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アムネシアガーデン ~忘却の箱庭~
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ここは、どこだろう?
知っているような、知らないような……懐かしい気もするけど、やっぱり知らない場所だと思う。
「おはよう、アン。気分はどう?」
いきなり視界に入ってきたのは、暴力的にあまーい笑顔の真っ赤な髪のヴィジュアル系イケメン。しかも外国人。
「えっ、あの……」
「急に倒れたから驚いちゃったよ。でもよかった、無事目が覚めて」
え、もしかして私、貧血かなんかで倒れちゃった? それをこの人が助けてくれた……のかな? にしてはここ、医務室とか病院って感じはしないけど。どう見てもお高そうな洋館の一室って感じ。ていうか、私、どこにいたんだっけ……?
ま、それはそれとして。助けてもらったみたいだし、まずはお礼くらいきちんとしないと。
「ご迷惑おかけしてしまって申し訳ありませんでした。助けていただき、ありがとうございました」
普通にお詫びとお礼言っただけなのに。ビジュアル系イケメンはなぜかびっくりって顔を返してきた。なんでよ。そんな変なこと言ってないと思うんだけど。
「どうしちゃったんだよ、アン。きみにそんな他人行儀な言葉遣いされると、俺、めちゃくちゃ悲しいんだけど」
他人行儀って……アンタが馴れ馴れしすぎるんだって。あと、さっきからアンって誰?
「そのアンっていうの、もしかして私のことですか?」
「俺、アン以外はアンなんて呼ばないよ」
「申し訳ないんですけど私、アンなんて名前じゃないです。私の名前は――」
名前。私の名前ってなんだっけ? え、嘘でしょ!? 自分の名前がわからないとかありえないんだけど。
「アン、本当に大丈夫なの? 顔色も悪いし、まだ寝てた方がいいよ」
名前だけじゃない。住んでた場所、家族のこと、どうやって暮らしてたのか……何も、思い出せない。
「やめて! アンなんて名前で呼ばないで!! 違う、私は……わたし、は……」
「ア……えっと、ダイアンサス」
「違う! そんな名前でもない!!」
気持ち悪い。大切なことが、自分のことが何も思い出せない。私は誰? どこから来た? 違うの、ここじゃないの。私のいた場所は、いるべきところはここじゃない。
「知らない、私はこんなとこ知らない!」
「アン、落ち着いて。今は病み上がりで、ちょっと記憶が混乱しているだけだから」
「うるさい! アンって呼ばないでって言ったでしょ!!」
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。頭の中が、心の中が。
その気持ち悪さに思わず頭をかきむしって……そして、気づいた。
「なに、これ」
視界に入ってきたのは、毛先だけピンクに染まった真っ白な長い髪。
私の髪はこんな色じゃない。こんな派手な色に染めたことなんて一度もない。
「鏡……」
私のつぶやきに、赤髪男は即座に手鏡を差し出してきた。
「なん、で」
明るい緑色の瞳、明らかに人種が違う彫りの深い顔、そしてこの髪。渡された鏡の中から呆然とこっちを見てたのは、知らない女の子だった。
「アン、やっぱりまだ休んでいた方が――」
「触んないで!」
伸びてきた赤髪男の手を叩き落とすと、そのままベッドから飛び出した。なんかわかんないけど、ここにいちゃいけない気がしたから。
「アン!」
「離せ!!」
なのに、ソッコー赤髪男につかまった。全力でもがいてるのに、赤髪男はびくともしない。結局そのまま抱えられてベッドに逆戻り。
「混乱してるんだね。でも、大丈夫だから。ね、とりあえず今は休もう」
「違う! 離して!!」
にこにこと、私の訴えを全無視した赤髪男が耳元で囁く。
「おやすみ、アン」
瞬間、首にちくっとした痛みがはしって…………
※ ※ ※ ※
「死ぬまで……ううん、死んでも離さない」
「もう。アイビーってば重すぎ」
