」
それは驚くべきことだった。
(将軍様が……そんなふうに変わっていってる……?)
そしてその変化のきっかけが、自分――。
綾音は、胸の奥がふるふると震えるのを感じた。
「……だからね、綾音。俺から一つだけ言いたいのは、あの人のこと……怖がらないでほしいってこと」
「……怖がる?」
「将軍様は、情を出すのが苦手だから。冷たいって誤解されがちだけど、実はすっごく真面目で、不器用で……誰かを想うときは、必死なんだ」
寅丸のまっすぐな瞳が、綾音を見つめる。
「綾音には、あの人の“本当”を見ててほしい。……きっと、あの人は綾音を通して、変わっていけると思うから」
「……そんな、大層なこと……」
「いや、本当さ。将軍様が誰かを“変わる理由”にするなんて、想像もつかなかったからね」
照れたように笑う寅丸に、綾音は小さく頷いた。
(私が……将軍様の何かを、変えられているなら……)
そう思うと、不安よりも、嬉しさの方が胸に広がった。
* * *
その夜。朧月の執務室。
珍しく、夜分に呼び出された綾音は、緊張しながら襖をくぐった。
将軍の部屋に女官が単独で入るなど、本来あってはならないこと。
けれど、朧月はあくまで自然体で、いつものように茶器を並べていた。
「遅くにすまない。……眠っていたか?」
「い、いえ……ちょうど片付けが終わったところでしたので……」
そう答えながらも、綾音の手はわずかに震えていた。
すると、朧月はそっと綾音の手元に視線を落とした。
「……落ち着け。俺は何も、無理をさせるつもりはない」
その言葉に、綾音の肩の力が少し抜ける。
そして朧月は、二人分の茶を淹れ終えると、湯呑を手に語り始めた。
「……俺は、昔から人の心を読むのが苦手だった。言葉を尽くしても、本心が伝わらないことばかりだった」
「……将軍様にも、そんなお気持ちが……」
「ああ。だから、余計に慎重になった。無口でいれば、傷つけることもない。誤解を招くこともない。……そう思っていた」
淡々と語るその声に、深い孤独が滲んでいるのを、綾音は感じ取る。
「でも、お前と話すようになって、気づいたんだ。沈黙の中にも、通じ合えるものがあると」
「……」
「お前の淹れる茶には、言葉がある。……静かで、やさしくて、心が落ち着く。だから……俺は、毎日ここに来てしまう」
その言葉は、まるで告白のようだった。
綾音の胸がどくん、と跳ねる。
(そんなふうに……思ってくれてたなんて……)
自分の淹れるお茶が、この人の心に届いていた。
それだけで、泣きたくなるほど嬉しい。
「……私も、将軍様の一言一言が、心に沁みて……。こんなふうに、誰かと気持ちを通わせるのが、初めてで……戸惑いながらも、幸せなんです」
そう打ち明けると、朧月の目が、ほんの少し柔らかく揺れる。
そして、次の瞬間――
「綾音」
名を呼ばれ、綾音は思わず背筋を正した。
「お前を、もっと知りたい。……お前の過去も、想いも。これからどう生きていきたいのかも」
「将軍様……」
「……そして、俺のそばに、これからもいてほしい」
それは、決して軽い言葉ではなかった。
まっすぐに、重く、誠実に綾音へと向けられた“想い”。
綾音の目に、静かに涙が浮かぶ。
「……私で、よろしいのですか……?」
その問いに、朧月はきっぱりと頷いた。
「お前でなければ、意味がない」
その一言が、綾音の心を完全に打ち抜いた。
嬉しさと驚きと、信じられなさとが、綾音の胸をぐるぐると駆け巡る。
でも――
「……私も、将軍様のそばにいたいです」
その気持ちだけは、揺るがなかった。
誰かのぬくもりを知ってしまった綾音は、もう一人きりには戻れない。
そしてそのぬくもりは、確かに“朧月”という人そのものだった。
* * *
その夜、星空の下。
将軍の執務室の障子越しに、淡く揺れる灯が漏れている。
二人の影が、並んで、同じ茶を飲みながら、静かに寄り添っていた。
何も語らなくても、通じるものがある。
それを確かめ合うように――。
けれど、以前と違うのは――その静けさの中に、あたたかい気配が宿っていること。
将軍・朧月は毎朝変わらず現れ、茶を一服交わしながら数分だけの静かな時間を過ごす。多くを語ることはないけれど、その沈黙すら、綾音にとっては心地よいものになっていた。
