【完結】私のことなんて誰も気にしないと思ってたら、将軍様が毎日お茶を淹れてくるんですが

22時完結

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誰かのぬくもりを知ってしまった私

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 綾音の朝は、変わらず静かだった。
 けれど、以前と違うのは――その静けさの中に、あたたかい気配が宿っていること。

 将軍・朧月は毎朝変わらず現れ、茶を一服交わしながら数分だけの静かな時間を過ごす。多くを語ることはないけれど、その沈黙すら、綾音にとっては心地よいものになっていた。

(こうして、誰かと同じ時間を重ねるって……こんなに穏やかなんだ……)

 以前は、誰にも気づかれないように息を潜めて過ごしていたはずなのに。
 今は、誰かに見られていることが、怖くない。
 むしろ、それが嬉しくさえある。

「……今日の茶は、少し香りが軽いな」

「昨日よりも空気が乾いていたので、少しだけ火を弱めてみました。……やっぱり、少し足りなかったですね」

「いや、これもいい。お前はよく観察している」

 ふいに褒められて、綾音は思わず目を丸くした。

「……あ、ありがとうございます」

 朧月の口調は相変わらず淡々としているが、その声の温度は確かにあたたかい。

「……“褒められる”って、こんなに嬉しいものなんですね」

 ぽつりと、独り言のようにこぼした言葉に、朧月が少しだけ首を傾げた。

「今まで、褒められたことがなかったのか?」

「……あまり。子どもの頃は、失敗しないことだけが褒められる理由で。城に上がってからは、空気のように扱われて……それが一番だと思ってました」

「それは、間違っている」

 即座に返ってきたその言葉に、綾音は驚く。

 けれど、朧月の目は真っ直ぐだった。揺らぎも迷いもない。

「誰にも見つからずに過ごすのは、確かに楽だ。だが……誰にも知られずに咲く花は、やがて枯れる。……お前は、誰かに見つけられていい」

 その“誰か”が自分であることを、朧月は口にはしない。けれど――綾音には、それがはっきりと伝わった。

(……私、こんなふうに想ってもらえるなんて……)

 心の奥が、静かに、でも確かに震える。
 それは“ぬくもり”だった。生まれて初めて、自分に注がれた光のようなもの。

 ただ黙って淹れるだけだったお茶が、誰かの心に届いている。
 それだけで、綾音の世界は確実に変わっていった。

* * *

 その日、午後のことだった。

 綾音はいつものように書簡を届けるため、南の廊下を歩いていた。すると――

「やっぱりいた。綾音さん!」

 元気な声とともに、ふわりと風が吹くように現れたのは、記憶喪失の青年・湊だった。

「湊さん……! こんなところまで来ては、いけませんよ」

「ごめんごめん。でも、君に会いたくて」

 にこにこと笑いながらも、どこか真剣な光が瞳に宿っている。

「昨日、夢を見たんだ。……前にも言ったと思うけど、君とお茶を飲んでる夢。でも、昨日の夢は少し違ってて……」

「違う……?」

「うん。君が泣いてた。すごく静かに。でも、涙が止まらなくて……僕は、君の手を握ってて。なのに、君は僕の名前を呼ばなかった」

 その話を聞いて、綾音の背筋にふっと寒気が走る。

 それは……夢なのか、それとも――

「……それは、本当に夢だったんでしょうか……?」

 そう尋ねると、湊は静かに微笑んだ。

「さあ。でも、君と過ごした記憶は、嘘じゃない気がする。心のどこかが、君を知ってるって言ってる」

 まっすぐな言葉が、綾音の胸に届く。

 でも、その優しさに、綾音は戸惑っていた。

(どうして……こんなふうに想われるんだろう……)