「だって。アンが好きで好きで、どうしようもないくらい好きなんだ」
色とりどりのカーネーションの中、笑う私を抱きしめながら肩に顔をうずめてきたのは、あの赤髪男だった。
「愛してくれるのは嬉しいけど、そんなんじゃ私が先に死んじゃったらどうするの?」
「だから、死んでも離さない」
「なにそれ。も~、わけわかんないな。ま、でもそれならいっか」
笑う私から気持ちが流れ込んでくる。
――私を追って死ぬとか言わなくて、よかった。
くすくすと笑いながら、私は真っ赤な髪を優しくなでる。
「アン、俺をひとりにしないで。俺には、アンだけなんだ」
「まーた、そういうこと言う。アイビー、世界にはたくさんの人間がいるんだよ。私以外にも、たくさんの人間が」
「いらない! アン以外の人間なんて必要ない。機械人形たちとアンがいれば、俺は生きていける」
「アイビー……ほんっとに、仕方のない人」
愛されているという明るい喜びと、依存されているという昏い喜びが流れ込んでくる。赤髪男を重いというけど、笑っている私も大概だ。縛られて、依存させて、それに喜びを感じてる。
「アン。死んでも、絶対に離さない」
※ ※ ※ ※
「アン! 気分は? 体はなんともない?」
視界の暴力、再び。目を開けた瞬間飛び込んできたのは、またもや視界いっぱいの赤髪のご尊顔。顔だけはきれいだよなぁ、こいつ。
「だから。私はアンなんて名前じゃない」
即座に否定したものの。今の夢のせい? こいつにアンって呼ばれることに、なぜか違和感を覚えなくなっていた。むしろ、嬉しささえ感じる。
「でも……じゃあ、なんて呼べばいい?」
困り顔のイケメンに見つめられるって、なんかいたたまれない。自分は全然悪くないのに、罪悪感を覚えてしまう。くっそ、イケメンめ。そして面食いの私め。
「…………アン、でいい」
結局折れた。だって、名前も他のことも、何も思い出せないんだもん。妥協だ、妥協。他にいい名前も浮かばなかったし。
「よかった! アン、お腹空いてない? 機械人形になんか持ってこさせるね。白インゲン豆の煮込み、牛肉の赤葡萄酒煮込み、鳥の香草焼きに林檎のパイに……あとは」
「ストップ! アイビー、私、寝起きでそんなに食べられない」
すごい勢いで部屋を出ていこうとしてた赤髪が、同じくらいすごい勢いで戻ってきた。
「は? え、なに?」
「アン。もしかして、記憶の混乱おさまってきた?」
ベッドに乗り上げた赤髪。三度の至近距離。こいつのパーソナルスペースどうなってんの?
「い、いえ。相変わらず自分の名前もわかんない、です」
正直に答えた途端、赤髪の顔がぱっと輝いた。
「でも、俺の名前は思い出してくれたんだ! 嬉しい!!」
「ちょっと!」
いきなりテンション爆上げで抱き着いてきたし。イケメンだからってセクハラが許されるとか思うなよ。
って、思うのに。ああ、もう。絶対さっきの夢のせいだ。うっかり夢の中の赤髪の名前呼んじゃったらそれが正解だわ、抱きつかれてるってのに嫌な気しないわ。私、どうなっちゃたんだろ。
もしかしてあの夢、私の記憶のかけらなのかな?
アイビーの名前以外わからないまま、無情にも時は過ぎていき。あれから十日。何もわからない私は屋敷から出ることもできず、ただただアイビーに傅かれ甘やかされていた。まるで優しく目隠しをされているような生活。何も考えなければ、きっとこのままでも幸せなのかもしれない。
でも、心の奥がざわつく。このままじゃダメだって。大切なことを忘れてるって。
「よし、逃げよう」
このままじゃ、たぶんなし崩しに絆される。イケメンで優しくて私を好きって言ってくれる、そんな人に甘やかされ続けたら……弱い私は、ほぼ絶対落ちる。だって、すでに落ちかけてるし。
今日は珍しくアイビーが出かけてる。納品とかなんとか言ってたから、たぶん仕事なんだろう。こんなチャンス、思い立ったら即行動しかない。逃げるにしても、色々下準備は必要なはずだし。ひとまず今日は門まで行ってみよう。
「あ……さえ、いな……ば」
玄関を出て門までの一本道を歩いてたら、なんか聞こえた。女の人の声?