(こうして、誰かと同じ時間を重ねるって……こんなに穏やかなんだ……)
以前は、誰にも気づかれないように息を潜めて過ごしていたはずなのに。
今は、誰かに見られていることが、怖くない。
むしろ、それが嬉しくさえある。
「……今日の茶は、少し香りが軽いな」
「昨日よりも空気が乾いていたので、少しだけ火を弱めてみました。……やっぱり、少し足りなかったですね」
「いや、これもいい。お前はよく観察している」
ふいに褒められて、綾音は思わず目を丸くした。
「……あ、ありがとうございます」
朧月の口調は相変わらず淡々としているが、その声の温度は確かにあたたかい。
「……“褒められる”って、こんなに嬉しいものなんですね」
ぽつりと、独り言のようにこぼした言葉に、朧月が少しだけ首を傾げた。
「今まで、褒められたことがなかったのか?」
「……あまり。子どもの頃は、失敗しないことだけが褒められる理由で。城に上がってからは、空気のように扱われて……それが一番だと思ってました」
「それは、間違っている」
即座に返ってきたその言葉に、綾音は驚く。
けれど、朧月の目は真っ直ぐだった。揺らぎも迷いもない。
「誰にも見つからずに過ごすのは、確かに楽だ。だが……誰にも知られずに咲く花は、やがて枯れる。……お前は、誰かに見つけられていい」
その“誰か”が自分であることを、朧月は口にはしない。けれど――綾音には、それがはっきりと伝わった。
(……私、こんなふうに想ってもらえるなんて……)
心の奥が、静かに、でも確かに震える。
それは“ぬくもり”だった。生まれて初めて、自分に注がれた光のようなもの。
ただ黙って淹れるだけだったお茶が、誰かの心に届いている。
それだけで、綾音の世界は確実に変わっていった。
* * *
その日、午後のことだった。
綾音はいつものように書簡を届けるため、南の廊下を歩いていた。すると――
「やっぱりいた。綾音さん!」
元気な声とともに、ふわりと風が吹くように現れたのは、記憶喪失の青年・湊だった。
「湊さん……! こんなところまで来ては、いけませんよ」
「ごめんごめん。でも、君に会いたくて」
にこにこと笑いながらも、どこか真剣な光が瞳に宿っている。
「昨日、夢を見たんだ。……前にも言ったと思うけど、君とお茶を飲んでる夢。でも、昨日の夢は少し違ってて……」
「違う……?」
「うん。君が泣いてた。すごく静かに。でも、涙が止まらなくて……僕は、君の手を握ってて。なのに、君は僕の名前を呼ばなかった」
その話を聞いて、綾音の背筋にふっと寒気が走る。
それは……夢なのか、それとも――
「……それは、本当に夢だったんでしょうか……?」
そう尋ねると、湊は静かに微笑んだ。
「さあ。でも、君と過ごした記憶は、嘘じゃない気がする。心のどこかが、君を知ってるって言ってる」
まっすぐな言葉が、綾音の胸に届く。
でも、その優しさに、綾音は戸惑っていた。
(どうして……こんなふうに想われるんだろう……)
優しくされるたびに、心が揺れる。
けれど、それが誰に対する想いなのか、自分の中でもはっきりしない。
「……湊さん。思い出さない方が、幸せってことも、あるかもしれません」
「それでも、思い出したい。僕は君のことを、ちゃんと知りたいんだ」
まっすぐな想いに、返す言葉が見つからない。
その時だった。
「……何をしている」
低く、落ち着いた声が廊下に響いた。
振り返れば、そこには朧月が立っていた。
何気ない立ち姿なのに、その場の空気がぴり、と張り詰める。
「将軍様……!」
慌てて綾音が頭を下げると、朧月の視線が湊へと向かう。
「この者が、詰所の者に何かしたのか」
「ち、違います! 湊さんは……」
「俺が聞いている」
朧月の瞳が、鋭く湊を捉える。
けれど、湊もまた、目を逸らさずに言った。
「何もしていません。ただ……綾音さんと話していただけです」
「詰所の者は、勤務中だ」
「はい。すぐに戻ります……」
湊が静かに頭を下げると、朧月はしばらくその場に佇んだ後、綾音にだけ向き直る。
「……あとで、話がある。東屋に来い」
そう言い残して、朧月は去っていった。
その背を見送る湊の表情は、どこか複雑だった。
「……やっぱり、君には、もう誰かがいるんだね」