 優しくされるたびに、心が揺れる。
 けれど、それが誰に対する想いなのか、自分の中でもはっきりしない。

「……湊さん。思い出さない方が、幸せってことも、あるかもしれません」

「それでも、思い出したい。僕は君のことを、ちゃんと知りたいんだ」

 まっすぐな想いに、返す言葉が見つからない。

 その時だった。

「……何をしている」

 低く、落ち着いた声が廊下に響いた。

 振り返れば、そこには朧月が立っていた。
 何気ない立ち姿なのに、その場の空気がぴり、と張り詰める。

「将軍様……!」

 慌てて綾音が頭を下げると、朧月の視線が湊へと向かう。

「この者が、詰所の者に何かしたのか」

「ち、違います! 湊さんは……」

「俺が聞いている」

 朧月の瞳が、鋭く湊を捉える。
 けれど、湊もまた、目を逸らさずに言った。

「何もしていません。ただ……綾音さんと話していただけです」

「詰所の者は、勤務中だ」

「はい。すぐに戻ります……」

 湊が静かに頭を下げると、朧月はしばらくその場に佇んだ後、綾音にだけ向き直る。

「……あとで、話がある。東屋に来い」

 そう言い残して、朧月は去っていった。

 その背を見送る湊の表情は、どこか複雑だった。

「……やっぱり、君には、もう誰かがいるんだね」

「え……?」

「ううん、なんでもない。ごめん、邪魔しちゃったね。またね」

 そう言って笑った湊の顔が、妙に寂しげに見えた。

* * *

 夕方、東屋。

 綾音が赴くと、朧月はすでにそこにいた。
 薄紅の夕陽が射し込む中、静かに茶を淹れていた。

 その姿を見て、綾音の心はじんわりと温まる。

 この人は、いつだって自分のために、茶を整えてくれる。
 ただ、それだけのことなのに――それが、どれほど嬉しいことか。

「……失礼しました。さきほどは……」

「気にするな。……お前が無事なら、それでいい」

 そう言いながら、茶を差し出してくる朧月の手は、以前よりも少しだけ近くに感じた。

「……将軍様」

「うん」

「どうして……私に、ここまでしてくださるんですか?」

 その問いに、朧月は一瞬、動きを止める。

 そして、ほんのわずかに表情を崩した。

「……わからない。ただ……気づけば、お前の茶を飲むことが、俺にとって日課になっていた。そうでなければ、一日が始まらないと感じるようになっていた」

「……日課、ですか……?」

「お前の気配が、香りが、静かさが――俺には必要だった。……その理由を、言葉にするのは難しい」

 そのまっすぐな言葉に、綾音の胸がまた熱くなる。

(この人は……本当に、真剣に、私を見てくれてる)

 誰にも気づかれなかった自分に、まっすぐな視線を向けてくれる人。

 そのぬくもりを知ってしまったら、もう、戻れない。

 ただ一緒に茶を飲むだけ。それだけの時間が、こんなにも愛おしい。

「……私も、将軍様とこうしてお話する時間が、とても大切です」

 小さく告げると、朧月の表情がやわらぎ、口元がほんのわずかに緩んだ。

「……それは、嬉しいな」

 その一言が、綾音の心をふわりと包み込んだ。

 東屋でのひとときを終えても、綾音の胸の奥は温もりで満たされていた。

(将軍様の言葉……あの、まっすぐな眼差し……)

 あれは夢ではない。空気のように扱われてきた自分に、確かな存在として触れてくれた人。
 その存在の重みを、綾音はじわじわと感じていた。

 だが同時に、心の奥では、どこか申し訳なさも滲む。

(私なんかが……将軍様に、そんなふうに想われていいのかな……)

 謙遜ではなく、本気でそう思ってしまうのが綾音という人間だった。

 そんな夜、寝所の灯を落とし、横になる綾音の脳裏に浮かぶのは――朧月の手元。

 湯を注ぎ、湯呑みに茶を満たすときの、静かで整った動作。
 あの手から伝わる所作の美しさと、優しさと、確かさ。

 それを思い出すたびに、心の奥に、柔らかく熱いものが広がる。

(……もし、私があの人の隣に立つことが許されるのなら……)

 そう思ってしまうことが、怖い。

 だって自分は、誰にも気にされない地味な女官で、特別な何かがあるわけでもないのだから。

 それでも――彼の茶を受け取るこの時間だけは、誰よりもあたたかい。
 綾音にとって、それは何よりもかけがえのないものだった。

* * *

 数日後。

「綾音、ちょっといい?」

 突然、詰所に現れたのは護衛の寅丸だった。
 いつも元気で軽快な彼の姿に、周囲の女官たちが一斉にざわめく。

「な、なに? あの寅丸様が、綾音に?」

「え、将軍様じゃなくて?」

「また何か、とんでもないことに巻き込まれてるんじゃ……」

 そんなひそひそ話の中、綾音はおずおずと立ち上がる。

「ど、どうしましたか……?」

「ちょっとこっち来て。将軍様が呼んでるんだけど……その前に、少しだけ話したくて」

 寅丸はいつもの笑顔で、綾音を人気のない廊下に連れて行った。

「……将軍様、最近ちょっと調子狂ってるんだよね」

「調子……ですか?」

「うん。いや、悪い意味じゃない。むしろ、すごく“人間らしく”なってるというか」

 寅丸は腕を組んで、うーんと唸る。

「……あの人さ、“誰にも心を開かない”ことで有名だったの。部下にも、王族にも、誰にも心を許さないって」

「……そうなんですか」

「でも、綾音と茶を飲みはじめてから、目つきが柔らかくなったし、妙に考え込むことも増えた。……俺、あの人が誰かに心を向けるの、初めて見たかも」

 それは驚くべきことだった。

(将軍様が……そんなふうに変わっていってる……?)