「……え、……れば」
どっから聞こえてくるんだろう? 花壇? ううん、もっと向こうの方。庭の方から。
このお屋敷、私とアイビーとゴーレムたち以外はいないと思ってたのに。もし他に誰かいるなら会ってみたい。
石畳の一本道をそれて庭に入ると、カーネーションが辺り一面に咲いていた。声はこの辺りからしてる。
「誰かいるんですか?」
呼びかけたけど反応なし。でも声は依然聞こえてくる。ボソボソと小さな声だからなんて言ってるのかまではよくわかんないけど。周りに人なんていなさそうなんだけどなぁ。カーネーションの中に隠れるとか無理だし。
「ん?」
白にピンクの絞り模様のカーネーションが群生する中、一点だけ異質な場所があった。たくさんのカーネーションの中、ぽつんと埋もれるように咲いていたのは白いスノードロップ。
「開花時期、重ならないはずなのに」
名前とか住んでたとことか本当に大事なことは何一つ憶えてないのに、花の名前やら、そんなことだけは妙に覚えていて。なんて役に立たない記憶。それとも忘れてる私は、花の関係の仕事とか勉強とかしてたのかな?
「あんたさえ、いなければ」
なんて思考を中断したのは、あの探してた声だった。それは、スノードロップから聞こえていて。
「あんたさえいなければ、アイビーはあたしのものだったのに!!」
スノードロップから放たれた憎悪の叫び、それは私の胸を貫き――
※ ※ ※ ※
「あんたさえいなければ、アイビーはあたしのものだったのに!!」
泣きながら私を刺したのは知らない女の人だった。私さえいなければって、何度も、何度も。暗くなってく視界の中、馬乗りになってた女が殴り飛ばされる。直後、アイビーの泣き顔が視界を埋め尽くした。
「アン! すぐに手当てするから」
ううん、無理だよ。ごめんね、アイビー。もう喋れないし、見えないの。ごめんね、本当に私の方が先に死んじゃうなんて思ってなかった。
「離さない……死んでも、絶対に離さないから」
どうか、私のことは忘れて幸せになって。あなたは生きているんだから。生きて、幸せになって。
「撫子ってさ、古風な名前だよね」
「いい名前でしょ。気に入ってるんだ~」
唐突に場面が転換した。見慣れたアスファルトの道路、高校の制服、車、電車……思い出した。そう、ここは私が暮らしていた場所――日本。
私は、生まれ変わったんだ。アン――ダイアンサス――だった頃の記憶をすべて失って、日本人の撫子として。
「でもさ、撫子って名前なのに、アンタいつもカーネーション育ててるよね。なんで? そこはナデシコじゃないの?」
「うーん……なんか懐かしいっていうか? 自分でもよくわかんないんだけど、なんでかカーネーション好きなんだよね。あ、それにほら、まったく無関係ってわけでもないんだよ。カーネーションの和名、麝香撫子だもん」
カーネーションが懐かしいのはダイアンサスの名残だったんだ。思い出した、全部。ダイアンサスだった過去のことも、撫子になった現在のことも。
※ ※ ※ ※
「アン! アン!!」
「……アイビー」
目を開けたら、またアイビーのアップだった。さすがに四度目にもなるとびっくりよりもおかしさの方が強くて、思わず吹き出しちゃった。あ、アイビーが変な顔してる。
「ごめ、ごめん。このシチュエーション、四度目だなぁって思ったら、おかしくなっちゃって」
「俺は心臓が止まるかと思ったよ!」
「だからごめんってば」
愛しいアイビー。全部思い出しちゃった今、もうこの想いは否定できない。
「ごめんね。ひとりにしちゃって」
「アン? え、もしかして……!」
言葉で答える代わりにアイビーをぎゅっと抱きしめた。伝わるかな? 全部、思い出したよ。
「アン……戻ってきてくれた! 何度も、何度も喚んだんだ。何度も失敗して、でも、ようやく……」
何度も呼んだ? 私がここに来たのは偶然……じゃない?
アイビーのもらした言葉に胸がざわつく。
「ねえ、アイビー。私、もうダイアンサスじゃないの。今は撫子って言う名前で、別の世界で、別の人生を生きているの」
「知ってるよ。ニホンっていう国がある世界だろ? 探し出すのに苦労したよ」
待って。なんでそれをアイビーが知ってるの? 私、まだ何も言ってない。
「何度も喚んだんだ。でも、なかなかうまくいかなくて。何体もホムンクルスを使って……やっと、成功した」
「アイビー?」
子供の頃、何度か死にかけたことがあった。それってまさか……
胸の奥がざわざわする。
「あの女をぶち殺したあと、動かなくなったアンの体からホムンクルスを造ったんだ」
ぞくり、と。背筋を悪寒が走る。
けどアイビーはそんな私に気づくことなく、褒めて褒めてとねだる子供のように目を輝かせて喋り続ける。
「でもね、そいつはアンにはならなかった。魂が違ったから。だから、俺はアンの魂を探したんだ。そんでアンがいつでも帰ってこられるように、魂を入れないホムンクルスをたくさん作って、何度も喚んだんだ」
「ねえ、ちょっと待って。私がこの世界に来たのって……アイビーが呼んだ、から?」
「うん! でもアンってば全部忘れちゃってて。俺、すごい悲しかった」
何度も呼んだ。何度も死にかけた。成功した――じゃあ、日本の私の体は?