「え……?」
「ううん、なんでもない。ごめん、邪魔しちゃったね。またね」
そう言って笑った湊の顔が、妙に寂しげに見えた。
* * *
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綾音が赴くと、朧月はすでにそこにいた。
薄紅の夕陽が射し込む中、静かに茶を淹れていた。
その姿を見て、綾音の心はじんわりと温まる。
この人は、いつだって自分のために、茶を整えてくれる。
ただ、それだけのことなのに――それが、どれほど嬉しいことか。
「……失礼しました。さきほどは……」
「気にするな。……お前が無事なら、それでいい」
そう言いながら、茶を差し出してくる朧月の手は、以前よりも少しだけ近くに感じた。
「……将軍様」
「うん」
「どうして……私に、ここまでしてくださるんですか?」
その問いに、朧月は一瞬、動きを止める。
そして、ほんのわずかに表情を崩した。
「……わからない。ただ……気づけば、お前の茶を飲むことが、俺にとって日課になっていた。そうでなければ、一日が始まらないと感じるようになっていた」
「……日課、ですか……?」
「お前の気配が、香りが、静かさが――俺には必要だった。……その理由を、言葉にするのは難しい」
そのまっすぐな言葉に、綾音の胸がまた熱くなる。
(この人は……本当に、真剣に、私を見てくれてる)
誰にも気づかれなかった自分に、まっすぐな視線を向けてくれる人。
そのぬくもりを知ってしまったら、もう、戻れない。
ただ一緒に茶を飲むだけ。それだけの時間が、こんなにも愛おしい。
「……私も、将軍様とこうしてお話する時間が、とても大切です」
小さく告げると、朧月の表情がやわらぎ、口元がほんのわずかに緩んだ。
「……それは、嬉しいな」
その一言が、綾音の心をふわりと包み込んだ。
東屋でのひとときを終えても、綾音の胸の奥は温もりで満たされていた。
(将軍様の言葉……あの、まっすぐな眼差し……)
あれは夢ではない。空気のように扱われてきた自分に、確かな存在として触れてくれた人。
その存在の重みを、綾音はじわじわと感じていた。
だが同時に、心の奥では、どこか申し訳なさも滲む。
(私なんかが……将軍様に、そんなふうに想われていいのかな……)
謙遜ではなく、本気でそう思ってしまうのが綾音という人間だった。
そんな夜、寝所の灯を落とし、横になる綾音の脳裏に浮かぶのは――朧月の手元。
湯を注ぎ、湯呑みに茶を満たすときの、静かで整った動作。
あの手から伝わる所作の美しさと、優しさと、確かさ。
それを思い出すたびに、心の奥に、柔らかく熱いものが広がる。
(……もし、私があの人の隣に立つことが許されるのなら……)
そう思ってしまうことが、怖い。
だって自分は、誰にも気にされない地味な女官で、特別な何かがあるわけでもないのだから。
それでも――彼の茶を受け取るこの時間だけは、誰よりもあたたかい。
綾音にとって、それは何よりもかけがえのないものだった。
* * *
数日後。
「綾音、ちょっといい?」
突然、詰所に現れたのは護衛の寅丸だった。
いつも元気で軽快な彼の姿に、周囲の女官たちが一斉にざわめく。
「な、なに? あの寅丸様が、綾音に?」
「え、将軍様じゃなくて?」
「また何か、とんでもないことに巻き込まれてるんじゃ……」
そんなひそひそ話の中、綾音はおずおずと立ち上がる。
「ど、どうしましたか……?」
「ちょっとこっち来て。将軍様が呼んでるんだけど……その前に、少しだけ話したくて」
寅丸はいつもの笑顔で、綾音を人気のない廊下に連れて行った。
「……将軍様、最近ちょっと調子狂ってるんだよね」
「調子……ですか?」
「うん。いや、悪い意味じゃない。むしろ、すごく“人間らしく”なってるというか」
寅丸は腕を組んで、うーんと唸る。
「……あの人さ、“誰にも心を開かない”ことで有名だったの。部下にも、王族にも、誰にも心を許さないって」
「……そうなんですか」
「でも、綾音と茶を飲みはじめてから、目つきが柔らかくなったし、妙に考え込むことも増えた。……俺、あの人が誰かに心を向けるの、初めて見たかも」
それは驚くべきことだった。
(将軍様が……そんなふうに変わっていってる……?)