 そしてその変化のきっかけが、自分――。

 綾音は、胸の奥がふるふると震えるのを感じた。

「……だからね、綾音。俺から一つだけ言いたいのは、あの人のこと……怖がらないでほしいってこと」

「……怖がる?」

「将軍様は、情を出すのが苦手だから。冷たいって誤解されがちだけど、実はすっごく真面目で、不器用で……誰かを想うときは、必死なんだ」

 寅丸のまっすぐな瞳が、綾音を見つめる。

「綾音には、あの人の“本当”を見ててほしい。……きっと、あの人は綾音を通して、変わっていけると思うから」

「……そんな、大層なこと……」

「いや、本当さ。将軍様が誰かを“変わる理由”にするなんて、想像もつかなかったからね」

 照れたように笑う寅丸に、綾音は小さく頷いた。

(私が……将軍様の何かを、変えられているなら……)

 そう思うと、不安よりも、嬉しさの方が胸に広がった。

* * *

 その夜。朧月の執務室。

 珍しく、夜分に呼び出された綾音は、緊張しながら襖をくぐった。

 将軍の部屋に女官が単独で入るなど、本来あってはならないこと。
 けれど、朧月はあくまで自然体で、いつものように茶器を並べていた。

「遅くにすまない。……眠っていたか?」

「い、いえ……ちょうど片付けが終わったところでしたので……」

 そう答えながらも、綾音の手はわずかに震えていた。

 すると、朧月はそっと綾音の手元に視線を落とした。

「……落ち着け。俺は何も、無理をさせるつもりはない」

 その言葉に、綾音の肩の力が少し抜ける。

 そして朧月は、二人分の茶を淹れ終えると、湯呑を手に語り始めた。

「……俺は、昔から人の心を読むのが苦手だった。言葉を尽くしても、本心が伝わらないことばかりだった」

「……将軍様にも、そんなお気持ちが……」

「ああ。だから、余計に慎重になった。無口でいれば、傷つけることもない。誤解を招くこともない。……そう思っていた」

 淡々と語るその声に、深い孤独が滲んでいるのを、綾音は感じ取る。

「でも、お前と話すようになって、気づいたんだ。沈黙の中にも、通じ合えるものがあると」

「……」

「お前の淹れる茶には、言葉がある。……静かで、やさしくて、心が落ち着く。だから……俺は、毎日ここに来てしまう」

 その言葉は、まるで告白のようだった。

 綾音の胸がどくん、と跳ねる。

(そんなふうに……思ってくれてたなんて……)

 自分の淹れるお茶が、この人の心に届いていた。
 それだけで、泣きたくなるほど嬉しい。

「……私も、将軍様の一言一言が、心に沁みて……。こんなふうに、誰かと気持ちを通わせるのが、初めてで……戸惑いながらも、幸せなんです」

 そう打ち明けると、朧月の目が、ほんの少し柔らかく揺れる。

 そして、次の瞬間――

「綾音」

 名を呼ばれ、綾音は思わず背筋を正した。

「お前を、もっと知りたい。……お前の過去も、想いも。これからどう生きていきたいのかも」

「将軍様……」

「……そして、俺のそばに、これからもいてほしい」

 それは、決して軽い言葉ではなかった。
 まっすぐに、重く、誠実に綾音へと向けられた“想い”。

 綾音の目に、静かに涙が浮かぶ。

「……私で、よろしいのですか……?」

 その問いに、朧月はきっぱりと頷いた。

「お前でなければ、意味がない」

 その一言が、綾音の心を完全に打ち抜いた。

 嬉しさと驚きと、信じられなさとが、綾音の胸をぐるぐると駆け巡る。

 でも――

「……私も、将軍様のそばにいたいです」

 その気持ちだけは、揺るがなかった。

 誰かのぬくもりを知ってしまった綾音は、もう一人きりには戻れない。
 そしてそのぬくもりは、確かに“朧月”という人そのものだった。

* * *

 その夜、星空の下。

 将軍の執務室の障子越しに、淡く揺れる灯が漏れている。

 二人の影が、並んで、同じ茶を飲みながら、静かに寄り添っていた。

 何も語らなくても、通じるものがある。
 それを確かめ合うように――。
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