「アイビー! 私、帰りたいの」
「うん、帰ってこれたよ」
「違う! 私はもうダイアンサスじゃないの。撫子なの。だから、私の帰る場所はここじゃない。家族も友達も、たくさんの人が待ってるの」
にこにこと、アイビーは首を横に振った。
「無理だよ。だって、もうあっちにアンはいないから」
「殺したの!? 私を、撫子の体を!」
ひどい。ひどい、ひどい、ひどい! お父さんにもお母さんにも、みんなにももう会えない。樹医になる夢だって、もう叶えられない。
ダイアンサスとしてのことなんて全部忘れてたのに。私が死んだあと、アイビーには全部忘れて幸せになってほしいって願ってたのに。
「アンの帰る場所はここだよ。ここだけだ」
ひどい人。なのに、思い出したダイアンサスの心は憎むよりも愛することを取ろうとする。でも、撫子の私はそれを許せない。
「混乱してるんだね。でも、大丈夫だから。ね、とりあえず今は休もう」
「違う! 離して!!」
かちり、と。額に冷たい金属の感触。
頭の中に靄が広がっていく。それは、撫子の記憶を侵食して……
「おやすみ、ナデシコ」
冷たいキスが落ちてきて、私はあなたの奴隷になる。
※ ※ ※ ※
花言葉
まだら模様・複色・絞りのカーネーション
「私はあなたの奴隷になる」「愛の拒絶」
アイビー
「永遠の愛」「友情」「信頼」「死んでも離れない」
スノードロップ
「希望」「慰め」「あなたの死を望みます」
知っているような、知らないような……懐かしい気もするけど、やっぱり知らない場所だと思う。
「おはよう、アン。気分はどう?」
いきなり視界に入ってきたのは、暴力的にあまーい笑顔の真っ赤な髪のヴィジュアル系イケメン。しかも外国人。
「えっ、あの……」
「急に倒れたから驚いちゃったよ。でもよかった、無事目が覚めて」
え、もしかして私、貧血かなんかで倒れちゃった? それをこの人が助けてくれた……のかな? にしてはここ、医務室とか病院って感じはしないけど。どう見てもお高そうな洋館の一室って感じ。ていうか、私、どこにいたんだっけ……?
ま、それはそれとして。助けてもらったみたいだし、まずはお礼くらいきちんとしないと。
「ご迷惑おかけしてしまって申し訳ありませんでした。助けていただき、ありがとうございました」
普通にお詫びとお礼言っただけなのに。ビジュアル系イケメンはなぜかびっくりって顔を返してきた。なんでよ。そんな変なこと言ってないと思うんだけど。
「どうしちゃったんだよ、アン。きみにそんな他人行儀な言葉遣いされると、俺、めちゃくちゃ悲しいんだけど」
他人行儀って……アンタが馴れ馴れしすぎるんだって。あと、さっきからアンって誰?