そしてその変化のきっかけが、自分――。
綾音は、胸の奥がふるふると震えるのを感じた。
「……だからね、綾音。俺から一つだけ言いたいのは、あの人のこと……怖がらないでほしいってこと」
「……怖がる?」
「将軍様は、情を出すのが苦手だから。冷たいって誤解されがちだけど、実はすっごく真面目で、不器用で……誰かを想うときは、必死なんだ」
寅丸のまっすぐな瞳が、綾音を見つめる。
「綾音には、あの人の“本当”を見ててほしい。……きっと、あの人は綾音を通して、変わっていけると思うから」
「……そんな、大層なこと……」
「いや、本当さ。将軍様が誰かを“変わる理由”にするなんて、想像もつかなかったからね」
照れたように笑う寅丸に、綾音は小さく頷いた。
(私が……将軍様の何かを、変えられているなら……)
そう思うと、不安よりも、嬉しさの方が胸に広がった。
* * *
その夜。朧月の執務室。
珍しく、夜分に呼び出された綾音は、緊張しながら襖をくぐった。
将軍の部屋に女官が単独で入るなど、本来あってはならないこと。
けれど、朧月はあくまで自然体で、いつものように茶器を並べていた。
「遅くにすまない。……眠っていたか?」
「い、いえ……ちょうど片付けが終わったところでしたので……」
そう答えながらも、綾音の手はわずかに震えていた。
すると、朧月はそっと綾音の手元に視線を落とした。
「……落ち着け。俺は何も、無理をさせるつもりはない」
その言葉に、綾音の肩の力が少し抜ける。
そして朧月は、二人分の茶を淹れ終えると、湯呑を手に語り始めた。
「……俺は、昔から人の心を読むのが苦手だった。言葉を尽くしても、本心が伝わらないことばかりだった」
「……将軍様にも、そんなお気持ちが……」
「ああ。だから、余計に慎重になった。無口でいれば、傷つけることもない。誤解を招くこともない。……そう思っていた」
淡々と語るその声に、深い孤独が滲んでいるのを、綾音は感じ取る。
「でも、お前と話すようになって、気づいたんだ。沈黙の中にも、通じ合えるものがあると」
「……」
「お前の淹れる茶には、言葉がある。……静かで、やさしくて、心が落ち着く。だから……俺は、毎日ここに来てしまう」
その言葉は、まるで告白のようだった。
綾音の胸がどくん、と跳ねる。
(そんなふうに……思ってくれてたなんて……)
自分の淹れるお茶が、この人の心に届いていた。
それだけで、泣きたくなるほど嬉しい。
「……私も、将軍様の一言一言が、心に沁みて……。こんなふうに、誰かと気持ちを通わせるのが、初めてで……戸惑いながらも、幸せなんです」
そう打ち明けると、朧月の目が、ほんの少し柔らかく揺れる。
そして、次の瞬間――
「綾音」
名を呼ばれ、綾音は思わず背筋を正した。
「お前を、もっと知りたい。……お前の過去も、想いも。これからどう生きていきたいのかも」
「将軍様……」
「……そして、俺のそばに、これからもいてほしい」
それは、決して軽い言葉ではなかった。
まっすぐに、重く、誠実に綾音へと向けられた“想い”。
綾音の目に、静かに涙が浮かぶ。
「……私で、よろしいのですか……?」
その問いに、朧月はきっぱりと頷いた。
「お前でなければ、意味がない」
その一言が、綾音の心を完全に打ち抜いた。
嬉しさと驚きと、信じられなさとが、綾音の胸をぐるぐると駆け巡る。
でも――
「……私も、将軍様のそばにいたいです」
その気持ちだけは、揺るがなかった。
誰かのぬくもりを知ってしまった綾音は、もう一人きりには戻れない。
そしてそのぬくもりは、確かに“朧月”という人そのものだった。
* * *
その夜、星空の下。
将軍の執務室の障子越しに、淡く揺れる灯が漏れている。
二人の影が、並んで、同じ茶を飲みながら、静かに寄り添っていた。
何も語らなくても、通じるものがある。
それを確かめ合うように――。
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