「そのアンっていうの、もしかして私のことですか?」
「俺、アン以外はアンなんて呼ばないよ」
「申し訳ないんですけど私、アンなんて名前じゃないです。私の名前は――」
名前。私の名前ってなんだっけ? え、嘘でしょ!? 自分の名前がわからないとかありえないんだけど。
「アン、本当に大丈夫なの? 顔色も悪いし、まだ寝てた方がいいよ」
名前だけじゃない。住んでた場所、家族のこと、どうやって暮らしてたのか……何も、思い出せない。
「やめて! アンなんて名前で呼ばないで!! 違う、私は……わたし、は……」
「ア……えっと、ダイアンサス」
「違う! そんな名前でもない!!」
気持ち悪い。大切なことが、自分のことが何も思い出せない。私は誰? どこから来た? 違うの、ここじゃないの。私のいた場所は、いるべきところはここじゃない。
「知らない、私はこんなとこ知らない!」
「アン、落ち着いて。今は病み上がりで、ちょっと記憶が混乱しているだけだから」
「うるさい! アンって呼ばないでって言ったでしょ!!」
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。頭の中が、心の中が。
その気持ち悪さに思わず頭をかきむしって……そして、気づいた。
「なに、これ」
視界に入ってきたのは、毛先だけピンクに染まった真っ白な長い髪。
私の髪はこんな色じゃない。こんな派手な色に染めたことなんて一度もない。
「鏡……」
私のつぶやきに、赤髪男は即座に手鏡を差し出してきた。
「なん、で」
明るい緑色の瞳、明らかに人種が違う彫りの深い顔、そしてこの髪。渡された鏡の中から呆然とこっちを見てたのは、知らない女の子だった。
「アン、やっぱりまだ休んでいた方が――」
「触んないで!」
伸びてきた赤髪男の手を叩き落とすと、そのままベッドから飛び出した。なんかわかんないけど、ここにいちゃいけない気がしたから。
「アン!」
「離せ!!」
なのに、ソッコー赤髪男につかまった。全力でもがいてるのに、赤髪男はびくともしない。結局そのまま抱えられてベッドに逆戻り。
「混乱してるんだね。でも、大丈夫だから。ね、とりあえず今は休もう」
「違う! 離して!!」
にこにこと、私の訴えを全無視した赤髪男が耳元で囁く。
「おやすみ、アン」
瞬間、首にちくっとした痛みがはしって…………
※ ※ ※ ※
「死ぬまで……ううん、死んでも離さない」
「もう。アイビーってば重すぎ」
「だって。アンが好きで好きで、どうしようもないくらい好きなんだ」
色とりどりのカーネーションの中、笑う私を抱きしめながら肩に顔をうずめてきたのは、あの赤髪男だった。
「愛してくれるのは嬉しいけど、そんなんじゃ私が先に死んじゃったらどうするの?」
「だから、死んでも離さない」
「なにそれ。も~、わけわかんないな。ま、でもそれならいっか」
笑う私から気持ちが流れ込んでくる。
――私を追って死ぬとか言わなくて、よかった。
くすくすと笑いながら、私は真っ赤な髪を優しくなでる。
「アン、俺をひとりにしないで。俺には、アンだけなんだ」
「まーた、そういうこと言う。アイビー、世界にはたくさんの人間がいるんだよ。私以外にも、たくさんの人間が」
「いらない! アン以外の人間なんて必要ない。機械人形たちとアンがいれば、俺は生きていける」
「アイビー……ほんっとに、仕方のない人」
愛されているという明るい喜びと、依存されているという昏い喜びが流れ込んでくる。赤髪男を重いというけど、笑っている私も大概だ。縛られて、依存させて、それに喜びを感じてる。
「アン。死んでも、絶対に離さない」
※ ※ ※ ※
「アン! 気分は? 体はなんともない?」
視界の暴力、再び。目を開けた瞬間飛び込んできたのは、またもや視界いっぱいの赤髪のご尊顔。顔だけはきれいだよなぁ、こいつ。
「だから。私はアンなんて名前じゃない」
即座に否定したものの。今の夢のせい? こいつにアンって呼ばれることに、なぜか違和感を覚えなくなっていた。むしろ、嬉しささえ感じる。
「でも……じゃあ、なんて呼べばいい?」
困り顔のイケメンに見つめられるって、なんかいたたまれない。自分は全然悪くないのに、罪悪感を覚えてしまう。くっそ、イケメンめ。そして面食いの私め。
「…………アン、でいい」
結局折れた。だって、名前も他のことも、何も思い出せないんだもん。妥協だ、妥協。他にいい名前も浮かばなかったし。
「よかった! アン、お腹空いてない? 機械人形になんか持ってこさせるね。白インゲン豆の煮込み、牛肉の赤葡萄酒煮込み、鳥の香草焼きに林檎のパイに……あとは」
「ストップ! アイビー、私、寝起きでそんなに食べられない」
すごい勢いで部屋を出ていこうとしてた赤髪が、同じくらいすごい勢いで戻ってきた。
「は? え、なに?」
「アン。もしかして、記憶の混乱おさまってきた?」
ベッドに乗り上げた赤髪。三度の至近距離。こいつのパーソナルスペースどうなってんの?
「い、いえ。相変わらず自分の名前もわかんない、です」
正直に答えた途端、赤髪の顔がぱっと輝いた。
「でも、俺の名前は思い出してくれたんだ! 嬉しい!!」
「ちょっと!」
いきなりテンション爆上げで抱き着いてきたし。イケメンだからってセクハラが許されるとか思うなよ。
って、思うのに。ああ、もう。絶対さっきの夢のせいだ。うっかり夢の中の赤髪の名前呼んじゃったらそれが正解だわ、抱きつかれてるってのに嫌な気しないわ。私、どうなっちゃたんだろ。
もしかしてあの夢、私の記憶のかけらなのかな?
アイビーの名前以外わからないまま、無情にも時は過ぎていき。あれから十日。何もわからない私は屋敷から出ることもできず、ただただアイビーに傅かれ甘やかされていた。まるで優しく目隠しをされているような生活。何も考えなければ、きっとこのままでも幸せなのかもしれない。
でも、心の奥がざわつく。このままじゃダメだって。大切なことを忘れてるって。
「よし、逃げよう」
このままじゃ、たぶんなし崩しに絆される。イケメンで優しくて私を好きって言ってくれる、そんな人に甘やかされ続けたら……弱い私は、ほぼ絶対落ちる。だって、すでに落ちかけてるし。
今日は珍しくアイビーが出かけてる。納品とかなんとか言ってたから、たぶん仕事なんだろう。こんなチャンス、思い立ったら即行動しかない。逃げるにしても、色々下準備は必要なはずだし。ひとまず今日は門まで行ってみよう。
「あ……さえ、いな……ば」
玄関を出て門までの一本道を歩いてたら、なんか聞こえた。女の人の声?
「……え、……れば」
どっから聞こえてくるんだろう? 花壇? ううん、もっと向こうの方。庭の方から。
このお屋敷、私とアイビーとゴーレムたち以外はいないと思ってたのに。もし他に誰かいるなら会ってみたい。
石畳の一本道をそれて庭に入ると、カーネーションが辺り一面に咲いていた。声はこの辺りからしてる。
「誰かいるんですか?」
呼びかけたけど反応なし。でも声は依然聞こえてくる。ボソボソと小さな声だからなんて言ってるのかまではよくわかんないけど。周りに人なんていなさそうなんだけどなぁ。カーネーションの中に隠れるとか無理だし。
「ん?」
白にピンクの絞り模様のカーネーションが群生する中、一点だけ異質な場所があった。たくさんのカーネーションの中、ぽつんと埋もれるように咲いていたのは白いスノードロップ。
「開花時期、重ならないはずなのに」
名前とか住んでたとことか本当に大事なことは何一つ憶えてないのに、花の名前やら、そんなことだけは妙に覚えていて。なんて役に立たない記憶。それとも忘れてる私は、花の関係の仕事とか勉強とかしてたのかな?
「あんたさえ、いなければ」
なんて思考を中断したのは、あの探してた声だった。それは、スノードロップから聞こえていて。
「あんたさえいなければ、アイビーはあたしのものだったのに!!」
スノードロップから放たれた憎悪の叫び、それは私の胸を貫き――
※ ※ ※ ※
「あんたさえいなければ、アイビーはあたしのものだったのに!!」
泣きながら私を刺したのは知らない女の人だった。私さえいなければって、何度も、何度も。暗くなってく視界の中、馬乗りになってた女が殴り飛ばされる。直後、アイビーの泣き顔が視界を埋め尽くした。
「アン! すぐに手当てするから」
ううん、無理だよ。ごめんね、アイビー。もう喋れないし、見えないの。ごめんね、本当に私の方が先に死んじゃうなんて思ってなかった。
「離さない……死んでも、絶対に離さないから」
どうか、私のことは忘れて幸せになって。あなたは生きているんだから。生きて、幸せになって。
「撫子ってさ、古風な名前だよね」
「いい名前でしょ。気に入ってるんだ~」
唐突に場面が転換した。見慣れたアスファルトの道路、高校の制服、車、電車……思い出した。そう、ここは私が暮らしていた場所――日本。
私は、生まれ変わったんだ。アン――ダイアンサス――だった頃の記憶をすべて失って、日本人の撫子として。
「でもさ、撫子って名前なのに、アンタいつもカーネーション育ててるよね。なんで? そこはナデシコじゃないの?」
「うーん……なんか懐かしいっていうか? 自分でもよくわかんないんだけど、なんでかカーネーション好きなんだよね。あ、それにほら、まったく無関係ってわけでもないんだよ。カーネーションの和名、麝香撫子だもん」
カーネーションが懐かしいのはダイアンサスの名残だったんだ。思い出した、全部。ダイアンサスだった過去のことも、撫子になった現在のことも。
※ ※ ※ ※
「アン! アン!!」
「……アイビー」
目を開けたら、またアイビーのアップだった。さすがに四度目にもなるとびっくりよりもおかしさの方が強くて、思わず吹き出しちゃった。あ、アイビーが変な顔してる。
「ごめ、ごめん。このシチュエーション、四度目だなぁって思ったら、おかしくなっちゃって」
「俺は心臓が止まるかと思ったよ!」
「だからごめんってば」
愛しいアイビー。全部思い出しちゃった今、もうこの想いは否定できない。
「ごめんね。ひとりにしちゃって」
「アン? え、もしかして……!」
言葉で答える代わりにアイビーをぎゅっと抱きしめた。伝わるかな? 全部、思い出したよ。
「アン……戻ってきてくれた! 何度も、何度も喚んだんだ。何度も失敗して、でも、ようやく……」
何度も呼んだ? 私がここに来たのは偶然……じゃない?
アイビーのもらした言葉に胸がざわつく。
「ねえ、アイビー。私、もうダイアンサスじゃないの。今は撫子って言う名前で、別の世界で、別の人生を生きているの」
「知ってるよ。ニホンっていう国がある世界だろ? 探し出すのに苦労したよ」
待って。なんでそれをアイビーが知ってるの? 私、まだ何も言ってない。
「何度も喚んだんだ。でも、なかなかうまくいかなくて。何体もホムンクルスを使って……やっと、成功した」
「アイビー?」
子供の頃、何度か死にかけたことがあった。それってまさか……
胸の奥がざわざわする。
「あの女をぶち殺したあと、動かなくなったアンの体からホムンクルスを造ったんだ」
ぞくり、と。背筋を悪寒が走る。
けどアイビーはそんな私に気づくことなく、褒めて褒めてとねだる子供のように目を輝かせて喋り続ける。
「でもね、そいつはアンにはならなかった。魂が違ったから。だから、俺はアンの魂を探したんだ。そんでアンがいつでも帰ってこられるように、魂を入れないホムンクルスをたくさん作って、何度も喚んだんだ」
「ねえ、ちょっと待って。私がこの世界に来たのって……アイビーが呼んだ、から?」
「うん! でもアンってば全部忘れちゃってて。俺、すごい悲しかった」
何度も呼んだ。何度も死にかけた。成功した――じゃあ、日本の私の体は?
「アイビー! 私、帰りたいの」
「うん、帰ってこれたよ」
「違う! 私はもうダイアンサスじゃないの。撫子なの。だから、私の帰る場所はここじゃない。家族も友達も、たくさんの人が待ってるの」
にこにこと、アイビーは首を横に振った。
「無理だよ。だって、もうあっちにアンはいないから」
「殺したの!? 私を、撫子の体を!」
ひどい。ひどい、ひどい、ひどい! お父さんにもお母さんにも、みんなにももう会えない。樹医になる夢だって、もう叶えられない。
ダイアンサスとしてのことなんて全部忘れてたのに。私が死んだあと、アイビーには全部忘れて幸せになってほしいって願ってたのに。
「アンの帰る場所はここだよ。ここだけだ」
ひどい人。なのに、思い出したダイアンサスの心は憎むよりも愛することを取ろうとする。でも、撫子の私はそれを許せない。
「混乱してるんだね。でも、大丈夫だから。ね、とりあえず今は休もう」
「違う! 離して!!」
かちり、と。額に冷たい金属の感触。
頭の中に靄が広がっていく。それは、撫子の記憶を侵食して……
「おやすみ、ナデシコ」
冷たいキスが落ちてきて、私はあなたの奴隷になる。
※ ※ ※ ※
花言葉
まだら模様・複色・絞りのカーネーション
「私はあなたの奴隷になる」「愛の拒絶」
アイビー
「永遠の愛」「友情」「信頼」「死んでも離れない」
スノードロップ
「希望」「慰め」「あなたの死を望みます」
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